「あ……」
思わず俺は声を出してしまっていた。というのも、その顔には見覚えがあったからだ。
そして、隣に越してきた住人は俺の怒ったような声に気づいてくれたのか、すぐに謝ってきた。その時点で、怒る気も少し失せてしまっていた……いや、もしかしたらそれは、彼が俺の――そう、俺の憧れのアイドルだったからかもしれない。
「あ、すみません……うるさくしてしまって……。確かに夜中に引っ越しなんて非常識すぎるのはわかっているんですが、どうしても昼間は仕事で忙しくて、この時間しか動けなくて……」
そう言いながら、その人物は立ち上がり、申し訳なさそうに後頭部に手を添えて謝ってきた。
その顔を見た瞬間、俺は思わず、
「あ、あーっ!」
と、叫んでしまった。
だって、俺の家の隣に引っ越してきたその人物は、俺がずっと憧れていたアイドル――**聖修(せいしゅう)**だったのだから。
「せ、聖修……!?」
酔っていたはずの俺の意識は、その瞬間、一気に覚めてしまった。目を丸くして、俺は彼を凝視してしまう。
「え? あ、まあ……確かに、そうなんですけど……とりあえず、私がここに住んでることは他の住人には内緒ですよ?」
そう言って、彼は唇に人差し指を添えた。誰にも知られたくないという気持ちが、ひしひしと伝わってくる。
「え? はあ……まぁ……」
聖修の言うとおり、もし俺が「このマンションに聖修が住んでる」なんて言いふらしたら、ファンが押し寄せて引っ越し騒ぎになりかねない。そうなったら俺だって後悔するに決まっている。だから、ここは黙っておくのが一番だ。
「あ、すみません……それと本当に申し訳ないのですが、今回はあまりにも突然だったもので、まだ何も用意できていないんですよ。引っ越したら、普通は挨拶回りとかしますよね? でも、挨拶の品をまだ買いに行けてなくて……。とりあえず、お隣さんということで、今後ともよろしくお願いします。改めまして、私の名前は**奥井 聖修(おくい せいしゅう)**です」
「あ、えっと……よろしくお願いします。俺は、**神楽 尚(かぐら なお)**って言います。って、すみません……つい、『聖修』って名前の方で呼んじゃって……癖でして……」
「ってことは、私のグループのことをご存知なんですか?」
「あ、いや……“ご存知”も何も……」
俺はその言葉を濁しながら、思わず視線を逸らしてしまった。本人だとわかった瞬間、まともに顔を見ていられなくなったというのもあるし、それに名前を呼び捨てにしてしまったのも、いつもライブDVDで叫んでいる癖のせいだった。
「聖修!」「せ・い・しゅ・う!」「聖しゅー!!」なんて、ライブ会場でファンの女の子たちと一緒になって叫んでいたから、呼び捨てがすっかり癖になってしまっていた。でも、さすがに本人を目の前にして呼び捨てっていうのは、やっぱりマズかったかな……と、少し後悔した。
「あ、でも……“聖修”で構いませんよ。いつもそう呼んでるなら、そちらの方が呼びやすいでしょうし」
「あ、いや〜、すみません……」
俺はサラリーマン、彼はアイドル。身分が違うのか、それとも俺が勝手に恐縮しているだけなのか……自分でもわからないけど、つい頭を下げてしまっていた。
でも、さっきの自分の思いとは裏腹に、聖修に「呼び捨てでいい」と言われたのだから、もう気にしなくていいのかもしれない。
「とりあえず、今日はこれで失礼しますね」
そう言って、俺は急いで自分の家へと戻った。……というのも、緊張と酒のせいで、実はトイレに行きたかったのが本音だった。
玄関のドアにもたれかかり、俺は大きく息を吐く。
――「こんな夜中に引っ越しなんて非常識だ!」と意気込んでいたはずなのに、その相手がまさか憧れのアイドルだったなんて……。本当に夢のような話だ。あれだけ意気込んで注意しようとしていたのに、実際に本人を目の前にしたら、何も言えなかった。
でも、その憧れの人と少しだけでも会話ができた。それは営業先で得意先と話すよりも何倍も緊張してしまう体験だった。
胸がドキドキしていたのは、きっと酔いのせいでも緊張のせいでもない。ただただ、ときめいていたのかもしれない――。