八月のある日。
俺は、新東京国際空港で菱前老人と待ち合わせた。
『東京』と名がついているが、千葉県の成田市にある。
あと十数年もすれば、この空港は民営化され、成田国際空港と名を変える。
これからロサンゼルス行きの飛行機に乗るのだが、老人はなぜかターミナルの展望デッキへ俺をいざなった。
フライトまでの時間はまだ十分あるので、俺に否はない。
ただ、時間までラウンジでゆっくりすると思っていたため、少々意外だ。
「なに、ただの気まぐれよ」
不審顔する俺にそう言って、老人は滑走路にある飛行機に目をやった。
ちょうど誘導係に促されるまま、機体の位置を変えている最中で、尾翼の図案がよく見えていた。
「
老人の視線の先を追って、俺はそう呟いた。
赤い鶴が羽先を頭上で合わせている。
JALのマークだ。
「あの機体は747じゃな。その前のDC機もよい機体じゃった。ワシのところも頑張ったんじゃが、ついぞ国産機製造までは至らなかった」
「国産旅客機も製造されていたのですか? かなり厳しい検査があると聞きましたが」
ヒシマエ重工は、船舶や工事車両から送電機器、工業機械、精密機械など、多くのものを製造していたが、どうやら飛行機の機体製造の開発も行っていたらしい。
「おぬし、詳しいの。戦争で優秀な技術者がみな逝ってしもうての。旅客機製造など、夢のまた夢じゃったが、それでも夢を追う若者があとを絶たなくてのう」
最終的に、開発のゴーサインを出したらしい。
「それは知りませんでした」
「うむ。最終的に検査はクリアしたが、ついぞ買い手は現れんかった」
旅客機として認められるには、操縦のしやすさや安定性のほかに、空中でのローリング検査など巨体に似合わず、かなり厳しいクリア基準がある。
戦後の人と物がない時代に、ヒシマエ重工は世界と互角に戦える旅客機を一度は作ったようだ。
エンジンはYS機を真似たか、そのまま流用したのだろうが、のちの技術国日本を先取りする快挙だろう。
だがいくら財閥とはいえ、買い手が現れなかったのは民間企業の限界か。
もしかしたら、ここにヒシマエ重工の飛行機も並んでいて、老人の目にはそれが見えているのかもしれない。
「うむ、満足した」
老人はひとつ頷くと、踵を返した。
背後の747機を振り返ることはなかった。
1970年当初、海外旅行は一生に一度の機会などと言われていた。
なにしろ、海外旅行が自由化された60年代の中頃、大学の初任給が一万円程度だったにもかかわらず、半月ほどの海外ツアーでおよそ七十万円もかかったのだ。
時代が進めばツアー料金も半額ほどに落ち着くが、それでも気軽に行ける場所ではなかった。
それゆえ、海外旅行にまつわるウソか本当か分からない噂が飛び交ったという。
たとえば、金属探知機を通過するためには、指輪やベルトを外さなくてはならない。
金歯銀歯を入れている場合、あらかじめ申請しておく必要があるなどである。
昔、係員に向かって人差し指で口を広げ、金歯銀歯を見せた人が出たらしい。
菱前老人はもちろんそんなことはせず、普通に搭乗した。
草履も脱がなかったし、念仏も唱えなかった。残念だ。
「離陸まで二十分ほどか」
「そうですね。退屈ですか?」
「いや、老人は待つのに慣れておるよ」
そう言って老人は、静かに目を閉じた。
俺は座席にあった三つ折りのリーフレットを手に取った。
JALが用意したものらしく、俺たちが乗り込んだ飛行機の写真が表紙に載っていた。
このあとJALすらも負の遺産が処理しきれず、一度は経営破綻し、国有化される。
国有化にあたり、退職者に支払われていた特別年金受給者たちの承認を得るため、タイムリミットギリギリまで票を集め、その様子をテレビで放映していたのを覚えている。
銀行はほとんどの債権を放棄し、上場してあった株券はすべて紙くずになった。
すぐに再上場したが、倒産する前の旧株券はもはや何の価値もなくなっていたのだ。
『――アテンション・プリーズ。みなさまこんにちは。当機をご利用ありがとうございます。機長の山本でございます……』
機内アナウンスがはじまった。
すると隣で老人がフフッと笑った。
「どうしました?」
「……なに、今年のGWに中国に行ったときのことを思い出しての」
「何か楽しいことでも?」
「うむ。アジア線は全日空が強いのじゃが、運悪く霧で滑走路が見えなかったのじゃ」
「着陸できませんね」
「そうしたら機内アナウンスがあって、誘導灯が消えているので滑走路が見えませんが、いつものことです。このままアタックしますと言って、綺麗に着地したのを思い出しての。日本人の操縦技術は、戦時中の頃となんら変わっておらんわ」
老人は嬉しそうだ。
俺なら機長に文句を言いたいところだが、いや、その前に管制塔か。
この時代の中国はかなりいい加減で、大学のときに中国へ行ったが、大雨でホテルの電気と水道が止まってしまった。
別のホテルに移ったら、そこは雨漏りがしていた。散々な旅行だったのを覚えている。
離陸してからは何事もなく時間が過ぎ、もうすぐロサンゼルス国際空港へ到着するとアナウンスがあった。
「空港には迎えの者が来ておる」
社員は先に行かせたらしい。
「そういえば、サンフランシスコ国際空港を使うのかと思いましたが、ロサンゼルスなんですね」
カリフォルニア州には、日本から発着できる二つの国際空港がある。
この時代、JALが入っている空港は、ハワイのホノルル国際空港を除けば、イリノイ州にあるシカゴ・オヘア国際空港やニューヨーク州にあるジョン・F・ケネディ国際空港くらいしかない。
もう少しするとテキサス州のダラス・フォートワース国際空港や、ワシントン州のシアトル・タコマ国際空港にも発着がはじまるが、この時代ではまだ直通便はなかったはずだ。
「ロサンゼルスでパーティがあるらしい。ワシらはそれに出席する」
「パーティですか。それはまたアメリカらしいですね」
ホームパーティから、企業のビジネスパーティまで、アメリカ人のパーティ好きは有名だ。
オフィスにパーティルームを備えている企業もあったりする。
日本に来た助っ人外国人プロ野球選手が「日本人は冷たい。一度もパーティに呼ばれたことがない」と嘆いたが、そもそも日本人はパーティを開かない。
ホームパーティ大国のアメリカからしたら信じられないことだろうが、そんな習慣はないのだ。
「おぬしはワシの親戚。今回は通訳として同行していることになっておるからな」
「分かりました。しっかり通訳しますよ」
そんな話をしている間に、飛行機は着陸態勢に入った。
『夢』では何度も訪れたアメリカに、俺は帰ってきた。
「I'm back!(帰ってきてやったぞ!)」
思わず、そう口をついた。
そう俺は、アメリカに帰ってきたのだ。
この因縁の地に、俺はまた、足を踏み入れることになる。