朝の冷え込みがようやく和らぎはじめた頃、王都ロゼンベルクには少しずつ春の足音が近づいていた。降り積もった雪も日に日に溶けていき、街路樹の枝先にはごく小さな新芽が姿を見せ始める。
アルヴィス公爵家の屋敷に差し込む朝日も、どこか柔らかい。だが、その穏やかな光とは対照的に、屋敷内は連日、慌ただしい空気が満ちていた。なにしろ、先日の「第二王子との婚約破棄」という前代未聞の大騒動の後始末に追われているからだ。
公爵令嬢マリーナ・アルヴィスは、一介の令嬢の域を超えた働きを見せながら、情報の整理や手紙の返礼、さらには今後の計画づくりに奔走していた。あの婚約破棄騒動以来、日増しに彼女の名は社交界で注目を集めている。しかも、被害者として同情を集めるだけでなく、どこか“気高い孤高の存在”として憧れや尊敬を向ける声さえ出てきていた。
マリーナはそれを冷静に受け止めつつ、「利用できるものは利用する」という覚悟を持っていた。——すべては、クラウスとイレーネに「自らの選択を悔やむ日が来る」ように導くため。彼女は復讐を誓い、同時に公爵家の名誉を守るべく、着々と手を打っていたのである。
王城からの再度の招集
そんなある朝、マリーナのもとに王宮からの急ぎの呼び出しが届いた。内容は「第二王子クラウスの今後について、公爵家と協議を行いたい」というものである。
どうやら、王家内の混乱は収まらないまま、国王や宰相が中心となって事態を鎮めようとしているらしい。その一環として、アルヴィス公爵家の意向を再確認したいということだ。
「……父様と母様は、今日はいらっしゃらないのよね?」
マリーナは執事のクロードから一通りの事情を聞いたあと、ふと思案顔を浮かべる。ちょうど両親は、本日別件の公務で郊外へ出向いている。戻るのは夜遅くになるだろう。
呼び出しは正午過ぎに王城で行われる予定だ。両親不在のなか、マリーナが単身で王宮へ赴くのは少し不安もある。だが、彼女は迷うことなく意を決した。
「いいえ、行きますわ。アルヴィス家の代表として、私がしっかり対応してきます」
実際、ここまで事態がこじれている以上、もはやマリーナが前面に立たざるを得ない。クラウスとの婚約者だったのはマリーナ自身なのだから、嫌でも中心人物となるのは必然だ。
マリーナは身支度を整えると、信頼できる護衛兼従者を数名連れて、馬車に乗り込んだ。
王城への道のりは、一冬の荒天を経ても相変わらず整備が行き届いている。屋敷から王城までは馬車で約三十分ほど。雪解けの湿った風を感じながら、マリーナは車窓を眺める。
(あの日……あの雪の夜、私を裏切った殿下の声が、まだ耳にこびりついて離れないわ。けれど、もうあれから日が経った。わたしはあの頃の私じゃない——あの屈辱を忘れない強さを持つ女になったはず。)
そう心に言い聞かせると、自然と背筋が伸びていく。
王宮での協議
王城に到着したマリーナを出迎えたのは、リュカの側近であるブルーノ・ヴォルフ男爵だった。ブルーノはまだ若いが、実直で有能な人物として知られ、リュカの信頼も厚い。
「お待ちしておりました、マリーナ様。……リュカ殿下が執務室にてお待ちです。お通りいただけますか?」
ブルーノが恭しく一礼すると、マリーナも軽く会釈して応える。
「ありがとう、ブルーノ卿。リュカ殿下は……ご機嫌いかがでしょうか?」
思わず探るような言葉になったが、ブルーノは柔らかい苦笑いを浮かべた。
「昨日も夜遅くまで、クラウス殿下について国王陛下や宰相と協議をしておられました。……やはり、なかなか難しい問題のようです。ですが、殿下はどうにか事態を収束へ導こうと奮闘しておられる。どうか、お力添えをいただければ幸いです」
マリーナは「もちろん」と短く答えると、ブルーノの案内で王城の奥へと進んでいく。長い廊下を抜け、重厚な扉が見えてきた。リュカの執務室だ。
扉が開くと、そこには第一王子リュカが待っていた。前に公爵家へ訪れたときと同様、落ち着いた印象だが、やや疲れが色濃い。それでも彼はマリーナを見るなり、穏やかな笑みを浮かべた。
「よくいらっしゃいました、マリーナ嬢。お忙しいところ恐れ入ります」
「いえ、私も状況を知りたいと思っていましたから。……父と母が不在で申し訳ありません。代わりに私が話を伺いますわ」
「そのほうが都合がいいといっては語弊がありますが……正直なところ、クラウスの件はあなた自身が当事者です。あなたの意見こそ、一番尊重すべきなのだから」
リュカの言葉は優しくも真剣味を帯びていた。マリーナはその視線を受け止め、テーブルの席へ着く。卓上には紅茶と菓子が用意されているが、どちらもまだ手がつけられていない。二人とも余裕がないのだろう。
そのまま、ブルーノが執務室の扉を閉じ、部屋にはリュカとマリーナの二人だけが残された。王子と公爵令嬢が二人きりで話をするというのは、通常あまりないことだ。だが、今回のように国全体を揺るがす問題が絡んでいる場合、形式を度外視してでも話さねばならないときがある。
リュカは書類の束を手に取りながら、深刻そうに口を開く。
「まず、クラウスについてですが……王家の重臣たちは、ほぼ一致して彼の軽率さを非難しています。これまでにも、クラウスが公務や外交の場で十分な対応ができず、あなたに任せきりだったという事実も明らかになりつつある。……さらに、イレーネ・コールマン嬢が元侍女であるにもかかわらず、まるで正統な王子妃のように振る舞いはじめていることも問題視されている。」
マリーナは軽くうなずく。
「そうでしょうね。……私がかかわってきた範囲だけでも、クラウス殿下の対外折衝はほとんど私が裏で支えていましたし、イレーネも侍女の分際でやけに口を挟む場面が多かったですから」
リュカは視線を落としつつ、続ける。
「しかも最近、イレーネは『将来的には王太子妃にもなれる』と吹聴しているという噂すらある。……第一王子である私が聞くと、ぞっとする話だ。あの女性は、いったい何を考えているのか」
言外に、リュカもイレーネに対して強い疑念を抱いていることが伝わってくる。マリーナは静かに答えた。
「イレーネは、自分の出自や身分を上手に利用する狡猾さを持っています。おそらくクラウス殿下の弱い部分につけ込み、あれこれと甘言をささやいているのでしょう。殿下がそれを拒む強さを持たないのなら、彼女の思うままですわ」
リュカは口許を険しくしながら、その通りかもしれない、と同意する。
「しかし、これ以上放置しては王家にとっても国にとっても悪影響が大きい。そこで、陛下や宰相は『クラウスを一時的に謹慎、もしくは遠方への転地療養という名目で宮廷から切り離す』案を検討しています。イレーネは当然同行できないようにする、というわけだ」
「なるほど……それなら、強制的に二人を分断できますね」
マリーナは思わず、低く唸る。強権を発動してでも、事態を収拾しようという姿勢が見て取れた。ただ、同時に「それだけではあの二人が真に後悔するかどうか」は疑問だとも感じる。
リュカも同じ思いなのだろう、苦い表情で言い添える。
「ただ、強引に二人を引き離しても、クラウスが今度は『王家が自分の恋を引き裂いた』などと言い出す恐れもある。イレーネも、被害者ぶって世間の同情を煽るかもしれない。……正直、簡単ではないんだ」
「私も同感です。……私としては、二人の浅はかな行動が“どれだけ多くの人を巻き込み、傷つけてきたか”をしっかり思い知ってほしいのです。たとえば社交界の目というものは厳しいですから、そこからの糾弾や孤立が起これば……」
そこでマリーナは言葉を区切り、慎重に言葉を選ぶ。
「……私は、二人が身をもって『こんなはずじゃなかった』と悔やむ状況に追い込まれるのが一番だと考えています。私自身の恨みを晴らしたい気持ちもありますが、それ以上に、あのような無礼がこの国でまかり通るのを見過ごしたくはありませんから」
リュカは黙ってマリーナの瞳を見つめる。その表情には、尊敬と戸惑いがない交ぜになっていた。
「……マリーナ嬢は強い方ですね。普通の令嬢なら、心折れて閉じこもってしまうか、あるいは泣きわめいて復讐を求めるか……どちらかになりそうなものですが、あなたはどちらでもない」
マリーナは肩をすくめ、淡々と微笑む。
「私にとっては、これが最善の道です。……強くあらねば生きていけないと、幼い頃から公爵家で学んだので」
そのまま二人は、国王や宰相を交えた今後の協議方針について、一通りの打ち合わせを進めた。やがて、ほぼ同意見を得たリュカが安堵したように息をつく。
「ありがとう、マリーナ嬢。アルヴィス公爵家としても、王家に協力してくださるとのこと——大変心強い。近く、正式に『クラウス謹慎令』が出る見込みです。……ただ、ここで問題になるのは、イレーネがどこまで抵抗するか、ですね」
「彼女は狡猾ですから、下手をするとあらゆる手段を使ってクラウス殿下に近づき続けるでしょう。そこを私たちがどれだけ封じ込めるか——勝負どころですね」
マリーナがそう答えると、リュカは深く頷く。しばし沈黙が続いたあと、リュカはふと思い出したように書類を片付け、マリーナを見やった。
「実は、話はこれだけではありません。……あなたに直接、お礼を言いたいことがあります」
「え……お礼、ですか?」
マリーナには全く心当たりがない。混乱したままリュカを見つめると、彼は少しだけ柔らかな笑みを浮かべた。
「以前から、あなたはクラウスの公務や外交をずいぶん支えてくれていましたね。そのおかげで、私や他の王族が助かった場面は多かったのです。彼の体が弱く、精神的にも脆い部分を、あなたは陰でカバーしていた。……その事実を、改めて王家として、そして兄として感謝したいと思います」
リュカの言葉は真摯だった。マリーナは少し照れながらも、苦笑いを浮かべる。
「私が好きでしたから……いえ、少なくとも以前は、あの方を“守りたい存在”だと思っていましたから。自然にやっていただけですわ」
そう言いながらも、今となっては「守りたい」と思っていた相手から見事に裏切られたという事実が胸に突き刺さる。思わずマリーナは俯いた。
リュカはそんな彼女を気遣うように、一歩近づいて言った。
「……ごめんなさい。思い出させるようなことを言ってしまった。あなたにとっては、今はそれも苦い記憶でしょうね」
「……いいえ、私自身が選んだ道です。後悔はしていません」
「そうか。でも、もし辛くなったら、遠慮なく助けを求めてください。あなたは一人ではない」
リュカの声は優しく、どこか温もりを帯びていた。マリーナは胸の奥で軽く鼓動が弾むのを感じる。それが何なのか、彼女はまだ明確には言葉にできない。ただ、リュカの真っ直ぐな眼差しが、以前よりも心に沁みてくるのを感じた。
やがて、マリーナは軽く咳払いをして気を取り直す。
「……では、今日はこのあたりで失礼いたします。もし今後、正式に国王陛下や宰相との場が設けられたときは、改めてお呼びください。父様と母様も、その時には同席できるはずです」
「分かりました。ありがとうございます。……お帰りの際、私も途中までお見送りしましょう」
そう言ってリュカは席を立つと、マリーナとともに執務室を出て、再び王城の廊下へと出る。いつもは公務や儀式の際に多くの人々が行き来する場所だが、今日は閑散としていた。おそらく、近々発表される「クラウス謹慎令」の準備でバタバタしているのだろう。
ふと、マリーナはリュカの歩幅に合わせるようにして歩いている自分に気づく。クラウスと並んで歩くときは、いつも彼の歩幅が小さくて、マリーナが少し気を使っていた。だが、リュカはすらりとした長身で、歩幅も大きい。自然に横を歩くと、心地よいテンポが生まれるのだ。
(……こんなところで何を考えているの、私。)
恥ずかしくなりながらも、なぜか頬が熱くなる感覚があった。
「どうかされましたか?」
隣を歩くリュカが、マリーナの表情に気づいたのか、優しく声をかける。マリーナは慌てて首を横に振る。
「あ、いえ。……なんでもありません」
言葉が詰まりそうになるのをぐっとこらえる。こんな気恥ずかしい気持ちは初めてかもしれない。クラウスに対しては常に「守りたい」という気持ちが先行していたが、リュカに対しては——もっと別の感情を抱き始めているような気がしてならなかった。
やがて玉座の間に通じる大広間へ出ると、さすがに幾人かの廷臣が行き来している。リュカはそこで足を止め、「ここまでで」とマリーナに微笑んだ。
「馬車の準備はもう整っているはず。お帰り、お気をつけて。……何かあれば、私に連絡をください」
その柔らかな笑顔に、マリーナは穏やかな安堵を覚える。
「ありがとうございます、殿下。近いうちに、またお目にかかることになるでしょうね」
互いに会釈を交わすと、マリーナはリュカに背を向けるようにして歩き出す。背後からは、人の気配とともにリュカの存在を感じる。なぜか後ろ髪を引かれるような感覚に襲われたが、振り返らずにそのまま進んでいった。
イレーネの暗躍と、動揺するクラウス
同じ日の夕刻、マリーナが自宅に戻って一息ついたころ、友人のアニエス・オーベルがまたもや興奮した様子で訪問してきた。
「マリーナ、いる!? ちょっと聞いてよ、最近のイレーネの動き、すごいことになってるわ!」
アニエスは息を切らしながら応接室に飛び込んでくる。見ると、先日よりもさらに噂の収集に奔走したらしく、髪形も少し乱れている。
「落ち着いて、アニエス。……一体、何があったの?」
マリーナが紅茶を勧めると、アニエスは一気に流し込んでから話し始める。
「聞いて驚かないでね。……イレーネ、王妃様の取り巻きの一部に取り入ろうとしているらしいの。どうやら、王宮の女官や一部の貴婦人たちに近づいて、“私こそが本当の王子妃にふさわしい”って吹き込んでるって話よ!」
マリーナは驚きよりも呆れが勝った。イレーネの厚顔無恥な言動は想像していたが、まさか王妃の周辺にまで手を伸ばそうとしているとは。
「……凄まじい自信ね。出自の差をどう埋めるつもりなのかしら?」
「その点、どうやら彼女は『愛こそが全て』とか『平民だからこそ貴族の悪習に染まっていない』とか、そういう“庶民派アピール”をしているみたい。……一部の女官は、“新しい時代の価値観”だなんて褒めそやしているとか、いないとか」
アニエスの語気には明らかに憤りが混ざっていた。
「でもね、実際のところは単なる自己顕示欲よ。だって実際、イレーネは宝石や豪華なドレスを買い漁って、どこかの大商人と手を組んで資金を集めているって噂まであるもの。……彼女、クラウス殿下との婚姻を足がかりに、王族としての権威を使って大儲けするつもりかも」
マリーナは静かに頷きつつ、内心では「思ったより早く尻尾を出し始めたわね」と感じていた。
(もし彼女がそこまで焦って動くのなら、いずれ周囲の反感を買うでしょう。それが私たちの狙いを補強する形になればいいけれど……)
「ありがとう、アニエス。あなたは本当に頼りになるわ。……ところで、クラウス殿下の方はどう? 彼はイレーネの行動を把握しているのかしら?」
「そこが、どうも殿下はあまり把握していないらしいわ。イレーネが積極的に取り仕切っているようで、殿下のほうは王宮に閉じこもって、身近な侍従にもあまり会おうとしないんだって。……私が聞いた話では、クラウス殿下は“どうしてこんなことになったんだ”と悩んでいるとか」
アニエスは言葉を続けながら、少し憤慨したように眉を吊り上げる。
「身勝手にもほどがあるわよね。マリーナに対して何をしたと思ってるの? 今さら“どうして”なんて言葉を吐く資格なんてないわ」
マリーナは苦笑いしながら、杯の紅茶を一口すする。
「ええ、私もそう思うわ。……だけど、彼が後悔しようが焦ろうが、もう手遅れよ。今となっては、私に取り返しのつかない傷を与えたのだから」
その言葉にはわずかばかりの哀しみが混ざっていたが、マリーナの瞳は依然として冷静だった。
思わぬ邂逅
翌日、マリーナはまた別の用件で王都の中心街を訪れていた。公爵家がかかわる慈善事業の一環で、孤児院への寄付や視察を行うためだ。
珍しく快晴となったこの日、街には行商人や旅人の姿が多く見られ、活気が溢れている。マリーナは数名の侍女と護衛を連れ立って歩きながら、時折人々の様子を観察した。
「……あら、マリーナ様、あちらに見えるのは孤児院の理事長ではありませんか?」
侍女が指さす先には、質素な服装だが品のある老婦人が立っていた。マリーナは微笑んでそちらへ向かおうと足を進める。だが、そのとき——。
突然、通りの向こうから見覚えのある声が響いた。
「マリーナ……? マリーナ、待ってくれ!」
マリーナは思わず振り返る。そこにいたのは、やつれた表情をしたクラウスだった。彼は紺色のフードつきマントを身にまとい、周囲の視線を避けるように俯きがちだが、こちらを見つけると焦った様子で駆け寄ってくる。
「あ……」
驚いたマリーナの侍女たちが慌てて彼女の前に立ちふさがる。王子相手とはいえ、今やマリーナにとっては“加害者”にも等しい存在だ。護衛も警戒の構えを見せる。
しかし、クラウスは必死に手を伸ばしてマリーナの名を呼び続ける。
「待ってくれ、マリーナ。……僕、君と話がしたいんだ!」
周囲の人々が何事かとざわめき始める。街中で王子が令嬢を追いかけるなど、通常では考えられない光景だ。
マリーナは一瞬、動揺した。しかし、すぐに冷静さを取り戻す。そもそも、彼に今さら話す権利などあるのか——そんな思いが渦巻く。
だが、公衆の面前で無下に拒絶すれば、逆に“公爵令嬢が王子に失礼を働いた”という誤解を生む恐れがある。マリーナは深く息をついて侍女と護衛に目配せし、「少しだけ」とジェスチャーで伝える。
そして、さっと周囲に視線を巡らせると、近くにある空き家の路地裏へとクラウスを促した。
「……殿下、お言葉を伺うのは構いませんが、人目のある場所では困ります。こちらへ」
路地裏は薄暗く、人気もない。お世辞にも居心地の良い場所ではないが、雑踏や視線を避けるには都合がいい。
「殿下、手短にお願いします。私も用事がありますので」
冷淡な口調で告げると、クラウスはしばらく言葉が出せないようだった。目の下にはクマがあり、やや痩せた印象さえ受ける。
「……マリーナ。久しぶりに会うね。……元気そうで、何より……」
「挨拶なら結構です。それで、私に何の御用でしょう?」
マリーナの言葉は淡々としたものだったが、その声にわずかな震えが混ざっていた。過去に愛した相手がここにいる。その事実は、彼女の心を無感情にはさせてくれない。
クラウスは悲痛な眼差しでマリーナを見つめる。
「……僕は、本当は……こんな形で君を傷つけるつもりなんてなかった。イレーネが、君とのことを色々悪く言っていて、それに流されて……僕は……」
「言い訳は要りません。あなたはあの日、私を公衆の面前で踏みにじった。それが全てです」
突き放すようなマリーナの言葉に、クラウスはさらに追い詰められたような表情になる。
「そうだ……あのとき、僕は確かに自分の気持ちばかりを優先した。だけど、あれから色々と考えて、後悔しているんだ。君の支えがどれほど大きかったのか、今になって気づいた……」
「それで? 今さら私にどうしろと仰るんです?」
マリーナは冷たく微笑む。己の心がズキズキと痛むのを感じていたが、それを表には出さない。
「申し訳ない、と思っている……。僕はイレーネとも話し合ったんだけど、彼女が何か変なんだ。最近はやたらと金や権力の話ばかりして、僕のことを蔑ろにするような態度をとるし……。僕は……どうしたら……」
まるで拠り所をなくした子どものような口調。かつてマリーナが“守ってあげたい”と思った彼の弱い一面が、ここで露呈している。
しかし、マリーナの胸には怒りにも似た苛立ちが湧き上がっていた。
「そう。あなたが選んだ女性は、“真の愛”を謳っていたのではありませんでしたか? 私との婚約を破棄してまで、得た大切な愛でしょう? 今さら後悔なさるなんて、ずいぶん都合のいい話ですわね」
クラウスは顔を歪ませ、「そんなつもりじゃ……」と口走る。
「ただ、僕は、最初は本当に彼女を好きだと思ったんだ。でも……こんなに違うと思わなくて……。今、王宮の皆は僕を責めるし、イレーネにも振り回されて……君がいないと、僕は何もできなくて……」
それを聞いた瞬間、マリーナの怒りが爆発しそうになった。
(何もできない? そんなの、とうに知っていたでしょう。私はずっとフォローしていたんだから。あなたがそれに甘えていたことを、自分で理解していなかっただけじゃないの……!)
だが、表情はあくまで冷静を保ち、言葉を吐き捨てるように言う。
「殿下、これだけははっきり申し上げます。私はもう、あなたの弱さを支える気はありません。あなたを愛した過去はあれど、それはもう終わりました。……私の役目は、あなたに振り回されることではない。むしろ、あなたが犯した過ちに対して、私は正当な報いを望んでいます」
クラウスの瞳が揺れる。まるで「あの優しかったマリーナ」の面影を求めるかのようだ。
「……そんな……。でも、今さらとはわかっていても、僕は……」
「お引き取りください。これ以上私と話しても、得るものはないでしょう。あなたがなすべきことは、まず王家と誠実に向き合い、イレーネとの関係をどうするか自分で決めることです。——私にはもう関係ありませんから」
そう言ってマリーナは踵を返す。侍女と護衛がすぐに彼女を囲むようにして歩き始めた。
クラウスはしばらくその背を追うように立ち尽くしていたが、やがて小さく「……ごめん」と呟いて姿を消した。
路地裏を出ると、マリーナは大きく息をつく。胸が苦しく、頭が痛む。——いくら覚悟をしていたとはいえ、やはりかつて想いを寄せた相手からの「後悔の声」を聞くのは、簡単なことではない。
(やめて……泣くなんて、したくないのに……)
そっと目頭を押さえる。周囲の侍女や護衛たちも無言だが、その瞳にはマリーナへの同情が滲んでいた。
(大丈夫、泣かない。もう、私はあの頃の私ではない……私は、私の道を歩むのだから。)
マリーナは自分に言い聞かせるように、小さく呼吸を整えた。
リュカとの再会、そして微かな変化
路地裏での一件から数日後、マリーナは再び王城へ足を運ぶことになった。今度は正式に「国王や宰相を交えた協議の場」を設けるという知らせが入ったのだ。
用向きは、いよいよ「クラウス謹慎令」の具体的な発表日程と、その後のアルヴィス公爵家との調整について。しかし、国王自身がマリーナにも同席を求めるとは、相当に事態が深刻化している証拠ともいえる。
(……これで、クラウスとイレーネの暴走も一気に収束するかもしれないわね。もっとも、あのイレーネが黙って引き下がるとは思えないけれど。)
馬車に揺られながら、マリーナはそんなことを考える。一方で、ほんの少し前に路地裏で対峙したクラウスの表情が頭をよぎる。情けないくらいに打ちのめされた顔。それでも、彼はきっとまだイレーネを完全には断ち切れないでいるだろう。
(仕方ない。私がどうこうする問題じゃないし……今さら私が手を貸す謂れもない。)
王城に到着すると、すぐに案内役が迎えにきた。今度はリュカの側近ブルーノだけでなく、王宮近衛の上官まで揃っている。どうやら国王や宰相がすでに玉座の間に控えており、公爵家の使者であるマリーナを待っているようだ。
(父様と母様は先に到着しているはず……)
それを確認し、マリーナは足早に玉座の間へと急ぐ。扉が開かれると、豪奢な内装が広がり、王家の象徴たる巨大な紋章が正面の壁を飾っていた。国王と王妃、宰相、そしてリュカが居並ぶ中、既に公爵夫妻が一礼しているのが見える。
「マリーナ、お前も来たか」
アルヴィス公爵が小声で呼びかける。マリーナは父に軽く頷き返して列に並んだ。
国王は威厳ある声音で言う。
「アルヴィス公爵、ならびにマリーナ・アルヴィスよ。……まず、今回のクラウスの件で混乱を招いていることを、王家を代表してお詫びしたい」
公の場で国王が頭を下げる形をとったことで、マリーナと公爵は深々と一礼し、恐縮の意を表す。
「もったいないお言葉……陛下、頭をお上げくださいませ。……我らはあくまで、国のためにできることをするだけです」
公爵がそう返すと、国王は顔を上げ、あらためて厳かな口調で告げる。
「これより、『クラウス・フォン・モルトフェルトを一定期間謹慎させる』という勅令を発布することを正式に決定した。併せて、イレーネ・コールマンという女性が王宮や公務の場に立ち入ることを禁じる。……彼女は、もともと民間の出自であるからな。然るべき礼儀を学び、正式に許可が下りないかぎり、王宮に出入りする資格はない」
その言葉に、宰相や公爵夫妻は一様に安堵した表情を見せる。ついに王家が本気で動き、二人を制裁する方向に舵を切ったということだ。
ただ、マリーナはそれを聞きながらも、胸の内に一抹の不安を感じていた。——何度も言うように、イレーネは狡猾だ。これで素直に退散するとは思えない。裏で何か企んでいる可能性は十分にある。
(それでも、これが一つの大きな区切りになるのは事実ね。)
続けて、国王は深いため息をつきながら言葉を継ぐ。
「さて……アルヴィス公爵、マリーナ。お前たちには、この一連の混乱で多大な迷惑をかけた。その償いとして、我々王家ができる限りの協力を申し出たい。もし希望があれば、遠慮なく言ってくれ」
マリーナは父の公爵と顔を見合わせる。二人とも同じ考えだった。公爵が代表して一歩進み出て答える。
「もったいないお言葉。ですが、私どもは王家を責めたいわけではございません。むしろ、これからも国の安定と繁栄のために力を尽くしたいと考えております。……ただ、今回の件を教訓に、どうか殿下を正しく導いていただけますよう、お願いする次第です」
国王は感慨深げに頷き、王妃も申し訳なさそうな表情で同意を示した。宰相も「なんとかしてクラウス殿下を更生させましょう」と真剣な面持ちで語る。
そのやりとりを横で見守っていたリュカが、ふとマリーナに視線を送った。視線が重なり合うと、彼は微かに微笑んでみせる。
「マリーナ嬢、何か言いたいことは?」
促され、マリーナは一歩前へ出る。
「……僭越ながら、私からは一つだけ申し上げたいことがあります。クラウス殿下は体が弱く、心も優しい方でした。それゆえに、周囲に流されやすい面があるのは否定できません。……ですが、それは殿下の本質ではないと、私は思っております」
その言葉に場の空気が一瞬静まる。公爵夫妻や王妃、宰相は意外そうにマリーナを見つめる。先日の路地裏での一件を思い返せば、クラウスを弁護する気持ちはないようにも思えるが——。
「私は……かつて殿下を信じていました。あの悲劇が起こるまでは。本来の殿下ならば、もっと穏やかで優しい国の支えになれるはず——と。でも、それを壊したのは、殿下自身の弱さと、イレーネという女性の誘惑です。……もし殿下が誠心誠意反省し、更生の道を歩むというのならば、どうか国王陛下やリュカ殿下が導いてあげてほしいのです。もう、私には関わる余地はありませんが……」
そこまで言うと、マリーナは少し俯く。
王妃は感極まったように胸に手を当て、目頭を押さえた。国王も重々しく頷く。
「分かった。……これ以上、クラウスを放任にはせぬ。王家の責任として、彼を正しい道へと戻すよう努めよう」
これで話はほぼまとまった。あとは具体的に「謹慎令」の公示日や手続き、そしてイレーネに対する制限事項などを詰めるだけとなる。宰相と公爵が書類を取り交わし始め、王妃はマリーナに「ありがとう」と微笑む。マリーナは複雑な思いを抱きつつも、「これで一段落だ」と心の中で呟いた。
ほんの小さなときめき
協議が終わり、玉座の間を出るときには夕刻の鐘が鳴りかけていた。公爵夫妻は宰相と別室で最終的な書類の確認を行うらしく、マリーナだけが先に王城の廊下を歩く。
「お嬢様、馬車のほうはすぐに出せるよう手配しております」
付き従う侍女がそう告げたが、マリーナは少し疲れた面持ちで小さく息をつく。
「ありがとう。……少しだけ外の空気を吸ってから行きましょう」
そう言って裏口近くの庭園へ出ると、そこに人影があった。——第一王子リュカだ。玉座の間を出て、ここで一息ついていたのだろうか。あたりは夕焼けに染まり、王城の庭園がオレンジ色の光に包まれている。
「リュカ殿下……」
マリーナが声をかけると、リュカはゆっくりと振り向いた。彼もまた、今日の協議で疲れがにじんでいる表情だった。
「やあ、マリーナ嬢。今日の協議は本当にお疲れさまでした。……気が張っていたんじゃないか?」
「あまり自覚はありませんが、さすがに少し……頭が重いですわ」
マリーナはわずかに微笑む。リュカはそんな彼女を見つめ、傍らにある木製のベンチを指し示した。
「少し休んでいかないか? 夕焼けが綺麗だし、ここなら人目にもつかない」
確かに、公的な場では王子と令嬢が二人で話すのは憚られるが、今は夕刻で来訪者も少ないだろう。マリーナは侍女たちに「少し待っていて」と声をかけ、リュカの勧めに応じてベンチに腰を下ろした。
「……本当に綺麗ですね。冬が長かったせいか、こういう景色をゆっくり見る機会があまりありませんでした」
マリーナが空を見上げると、薄紅の光が城壁を染めている。リュカも隣に座り、同じ景色を眺める。
「君は、まるで雪の女王のようだ……と、昔から貴族たちが言っていたけれど、僕はそうは思わないよ。もちろん気品ある美しさを持っているが、本当は人一倍情熱的で優しい女性なんだと思う」
突然の言葉に、マリーナはドキリとする。まさかリュカがそんな褒め方をするとは思わなかった。
「優しい……ですか? むしろ私は、自分で自分が冷たい人間だと思っていました。……復讐を誓い、クラウス殿下とイレーネを追い詰めようとしているのですから」
リュカは首を横に振る。
「それは当然の感情だし、実際、彼らがあなたにしたことは許されるものではない。でも、君はあの場でクラウスを切り捨てながらも、最後には“彼には優しさがある”という言い方をしたじゃないか。もし本当に心まで冷たければ、そんな風に相手の本質を信じようとはしないはずだ」
マリーナは何も言えず、じっとリュカを見返す。彼の瞳には嘘偽りのない光が宿っていた。
「……あなたは、どうしてそこまで私のことを……」
気づけば、声が震えていた。リュカは静かに手を伸ばし、マリーナの手に触れようとする——が、直前で思い留まるように引っ込めた。その様子に、マリーナの胸が軽く疼く。
「正直に言おう。僕は、君が王宮の公務を手伝っていた頃から、君の聡明さと責任感の強さに惹かれていた。だけど、君は弟の婚約者だったから、僕がその思いを口にすることはあり得なかった。……それに、君もあの頃はクラウスを一途に想っていたからね」
マリーナは心臓が高鳴るのを感じ、しかしその表情を隠せずにいる。
(リュカ殿下が……私に、そんな想いを……?)
信じられないと同時に、なぜか嬉しさがこみ上げてくるのを抑えきれない。
「でも、今は状況が変わった。クラウスは君を裏切り、君はそれを毅然と拒絶した。そのうえで……僕はどうすればいいのか、ずっと悩んでいたんだよ」
言葉に詰まるマリーナの横で、リュカは優しげに微笑む。
「君にはまだ、あの日の傷が残っている。すぐに他の誰かを受け入れようなんて思えないかもしれない。それでも……僕は君を支えたい。君が一人で泣いたり、悩んだりしないように……できる限りのことをしたいんだ」
その言葉は、まるで深い慈愛を帯びていた。マリーナはぎこちなく笑みを返す。瞳が潤んでいるのを自覚しながら、どう返事をしたらいいのか分からない。
(私は復讐を誓った。クラウスとイレーネを後悔させるために、ずっと冷静に行動してきた。それなのに……そんな私に、こんなにも暖かな言葉をかけてくれる人がいるなんて。)
自分の中で、何かが大きく動き出しているのを感じる。たとえば雪解けが始まり、小さな芽が顔を出すように。
けれど、今はまだ、それをはっきりと「愛」だと認めるには怖さがある。二度と同じ過ちを繰り返したくない、という気持ちもあるからだ。
リュカはマリーナの戸惑いを察したのか、そっとベンチから立ち上がり、少し距離を取る。
「急かすつもりはない。……これからも一緒に、クラウスの問題を解決していこう。そのうえで、もし君が僕を信頼してくれるなら……僕は君を守ることを誓うよ」
風が吹き抜け、マリーナの黒髪を揺らす。夕焼けが二人の姿を照らし、影を長く伸ばしている。
「……はい。……ありがとうございます、殿下」
それだけ言うのが精一杯だった。それでもマリーナの声には、ほんのりと温かな感情が宿っていた。
(クラウスとの婚約破棄から始まったこの混乱の中で……私がまた誰かを想うことができるのだろうか。それを確かめるには、まだ時間が必要かもしれない。でも——)
マリーナは立ち上がり、リュカと視線を合わせる。その瞳には、かすかに微笑みが浮かんでいた。彼女の中で、確かな“芽生え”が生まれつつある。
——それは「真実の愛の芽生え」。
かつての婚約者に踏みにじられ、復讐を胸に誓ったマリーナが、再び人を信じ、心を寄せるきっかけ。
第一王子リュカの誠実な思いが、マリーナの凍えた心を少しずつ温めはじめていた。
まだ先は長い。クラウスとイレーネの野望が完全に断たれたわけではないし、ざまあの頂点に立つには、越えるべき障害が残されている。
それでも、マリーナは初めて感じる“ときめき”を胸に、前を向く覚悟を新たにするのだった。