目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第12話

「ちょ、ちょっと! 待っててくださいね!」


 俺は慌てた様子で急いで玄関へと向かう。


 さっきまでチャイムの音にイライラしていたはずなのに、相手が聖修だと分かった途端、気持ちはすっかり元に戻っていた。いや、それどころか、むしろニコニコ顔になっていたと思う。


 そりゃまあ、人間ってそういうものだ。自分の好きな人が訪ねてきたのだから、イライラなんてどこかに吹っ飛んでしまうし、代わりに自然と笑顔になるのは当たり前のことだろう。


 玄関に着き、ドアを開けると――そこには本当に聖修の姿があった。


「あ……」


 また声が裏返ってしまった。


 昨日は少し酔っていたせいもあり、記憶が曖昧だったけれど、今は完全に酔いも覚めて、頭もスッキリしている。目もパッチリ開いているし、これは夢でも妄想でもない、れっきとした現実だ。


 目の前の光景に目をぱちくりさせていると、聖修が口を開いた。


「昨日、お話しした通り、ご挨拶に来ました。昨日、隣に引っ越してきた奥井聖修です」


 そう、丁寧に挨拶してくれる。


 聖修がアイドルだったときは、俺にとってまさに“雲の上の存在”だったけれど、今目の前にいる聖修はプライベートの時間。まるで普通の人のように感じられる。


 だけど……やっぱり本物が目の前にいるってだけで、心の中では「本当にこれは現実なのか!?」と疑ってしまうほどだ。


「あ、はい……。ど、どうも……」


 緊張でどもってしまうのも仕方がない。


 そんな俺に、聖修は引っ越し蕎麦を差し出してくれた。


「あ、ありがとうございます……」


 ……俺、ちゃんと対応できてるか? 緊張しすぎて、今のやり取りの記憶も曖昧な気がする。


 手汗まで出てきているくらいだし……。


 手渡された引っ越し蕎麦――あの聖修が、俺に“お土産”を持ってきてくれるなんて、思ってもみなかった。


 普段なら俺の方がファンとしてお土産を渡す立場なのに、今日はその逆。嬉しすぎて、もうご近所中どころか、SNSで自慢したいくらいだ。


 けれど、昨日聖修が言っていた「このマンションに住んでいることは誰にも内緒」という言葉が思い出される。


 俺がもし誰かに話してしまったら、この場所にファンが殺到するかもしれない。それは聖修にも、周囲の住民にも迷惑がかかることになる。


 いくらアイドルでも、家ではゆっくり過ごしたいだろう。――俺はそう思い、絶対に誰にも話さないことを心に誓う。


「じゃあ、今後ともよろしくお願いしますね」


 そう言って笑った聖修の顔は、アイドルとしての笑顔とは違って見えた。きっと、これが“プライベートな笑顔”というものなのだろう。


 それは、俺だけが見れた笑顔。――俺だけの宝物だ。


「あー! ちょっと……」


 もっといろいろ話したかったけれど、挨拶回りに来ただけの聖修を引き止めるわけにもいかず、言葉を飲み込んでしまう。


 その声に、聖修は一瞬、首をかしげた。でも俺はとっさに作り笑いをして、


「あ、いや……な、なんでもありません! あ、ありがとうございました!」


 と、なぜか頭をぺこりと下げてしまっていた。


「いえいえ……」


 そう言って、聖修は部屋へと戻っていった。


 ドアを閉めた後、俺は思わずため息をついた。


 ――自己嫌悪、ってやつかな。


 本当はもっと話したかった。でも、言葉が出てこなかった。


 やっぱり、目の前に聖修がいると、緊張しすぎて何も言えなくなってしまう。それが現実だ。


「ま、でも……一般人と有名人が普通に話すなんて、そもそも無理があるよな……」


 そう、俺は一人、部屋の中でぽつりとつぶやいた。


 そしてようやく、部屋の中に戻るのだった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?