「普段は電話が多いとうるさがるくせに……そうだ、あれは、九条家の車か?」
お父さんの言葉で我に返った美也子は、玄関の外に止まっている車に目を向けた。宗弥がちょうど車から降りたところだった。
目が少し赤くなっていた様子も、彼に見られたことで、少し恥ずかしくなった。
「うん、宗弥が送ってくれたの。一緒に夜ごはんも食べたんだ」
如月達也は驚いたように娘を見つめた。以前、自分が婚約の話を持ち出したときは、美也子はあれほど嫌がっていたというのに。
「絶対にあり得ない!」と、断言していた娘が、今では宗弥と二人で出かけるなんて。
何が彼女を変えたのか、如月達也には分からなかったが、宗弥に向かって声をかけた。
「宗弥、ここでお茶でもどうだ?」
「如月さん、こんばんは。今日はこのまま失礼します」
宗弥はそう言って、美也子を見て、再び車に乗り込んだ。九条家の車は静かに離れた。
美也子もそのまま父と共に屋内へ戻った。
「まさか、宗弥に何かされたのか?」
娘の赤い目と、どこか浮かない顔を見た如月達也は、心配そうに尋ねた。
美也子は首を横に振った。
「ううん、宗弥はすごく優しかったの」
ソファに座り、お父さんの視線を感じながら彼女は思った。
――この頃のお父さんは、まだ若い。
もちろん、亡くなる時だって、決して老けてはいなかった。でも、あの時のお父さんは、すごく年老いて見えた。
何度も圭介にいじめられていないか確認してきたお父さんに、美也子はやっと笑顔を返した。
月曜日の朝。
まだ起きたばかりの美也子の元に、理子さんが知らせに来た。
「葛城圭介がいらっしゃっています」
昨日の夜のことを思い出す。
あんな騒動があって、関係は完全に壊れたはずだ。圭介だって、もう自分が甘やかしてくれないことは分かっているだろう。
それなのに何故この家に来たの?
階段を下りていくと、リビングには圭介だけでなく、彼の父親もいた。圭介の父はソファに座って、如月達也に向かって話している。
「如月社長、今回はうちの圭介が本当に無礼を働きまして、厳しく叱っておきました。今後は決して美也子に迷惑をかけることはありません」
「美也子?」
如月達也は眉をひそめる。
「娘を呼び捨てで呼ぶとは、何様のつもりだ!」
達也は以前からこの親子のことをが気に食わなかった。
もし娘が阻止しなければ、とっくに縁を切っていたはずだ。
圭介の父は自分の失言に気づき、慌てて訂正した。
「失礼しました。お嬢様!」
ちょうどその時、美也子が階段から降りてきて、葛城の父はすぐに彼女に視線を向け、へりくだった笑顔を作った。
「お嬢様、おはようございます。今日は圭介を連れて、正式に謝罪に参りました」
美也子はソファに目をやった。そこには、どんよりとした顔の圭介が座っていた。一言も喋らず、ただ不機嫌そうに黙っている。
謝罪?
その態度で?
美也子には、彼が謝罪のために来たとは思えない。その顔には、誕生日の一件をまだ根に持っているような怒りが、はっきりと浮かんでいた。
「葛城さん、何をおっしゃっているんですか?圭介くんには、私に対して何の非もありません。謝罪なんて必要ありませんよ」
「ですが、彼を解雇したって聞いたんですが…」
葛城の父は、息子の解雇に関して焦りを隠せなかった。彼自分が解雇されたときでさえ、ここまで慌てなかったのに。
それは無理もないこと。
圭介は美也子に勉強を教えるだけで、大金を手にしていた。上手くやれば、婿養子として如月家を継ぐ可能性だってもある。
そんな状況で、美也子との関係が壊れるなんて、彼としては許せなかった。
「彼に勉強を教えてもらってから、成績がどんどん下がる一方で……それに圭介自身も、教えても無駄だって思っていました。私が馬鹿すぎて、手に負えないって言ってたので、彼の希望に沿って、止めさせたの。別に揉めたわけでも、彼に恨みがあるわけでもありません。だから、謝る必要はありません」
如月達也はそんな娘の様子を黙って見つめていた。
かつて、圭介と付き合いたいと騒いでいた娘が、自分で手放すなんて。補習を頼まれて断り切れず、しぶしぶ承諾した自分の気持ちを思い出す。
そんな彼女が、今はこんなに落ち着いて圭介を辞めるとは…
成長した?
達也は少し驚き、そしてほんの少しだけ、嬉しそうな表情を浮かべた。
美也子は授業があり、ごはんも食べるため、葛城を追い出した。
ご飯を済ましたあと、裏庭には運転手が車を用意して待っていた。
車に乗り、如月家の門を出たとき、玄関前に圭介とその父親の姿が見えた。
彼女がちらりと視線をやると、先ほどとはまるで違う空気がそこにあった。
葛城の父親が、無言のまま息子の頬を平手打ちしたのだ。
バシンッ!
圭介の家庭事情は、美也子も知っている。彼の父親はギャンブル好きで、母親はそれに耐えきれず、圭介を置いて家を出て行った。
父親と二人暮らしたから、学費も親戚に跪いて借りたという。少し大きくなってからは、自分でどうにかして生活費を稼ぐようになったらしい。
そんな環境でも、彼は常に学年トップの成績をでいた。だからこそ、美也子は彼を気にかけ、支えたいと思った。少しでも幸せに過ごせるよう、誰よりも気にかけ、何もかも差し出した。
…けれど。
彼は一度も、美也子の気持ちに応えてはくれなかった。彼女を便利な金づるとしか思っていなかったのだ。
思いを止め、学校に着いた。
昨日の一件もあり、クラスメイトたちの美也子に対する態度は、少しだけよくなった。中には、自ら声をかけてくる生徒もいた。
「美也子、本当はお金持ちだったんだ。じゃあ、圭介が使ってたお金って、全部あなたが出してたってこと?ずっと彼が御曹司だと思ってたのに!」
「もう分かってることでしょ?」
「でもさ、不思議だったんだよ。美也子って圭介にあんなに尽くしてたのに、どうして付き合ってなかったの?その上、恵理と付き合うなんて!」
「ねえお嬢様、俺はどうだ?圭介より言うこと聞くと保証する!」
ぽっちゃりして眼鏡をかけた男子生徒のそんな言葉に、美也子は思わず笑っった。
その時、教室の扉が開き、圭介が入ってきた。
男の発言を耳にした圭介は、冷ややかな笑みを浮かべた。
「お前がその気でも、肝心の本人に相手されなきゃ意味がない!今の美也子には、新しいターゲットがいるんだ」
「新しいターゲット?」
その言葉に、クラス中の視線が一斉に美也子へと向けられた。
美也子に新しいターゲット?
圭介より優秀な人?
圭介以上の男なんて、この学校にいるのか?
ないようね?
彼が御曹司でないとしても、成績はトップ、顔もいい。将来有望なのは誰の目にも明らかだ。
だが、圭介は皆の疑問には答えず、美也子を冷たく見た。
「長い間、俺に尽くしたよな。それなのに、俺が付き合わないって言っただけで、この仕打ちか?こんなやり方で、俺の気を引こうとしても無駄だ。お前みたいに成績が悪くて、家がお金持ちだけが取り柄の女なんか、絶対に好きになんてならない。お前なんか、恵理の足元にも及ばない」
美也子が落ちこぼれだと、みんな思い返した。
圭介に尽くすだけでなく、落ちこぼれ。
たとえお金があっても、それは親の財産であって、彼女のじゃない。
成績もダメで、圭介が選ばないのも当然!