破天荒にも、あの葛城圭介が一歩引いた。
それだけ、この誕生日パーティーを諦めたくなかったのだろう。
まあ、そうだよね…
もし彼が見栄を張らない人間だったら、学校で金持ちキャラなんて演じないだろうし、こんなにたくさんの同級生を招待することもなかった。
そっか、あの葛城圭介でも、恥をかくのは怖いんだ。
あの冷たくて気高い圭介の姿を見てきた美也子にとって、今こうして誕生日会のために妥協している彼は、なんとも滑稽で面白く感じられた。
彼女は頷いた。
「うん、分かった。今日はあんたの誕生日だもんね。みんなの雰囲気を壊すのも悪いし、そうでしょ?」
そう言ってから、隣にいたマネージャーに視線を向けた。
「前に、ここのホテルで『翡翠の間』を予約しておいたの。葛城圭介の名前で」
マネージャーは手元の予約リストを確認してから言った。
「はい、如月様。確かにそのように承っております。」
「葛城くんの誕生日なんだから、その会場、彼に使わせてあげて」
そう言いながら、圭介を見た。
「これで、いいかしら?」
圭介は彼女が折れたのを見て、ほっと息をつき、美也子を見つめながら言った。
「やっぱり、これ全部、俺と恵理を別れさせるためなんだろ?俺たちが一緒にいるのがそんなに気に食わないのか?」
「考えすぎ。」
美也子ははっきりと答えた。
「あんたが誰と付き合おうと、私には関係ない。圭介…時間が経てばわかるわよ。私、如月美也子がいなければ、あんたなんて何の価値もない」
近くで立っているマネージャーの前で、美也子のその言葉に、圭介は顔を潰されたような気分だった。
「もういい、話すだけムダだ」
彼はぷいっと背を向け、そのまま立ち去った。
マネージャーが美也子に向き直り、確認した。
「それでは、『翡翠の間』の準備を進めてまいります。」
美也子は頷いた。
「うん。でも、支払いは、彼にさせて。支払いが済むまでは、ひとりも帰さないように」
「かしこまりました、如月様。」
圭介は恵理のもとへ戻っていた。
恵理は彼の不機嫌そうな顔を見て、不安げに尋ねる。
「どうだった?美也子と何話してたの?」
「別に、大した話じゃない」
彼は目の前の優しくて気配りのできる恵理を見つめながら、心の中で毒づいた。
恵理と別れろって?
冗談じゃない!
今日のパーティーが終わったら、もう美也子とは完全に縁を切ってやる。
二度と、あんな女に優しくなんてしない!
一方その頃、宗弥はレストランの一角でメニューに目を落としていた。
シンプルなTシャツなのに、彼が着るととても上品に見える。
美也子が入ってきたとき、彼はちょうど俯いてメニューを眺め、気配を感じて顔を上げると、そこに彼女が立っていた。
美也子はにこっと笑った。
「待たせちゃった?」
「ううん、今来たところ」
宗弥の視線が彼女の姿に移る。今日の美也子はふわふわのスカートを着いていて、とても可愛らしい。
ただ…
少し痩せすぎ。
美也子は、ごく自然に宗弥の隣に腰を下ろした。
宗弥は、彼女がこんなに近くに座るとは思ってもみなかったので、少し戸惑ってしまう。
席はたくさん空いているのに、わざわざここに……
しかし美也子は、彼の戸惑いなどまるで気づいていないように尋ねた。
「もう注文した?」
「まだ、今見てたところ」
「ちょっと見せて」
そう言って、彼の手元のメニューを一緒にのぞき込むように顔を近づけた。
宗弥はもうメニューどころではない!
美也子の存在が近すぎて、意識はずっと、彼女に向けられている。
どんなシャンプーを使っているのか、ほのかに香る匂いは甘すぎず、さわやかで心地よい。
美也子は、九州料理をいくつか選んで注文した。
味の濃いものを食べたくて、そうすることで「自分はまだ生きている」と実感できるような気がした。
食べるものにも困り、着るものもなく、ろくに眠れず、病に蝕まれた日々は、彼女にとって本当に苦しかった。
たとえ今こうして生まれ変わったとしても、ときどき夢の中では、前世に戻ってしまうこともある。
辛いものを口にして、思わず手で扇ぎながら、スイカジュースをひと口飲んだ。
宗弥が彼女を見ながら聞いた。
「辛いの、好きなの?」
「まあまあかな」
美也子は顔を上げ、彼の目を見て答えた。
「宗弥は?」
「俺も好き」
彼はそう言いながら、箸を取って料理を少し自分の皿に取り分けた。
個室には、仲居が静かに控えていた。
しばらくすると、ローヤルホテルのオーナーがやってきた。
彼の名は中村勇樹。
彼を見かけた美也子は、礼儀正しく声をかけた。
「中村おじさん」
中村勇樹は美也子に笑みを向けた。
「おお、美也子ちゃんもいたのか」
その言葉を聞いた時点で、美也子は彼が自分に用があって来たわけではないと悟った。案の定、中村勇樹はすぐに宗弥のほうへと歩み寄り、丁寧に挨拶をした。
「九条様、本日は当ホテルにご来館いただきありがとうございます。何か至らぬ点がございましたら、どうかお申し付けください。」
彼は美也子の父と親しい関係にあり、それを通じて宗弥の正体を知った。
普通の人には想像もつかないことだが、東都に名を馳せる九条家の御曹司が、実はこの神前県に身を潜めていることを。
宗弥は「うん」と短く返事をしただけで、また料理を食べ始めた。
とても冷たい対応だった。
美也子は、彼のことをもっと気さくなタイプだと思っていたが、実際に付き合っていると、人付き合いはあまり好きではないらしい。
中村勇樹はしばらくそばに立っていたが、宗弥に水を注いでも無反応。その空気は、まるで「他人は立ち入るな」と言わんばかりで、個室全体に緊張感が漂っていた。
やがて中村勇樹は、その空気を察して笑顔を作りながら口を開いた。
「それでは私はこれで。どうぞごゆっくりお楽しみください。美也子ちゃんも、どうぞごゆっくり」
「ちょっと待って、中村おじさん」
美也子が彼を呼び止めた。
その声に足を止めた中村勇樹は、振り返って戻ってきた。
「美也子ちゃん、何かご用かな?」
彼はいつも通り、朗らかな笑みを浮かべていて、いかにも温厚そうな人物だった。だからこそ、美也子は彼に対して悪い印象を持ったことはなかった。
もし自分の記憶が確かならば。前世では、ローヤルホテルは圭介の誕生日パーティーの三日後に火事を起こしている。厨房の防火設備がずさんで、火が出たときにはすでに消火器が役に立たなかったという。
その火事では、死者まで出た。
その事件をきっかけに、それまで神前県で最も名の知れたローヤルホテルは、一気に評判を落としてしまった。中村勇樹自身も、その後体調を崩したと聞いている。
美也子は中村勇樹を見つめ尋ねた。
「ここの防火設備は大丈夫でしょうか?」
突然の質問に、中村勇樹は少し驚いた表情で彼女を見た。
「どうして急にそんなことを?」
「なんとなく、気になっただけです。特に厨房まわりとか、もう一度チェックしてみたほうがいいんではないかと思って」
「安心しなさい」
中村勇樹は笑いながら言った。
「うちのホテルは防火対策にはしっかり力を入れてる。絶対に問題なんて起きない。お客様の安全が第一だからね!」
だが、美也子は真剣なまなざしで彼を見つめ、再度口にした。
「中村おじさん、ご自身も確認して見ればはどうですか?」
その言葉に、中村勇樹はさすがに不快そうな顔を見せた。
「どういう意味だい?美也子ちゃん。君は私のことを信用してないってこと? 私は君のお父さんと長い付き合いがあるんだ。私の人となりは、君のお父さんが一番知ってるはずだ。いつだって誠実に商売をしている。その言い方、私を疑っているように聞こえる!」
美也子は彼の娘とほとんど同い年、中村勇樹から見ればただの子供に過ぎない。
そんな年頃の子が、経営のことなど分かるはずがないと、彼はそう思っていた。
そのとき、宗弥が口を開いた。
「彼女がそう言ってるんだから、見たらどうですか」
中村勇樹が入室してから、宗弥はほとんど話をしていなかった。何を訊かれても一言二言で返すだけ。
だが今、宗弥がそう言った。その一言には、無視できない重みがあった。
「わかりました。すぐ確認してきます」
そう答える中村勇樹の表情には、宗弥への明らかな配慮があった。
宗弥は年齢こそ美也子とさほど変わらないが、その落ち着きと高い身分ゆえに、彼の言葉には自然と重みが宿っていた。