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第9話

圭介は、珍しく一歩引いた。それだけで、彼がこの誕生日パーティーにどれほど執着しているのかが伝わってくる。


まあ、当然だろう。自分のプライドを大事に思わなければ、わざわざ学校でお坊ちゃまのイメージを作り上げる必要もなかったはず。ましてや、クラスメイトを大勢招いて誕生日パーティーなんて開くこともない。結局のところ、彼だって恥をかくのが怖いのだ。


宗弥の落ち着きと自制を知った後だと、圭介がたかがパーティーのために譲歩している様子は、なんだか滑稽にも映った。


美也子は静かにうなずき、淡々と言った。


「うん、わかった。今日はあなたの誕生日だもんね。みんなの気分を壊すのはよくないでしょ?」


そう言い終えると、彼女は控えていたレストランのマネージャーに向き直る。


「先ほど予約した瑠璃の間、予約者は圭介の名前で登録されていますよね?」


「はい、如月様で承っています」


マネージャーは素早く記録を確認した。


「今日は葛城くんの誕生日だから」


美也子は圭介に視線を戻し、ほんのわずかな冷たさを帯びた声で続けた。


「この部屋、彼に使わせてあげて。これでいい?」


美也子が譲歩したことで、圭介の緊張した表情は少し緩み、ほっと胸をなで下ろした。


彼は美也子をじっと見つめ吐き捨てるように言った。


「結局、お前がこんなことをするのは、俺と恵理を別れさせたいからだろ。俺たちの仲が面白くないんだ!」


「考えすぎよ」


美也子ははっきりした冷たい声で返した。


「あなたが誰と付き合おうが、私には関係ない。圭介、いずれ時間が証明する。私がいないと、あなたは…何もできないって。」


その言葉はマネージャーの前で投げかけられ、圭介のプライドを深く傷つけた。


「もういい!」


彼は悔しさを隠せず、そのまま背を向けて立ち去った。


マネージャーは美也子に向き直る。


「それでは、瑠璃の間のご用意を進めてよろしいでしょうか?」


「ええ、お願い。ただし——」


美也子は厳しい口調で続けた。


「全ての費用は、必ず彼本人に支払わせてください。支払いが済むまで、誰一人外に出さないで。」


「かしこまりました、如月様」


マネージャーは頭を下げた。





全ての手配が済むと、美也子は宗弥の待つ個室へ向かった。


一方、圭介は恵理の元に戻ったが、まだ不機嫌そうな顔をしていた。恵理は心配そうに尋ねた。


「どうだった?何か言われたの?」


「別に」


圭介はごまかし、目の前の優しい恵理を見て心を新たにした。美也子なんかに恵理を引き裂けるわけがない。今日を乗り越えたら、もう彼女には一切、気を遣うつもりはない。


個室では、宗弥がすでに到着していた。今日は制服ではなく、シンプルな私服が彼の落ち着いた雰囲気と端正な姿を引き立てている。美也子がドアを開けると、宗弥はちょうどメニューを眺めていたが、彼女の気配に顔を上げた。


「待たせた?」


美也子が微笑む。


「今来たところだよ」


宗弥は短く答え、視線を一瞬彼女に留めた。今日の美也子はプリーツスカート姿が若々しく、少し華奢な体つきが目立つ。


美也子は自然に宗弥の隣に座った。本来なら広い席なので向かいに座るはずだが、すっと隣に来られて宗弥は少し戸惑った。


彼女はそんな宗弥の反応にも気づかぬふりで、メニューに目を落とす。


「注文した?」


「まだ見ているところ。」


「私も見せて」


宗弥の持つメニューに身を寄せる。


宗弥はもう、メニューに集中できなくなっていた。彼女の髪からふわりと香るさわやかな匂いが、心をかき乱す。美也子はいつものようにあっさりした前菜をいくつか頼んだが、今日は少し刺激のある料理も注文した。生まれ変わった今、この強い味わいが現実を強く感じさせ、病に苦しみ飢えに耐えていた記憶を追い払ってくれる気がしたからだ。


料理がすぐに運ばれてきて、辛さが舌を刺激する。美也子は少し息を吸い、季節限定のフルーツジュースを一口飲んだ。


宗弥が尋ねる。


「辛いの、好き?」


「まあまあかな」


美也子は顔を上げて彼を見つめる。


「宗弥は?」


「僕もまあまあかな」


宗弥は応じて箸を取った。


個室には静かにスタッフが控えている。


しばらくして、ロイヤルホテルのオーナー、田中達也が自らやって来た。美也子を見つけると、にこやかに挨拶する。


「美也子ちゃんも来てくれてたんだね!」


「田中さん」


美也子は礼儀正しく応じた。


田中の挨拶からして、彼女が目的で来たわけではないとすぐに分かった。案の定、田中は宗弥に向き直り丁寧に声を掛ける。


「宗弥様、本日はご来店ありがとうございます。至らぬ点がありましたら、どうぞご容赦ください。」


田中は如月家の社長と親しいため、宗弥の素性を知っている。だが、横浜では東京の名家の御曹司が身近にいることを知る人はほとんどいない。


「どうも」


宗弥は食事を続け、その態度は他人行儀で冷ややかだった。


美也子は初めて、宗弥が他人に対してこれほど冷たいことをはっきりと感じた。その雰囲気に田中も圧迫感を覚えたのか、自らお茶を注ぎつつ、長居はせずに「それではごゆっくり。美也子ちゃんも楽しんで」と言って部屋を離れようとした。


「待って、田中さん」


美也子が声をかける。


田中は足を止め、すぐに笑顔を作り直す。


「どうしたの、美也子ちゃん?」


田中は誰に対しても温和で、美也子も好印象を持っていた。


だが、彼女の脳裏に鮮明な記憶がよみがえった。もし記憶が確かなら、前世でこのロイヤルホテルは圭介の誕生日会の三日後、大規模な火災に見舞われたはずだ。


原因は厨房の消防設備の不備。しかも、消火器の一部が使えず、被害が拡大した。その火事が、横浜屈指のこのホテルにとどめを刺し、田中自身も体調を崩してしまったと聞いている。


美也子は真剣な表情で田中に尋ねた。


「田中さん、ホテルの防火対策……大丈夫ですか?」


突然の質問に田中は少し驚いた様子だ。


「どうして急にそんなことを?」


「なんとなく、厨房とか大事なところは、もう一度点検しておいた方が安心かなと思って。安全第一ですから。」


田中はやや不満げに笑顔を曇らせ返す。


「美也子ちゃん、うちはちゃんと法定の点検も済ませてるよ!お父さんとも長い付き合いだし、私の仕事ぶりは誰よりも知ってるはずだよ。私を疑ってるのかい?」


田中にしてみれば、美也子は自分の娘と同じくらいの年頃。経営や安全のことなど、分かるはずがないと思っている。


その時、黙って食事をしていた宗弥が箸を置き、落ち着いた声で言った。


「せっかく言ってくれたんだから、念のため見てきたらどうですか。」


田中が入ってきてから、宗弥はほとんど口を利かなかった。だが、この一言の重みは違う。田中はすぐに気を引き締めて頭を下げた。


「はい、宗弥様のおっしゃる通り、私自ら確認してまいります」

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