田中が出ていくと、個室には美也子と宗弥だけが残った。宗弥は何事もなかったかのように箸を手に取り、食事を再開する。美也子は新しく運ばれてきた抹茶パンナコッタをひと口食べ、その優しい甘さを味わった。
「どうして私を助けてくれたの?」
美也子はスプーンを置き、ついに問いかけてしまった。消防点検を提案したのは、前世のぼんやりした記憶に基づいただけで、宗弥にとっては根拠のない話だったはずだ。
宗弥は静かな目で美也子を見つめる。
「君が言ったから、信じただけだ。」
「もし私が適当に言っただけだったら?」
「それがどうした?」
彼は淡々と答えた。
「田中にひとつ頼みごとをしただけだ。大したことじゃない。」
胸がふいに軽く叩かれたような気がした。前世で免疫疾患と診断されたとき、浴びせられた非難の言葉が心を壊しかけた。「自己管理ができていない」「自業自得」……。自分自身すら嫌悪していた。今になってようやく気づく。誰も信じてくれなかったのではなく、彼女を陥れようとした者たちこそ、彼女の無実を一番知っていたのだと。
理由を問わず信じてくれるこの優しさが、胸にじんわり温かく染みていく。
二人ともすぐには席を立たなかった。美也子が数学の問題集を取り出すと、宗弥は箸を置き、真剣な表情で難解な幾何の問題を解説し始める。彼の説明は端的で、要点を的確に突いていた。ペン先が紙の上で滑る音が静かに時を刻む。
一方その頃、瑠璃の間はすっかり静まり返っていた。圭介の誕生日パーティーは思わぬ形で幕を閉じ、スタッフは丁寧ながらも全員の退室を断固として制止していた。まだ会計が済んでいないため、誰一人として帰ることはできない。
圭介は周囲の困惑や不満の視線にさらされ、顔が赤くなっていた。恵理の心配そうな視線を避けながら、三度目の電話を美也子にかける。
テーブルの上で携帯が震え、「圭介」の名前が画面に浮かぶ。宗弥は解説の手を止め、美也子を見る。
「出ないの?」と宗弥。
「ちょっと放っておくわ。」
美也子は画面を一瞥し、再び数式に集中する。三度目のしつこいコールの後、ようやくゆっくりと通話ボタンを押した。
「美也子!」
圭介の怒りを抑えた声は、まるで鼓膜を突き破るかのようだ。
「どういうつもりだ!」
彼の焦る顔を想像し、胸の奥底から痛快な気持ちが湧き上がる。過去の恨みは、今この瞬間から返していくのだ。
「圭介、どうしたの?誰かに怒鳴られた?」
美也子はわざとゆっくりと言う。
「ふざけるな!」
彼は歯ぎしりするように言い放った。
「今すぐ来て会計を済ませろ!俺を本気で怒らせたいのか!」
美也子は軽く笑った。
「おかしいわね。あなたの誕生日パーティーなのに、私は何も食べても飲んでもいないのに、どうして私が払わなきゃいけないの?みんなで割り勘にしたら?いつもは気前がいいんだし、ご馳走するのも好きでしょ?みんな仲良しなんだから、助けてくれると思うよ?」
でも、そのお金は全部私のものだったじゃない!
電話の向こうで、圭介の苦しげな呼吸が聞こえる。まるで追い詰められた獣のようだ。
「お前、何がしたいんだ!」
震える声で必死に羞恥と怒りを押し殺す。
「頼みごとをするなら、その態度を考えた方がいいんじゃない?」
美也子は冷たく言い放つ。
しばらく沈黙が続き、やがて歯を食いしばったような苦しげな声が漏れる。
「……頼む!」
「じゃあ、待ってて。」
美也子はきっぱりと電話を切り、宗弥に「見物に行こう」と声をかけて立ち上がる。
瑠璃の間に足を踏み入れると、空気が重苦しく張り詰めていた。着飾った同級生たちは、すっかりしおれた花のような顔で、満足しきれない戸惑いと苛立ちの表情を浮かべている。
圭介は会場の中央で青ざめ、額に血管が浮かんでいた。恵理は隣で顔色を失い、手のひらに爪を立てている。
スタッフが美也子に気づき、すぐに駆け寄る。
「如月様。」
美也子は会場を見渡し、口元に余裕のある微笑みを浮かべて言う。
「あれ、圭介の誕生日会なんでしょ?どうしてみんな、そんな浮かない顔をしてるの?」
スタッフが事務的に説明した。
「葛城様が現在、精算にお困りのご様子です。」
「そんなこと大した問題じゃないわ。」
美也子は軽く手を振り、まるで埃でも払うかのように言った。
「みんな昔からの友だちだし、今日の会計は私がまとめて払うわ。」
そう言って財布からカードを差し出す。
スタッフはそれを両手で受け取り、会計カウンターへ向かった。室内は水を打ったように静まり返り、全員の視線が美也子と圭介に集中する。驚き、戸惑い、そして信じられないという思いが交錯していた。
圭介は美也子を睨みつけ、怒りがこみ上げてくる。彼女が助けに来たわけではなく、圭介をさらし者にしに来たのだと悟った。
ピッ――
カードが通る音がやけに大きく響き渡る。スタッフがカードと長い伝票を丁重に返す。
美也子は伝票の金額を確かめ、みんなに聞こえるようなはっきりとした声で言った。
「二百万円ね……」
そして圭介に振り返り、笑顔でありながらも冷たい口調で告げる。
「お誕生日おめでとう、圭介。今年の分は私が払っておいたわ。」
彼がガクッと体を揺らすのを、満足げに見届ける。
「でもね」
美也子は語調を変え、崩れそうな恵理を横目に見やりながら続けた。
「今日だけよ。あなたを甘やかしたのは、昔の私の過ち。でも彼女まで面倒を見るほど、お人好しじゃないの。」
「何言ってるのよ!」
山本萌が叫び、美也子の鼻先に指を突きつける。
「美也子、あなたはただの運転手の娘でしょ!圭介のお金をちょっと預かってるだけなのに、自分のものみたいな顔して、何を得意になってるの!」
「運転手の娘?」
美也子はまるでおかしな冗談を聞いたかのように、ゆっくりと山本を振り返り、その目は氷のように冷たかった。
「誰が、私が運転手の娘だって言ったの?」
美也子は無表情の圭介にゆっくりと歩み寄る。ハイヒールの音が静まり返ったホールに高く響き渡り、まるで鐘の音のようだった。
「山本さんが、私があなたの家の使用人だと言うのなら……」
美也子は圭介の前に立ち、見上げながら、恐怖で縮こまる彼の瞳を真っ直ぐに見据え、一語一語しっかりと告げた。
「それなら、みんなの前で、あなたの口からはっきり言ってもらいましょう―。」
「あなたのお父さん、葛城さんは、私の家――如月家の専属運転手だったんでしょう?」
全員の視線が圭介に突き刺さる。三年間築き上げた財閥の御曹司という嘘が、この瞬間、美也子の手で粉々に打ち砕かれた。