雪が降りしきる夜が明け、翌朝。
公爵家の敷地一面を覆った白銀の世界が朝日に照らされ、煌めきながら眩い輝きを放っている。だが、その美しい光景に感嘆する者は、屋敷内にはほとんどいなかった。なぜなら、昨夜、マリーナ・アルヴィスの身に降りかかった衝撃的な婚約破棄の報せが、既に公爵家中を駆け巡っていたからだ。
「まさか、あのマリーナ様が……」「第二王子殿下が侍女風情と……」「信じられない……」
侍女や従者たちは皆、困惑と同情の入り混じった視線を交わしながら、日々の仕事をこなしている。そんな中、当のマリーナは早朝から書斎へと足を運び、多数の手紙に返事をしたためていた。
「私なら大丈夫です。お気遣いありがとうございます。
今後ともアルヴィス公爵家をよろしくお願いいたします。
——マリーナ・アルヴィス」
手紙の文面は端的で丁寧。王宮や貴族社会から届いた見舞いの手紙や、あるいは噂を聞きつけて真偽を確かめたいという書簡への回答が山のように積まれている。それだけ「第二王子との婚約破棄」は大きな事件として、半日もしないうちに社交界を揺るがしていたということだ。
マリーナは厳かな筆跡で返事を書き続ける。仄かに紅茶の香りが漂う書斎では、カーテン越しに朝の光が差し込み、机の上に置かれた銀製のペン立てが冷たい輝きを放っていた。
ふと手を止め、マリーナは深呼吸する。心のどこかに、夜の疲れがまだ残っているような感覚があった。ろくに眠れぬまま手紙を書き続け、体力的にも精神的にもギリギリだと自覚していたが、それでも筆を握る手を止められない。
(……私は被害者。けれど、ここで悲壮感ばかり漂わせても仕方がない。むしろ「この程度で動揺しない公爵令嬢」という印象を広めることで、有利に立ち回れる。)
そう意識を高めることで、かろうじて気力を奮い起こしている。
やがて、書斎の扉をノックする音が聞こえた。
「失礼いたします、お嬢様。朝食の支度が整っておりますが……」
声の主は老執事のクロード。マリーナが小さく「どうぞ」と返事をすると、クロードは静かに扉を開けて部屋に入ってきた。
「朝早くからお疲れのご様子ですね。お体に障ります。どうか一旦、机を離れてお食事を召し上がってくださいませ」
「ありがとう、クロード。……でももう少しだけ。これで全部終わるので……」
机上の手紙の山は、明らかに「もう少し」の量ではない。クロードは憂慮の表情を浮かべるが、マリーナはそれ以上の説明をしない。彼女の青い瞳には強い意志が宿っており、ここで止めるのは逆に心を折ることになると察したのだろう。
クロードは仕方なく、少し低姿勢になって言う。
「かしこまりました。ですが、お嬢様のご健康が第一ですから、くれぐれもご無理なさらないよう……」
「ええ、わかっています。ありがとう」
クロードが出ていった後も、マリーナは筆を走らせる。ひとつひとつの手紙の文末にサインを入れ、封をしては横に積み上げる。その真剣さは、まるで軍師が戦前の陣営で策略を練るようでもあった。
実際、マリーナの行動は「戦略」に近い。彼女は自分が置かれた立場を明確に理解している。
——幼少期から正式に育んできた第二王子との婚約を、一方的に破棄され、公衆の面前で恥をかかされた。しかも、相手は元侍女のイレーネ。
普通なら、ここまでの屈辱を味わった貴族令嬢は、ショックで閉じこもるか、あるいは怒りにまかせて公に喧嘩を吹っかけるか、どちらかが多い。しかしマリーナは違う。自らが「冷静な被害者」であることを強調しつつ、裏では復讐の糸をしっかりと紡ぎ上げているのだ。
同時に、クラウスとイレーネがこのまま何食わぬ顔で日々を過ごせるとも思っていない。彼らは王家を、そして社交界を敵に回す可能性がある。アルヴィス公爵家の協力を失っただけでも、相当に大きな政治的損失だ。
それなのにクラウスが、よりによって婚約破棄を「最悪のタイミング」で「最悪の形」で実行したのは、彼自身の未熟さも大きいだろう。だがマリーナとしては、その隙こそが反撃の足がかりになると考えていた。
(あの二人が国王陛下や宰相から問い詰められ、思い悩む姿はもう目に浮かぶわ。……でも、それだけじゃ足りないの。私が真に望むのは、『マリーナ・アルヴィス』をないがしろにした報いを受けさせること。そして私自身の名誉と立場を、彼らが後悔するほど高めること。)
筆を置くと、マリーナは窓の外を見やった。外の雪は先ほどよりも小降りになり、太陽の光がやわらかく射している。
「……さあ、まずは新たな一日を始めなくては」
彼女は意を決して椅子から立ち上がり、朝食を取るために書斎を出た。
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公爵家の食堂は広大で、壁には絵画が並び、シャンデリアが淡い光を落とす。いつもならば、使用人たちがセッティングした上質な朝食がテーブルを彩り、マリーナも両親と世間話を楽しむのだが、今朝は少し空気が重かった。
父の公爵は新聞や手紙を読み耽りながら厳しい顔をしているし、母もほとんど食欲がない様子でナイフとフォークを握っているだけ。そんな中、マリーナはあくまで優雅にティーカップを持ち上げ、一口含む。
「……父様、何か進展はありました?」
「いや、まだだ。……王宮からは何も連絡がない。だが、宰相や国王側近からは『今後の対策を協議したい』との打診が入っている。今日か明日には正式に呼び出されることになるだろう」
公爵は苛立たしげに新聞をテーブルに置く。そこには昨夜の晩餐会の「大失態」が大々的に扱われているわけではないが、噂として小さく取り上げられていた。
「私も長いこと公爵を務めてきたが……まさか、王家の婚約破棄がここまで乱暴に行われるとは思わなかった。……クラウス殿下には、あまりにも危機感がなさすぎる」
そう吐き捨てると、ため息をついてカップのコーヒーを飲む。母が苦しげに眉を寄せながら言う。
「本当に……マリーナがどれほど傷ついているかを考えたら、あのような言動など許せませんわ。王家の名誉を傷つけることにもなるのに」
「母様、お気遣いありがとうございます。けれど私……意外と平気ですわ」
マリーナは微笑みを浮かべ、あくまで平然とした口調を保つ。
「もちろん、悔しい気持ちはあります。でも、今はそれを糧にして前を向いているところなんです。……それより、王宮から呼び出しが来るなら、こちらからも準備をしましょう。具体的にどう対応するか。ね、父様?」
公爵は娘の毅然とした瞳を見つめ、少しだけ表情を緩める。
「……そうだな。私もお前の意見を参考にしながら、どう動くか考えているところだ。慌てて行動して、逆手を取られるのも避けたいからな」
こうして公爵一家は、クラウスへの直接的な抗議ではなく、あくまで「被害者として冷静に構えている」という姿勢をとることで一致していた。早まった動きはせずに、相手を待つ。そして動き出したタイミングで一気に攻める。その方が効果的にダメージを与えられるからだ。
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朝食を終えたマリーナは、再び手紙の処理や情報収集に時間を費やす。その甲斐あって、昼前にはいくつか有力な情報が手に入り始めていた。
まず一つは、イレーネ・コールマンについて。彼女は平民出身であるが故に貴族の後ろ盾はなく、アルヴィス公爵家に雇われた当初は極めて優秀な侍女として評判が良かった。だが最近、彼女が突然辞職を申し出た真相について、ある証言が得られたのである。
アルヴィス家の侍女長によれば、「イレーネはふとした折に、『いつか私も華やかな世界に行きたい』と口にしていた」という。本人は軽口を叩いたつもりなのかもしれないが、その時は妙に熱っぽい眼差しだったともいう。また、イレーネはマリーナの身の回りの品を扱う立場だったため、宝飾品や衣服に関する情報にも詳しかった。
もしかすると、イレーネは最初から「より高い地位や財産を得る」ことを狙っていた可能性がある。つまり、それは一種の「野心」だ。王子に近づく機会をうかがっていたのかもしれない。
(……私の知らないところで、クラウス殿下と密会を重ねていたのか。あるいは、王宮側の誰かが協力していたのか……まだ分からないけれど。)
二つ目は、クラウスの動向だ。今回の件が世間に知られ、当然ながら国王や宰相、さらに第一王子リュカからも事情を聞かれているはず。しかし、クラウス自身はほとんど王宮に姿を見せず、自室に閉じこもっているという話が入ってきた。既に国王も激怒しているという噂もあり、クラウスは今さら後戻りできずに苦悩しているのではないかと言われている。
(……こうなってから初めて悩んでも遅いわ。いつも私がやっていた対外折衝や根回しの大変さを、今さら痛感しているんでしょうね。……でも、そこに情けをかけるつもりはないわ。)
三つ目は、第一王子リュカとの動きである。リュカはクラウスの異母兄にあたり、王位継承順位も第一位だ。以前から穏健な性格で、政治や軍事に精通している優秀な王子として知られている。マリーナも過去に何度か公務の場で言葉を交わしたことがあるが、リュカは冷静でありながらも慈悲深く、クラウスとも良好な関係を築こうとしてきたと聞く。
しかし今回の件で、リュカは激怒こそしていないものの、非常に困惑しているらしい。クラウスの軽率さは王家の威信を傷つける行為であり、第一王子としてはどう対処すべきか悩んでいるのだろう。
そんなリュカが「近いうちにアルヴィス公爵家へ訪れるかもしれない」という噂が、いち早くマリーナの元へ届いた。
情報を整理しながら、マリーナは微かに唇を引き結ぶ。
(第一王子リュカ殿下が来るなら、あちらも何らかの手を打ちたいということね。クラウス殿下に代わって謝罪するのか、あるいは話し合いを持ちたいのか……どちらにせよ、私としては好都合かもしれないわ。)
リュカという存在は、今後の展開を左右する大きな鍵になる。マリーナは「自分にとって有利に動いてくれるなら、彼を味方につける手もある」と考え始める。もちろん、警戒は必要だが。
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そして昼過ぎ。
マリーナが公爵家の応接室でティータイムを過ごしているところへ、一人の客が到着するとの知らせが入った。侍女が耳打ちする。
「お嬢様、オーベル子爵令嬢のアニエス様がいらっしゃいました」
「アニエスが……? ふふ、ちょうどいいわ。通して頂戴」
マリーナはほのかな笑みを浮かべる。アニエス・オーベルは同年代の貴族令嬢で、マリーナが社交界にデビューした頃からの友人だ。王都周辺で情報通としても知られ、噂をいち早く集める能力に長けている。
まもなく応接室の扉が開き、華やかなボンネットとドレスに身を包んだアニエスが姿を現す。ふんわりとした栗色の髪が動くたびに揺れ、愛らしい印象を与える女性だ。だが、その瞳は意外なほど鋭く、相手の本質を見抜く眼力を持っている。
「マリーナ! 大丈夫? 大変だったわね!」
アニエスは開口一番、そう言いながら駆け寄り、マリーナの手をぎゅっと握りしめる。その表情には明らかな心配が滲んでいた。
マリーナは柔らかい笑みを返しつつも、少し首を傾げる。
「ありがとう、アニエス。けれど、私は思ったより平気よ。……それよりも、あなたのほうこそ飛んできたようね。何か掴んでいるのかしら?」
アニエスはハッとした顔をしたあと、少し緊張した面持ちで小声を潜める。
「うん……実は、さっそくあのイレーネ・コールマンって娘に関する情報を、いろいろ聞きまわってみたの。どうしてマリーナの元侍女が、こんなにも堂々と王子の婚約者になれたのか、不思議で仕方がなかったから……」
それからアニエスは使用人や関係者から集めた断片的な噂をひとつずつ話し始める。
イレーネがかつて他の貴族屋敷でも働いていた経歴があること。そこで、色男の旦那様や執事を手玉にとったという小さなスキャンダルがあったかもしれないこと。ただし、その屋敷は地方貴族だったため真偽は定かではないこと……など、断片的な情報がいくつも浮上している。
「なるほど、やはり簡単な相手ではないのね」
マリーナは興味深げに眉を動かしながら紅茶を口にする。イレーネの野心や手管は、想像以上に巧妙なのかもしれない。
「まあ、今のところ確実な証拠は得られていないわ。でも、これだけ怪しい話がちらほら出てくるなら……いずれボロを出すかもしれないわよね」
アニエスがそう言うと、マリーナは微笑を深める。
「そうね。ありがとう、アニエス。引き続き、もし何か聞こえてきたら教えてちょうだい。私もこちらから、いろいろと探ってみるわ」
「ええ、もちろん!」
その後、アニエスはマリーナの体調や気持ちを改めて気遣いながら、彼女の決意をそれとなく確認する。
「でも、マリーナ……本当に平気? 私だったら、こんな形で婚約を破棄されたら泣き崩れちゃうかもしれない。あの場の屈辱に耐えられたなんて、さすが強いわね」
「泣きたいと思わないわけじゃないけれど……もう涙を流しても無駄だという自覚があるの。私が守るべきものは、アルヴィス家の名誉だけじゃない。私自身の誇りだもの」
マリーナの瞳には揺るぎない意志がある。アニエスはそんな彼女に心からの敬意を抱きつつ、少しだけ安堵の笑みを浮かべた。
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午後、アニエスが帰った後、マリーナは自室で一人、膨大な思考を巡らせていた。
もしイレーネに後ろ暗い噂があるのだとしたら、確たる証拠を掴めば一気に評判を落とせる。平民出身の彼女には、カバーしてくれる大きな後ろ盾がない。クラウスが必死に守ろうとしたところで、そもそも彼自身が公務処理や社交対応を苦手としている。それをすべてイレーネがカバーできるとも思えない。
(つまり、私がうまく根回しすれば、二人が真綿で首を絞められるように追い詰められていくはず。)
それがマリーナの基本方針だった。大っぴらに攻撃を仕掛けるのではなく、あくまで周囲の目や噂によって、クラウスとイレーネを窮地に追い込んでいく。彼らを擁護できる人間はきわめて限られているのだから。
そこに、コンコンと扉をノックする音が響いた。
「お嬢様、ご報告がございます」
小柄な侍女が姿を見せ、少し興奮した面持ちで言葉を継ぐ。
「先ほど、宮廷から早馬が参りまして……第一王子リュカ殿下が、今日の夕刻にこちらへお越しになるとの連絡がありました」
「今日、ですって?」
マリーナはわずかに目を見開く。てっきり数日後くらいかと思っていたが、思いのほか早い展開だ。
「はい。本来ならば正式な日程調整を経てから訪問されるはずなのですが……どうやら急務らしく、簡易的に手配を済ませた上でいらっしゃるそうです」
「分かったわ。父様や母様には私からも伝えておく。……ありがとう」
侍女が去ると、マリーナは立ち上がり、姿見の前へ向かう。ロングドレスの襟元を整え、軽く髪を結い直しながら、心の中で思考をめぐらせる。
(リュカ殿下が急ぎ訪問してくるということは、やはり王宮内部が相当混乱しているのかも。……ならば、こちらの主張をどう引き出すかが大事ね。)
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夕刻。
アルヴィス公爵家の門に、王宮の紋章が刻まれた馬車が止まる。従者たちが馬車の扉を開けると、第一王子リュカ・フォン・モルトフェルトが姿を現した。
リュカは長身で端正な顔立ち。王族らしい気品の中にも、どこか親しみやすい落ち着いた雰囲気を持っている。深紅のマントに金糸の刺繍が施され、王家の象徴たる紋章をあしらったブローチを身につけていた。
「ようこそおいでくださいました、リュカ殿下」
玄関先で待ち構えていた公爵とマリーナ、そして公爵夫人が揃って出迎える。三人は恭しく礼をとるが、リュカは少し困ったように微笑み、すぐに彼らを制した。
「どうか、かしこまらずにいてください。私が突然お邪魔してしまったのですから、むしろ私の方がお詫びを申し上げるべきです」
リュカの言葉に公爵は首を振る。
「いえ、殿下がお越しくださるのは光栄です。さあ、中へお入りください。わが家の客間にご案内いたします」
リュカは随行の騎士を数名だけ残し、最低限の従者を伴って公爵家の客間へ通された。客間は豪奢というよりも品格を重んじた装飾が施され、奥には暖炉が焚かれている。冬の冷気を和らげる、少し暖かい空気が部屋を満たしていた。
リュカはソファに腰を下ろし、マリーナたちが向かい側に座る。早速、温かい紅茶が運ばれ、しばし静かな時間が流れた。暖炉の火がパチパチとはぜる音だけが小さく聞こえる。
やがてリュカは口を開く。
「まず、率直に謝罪を申し上げます。マリーナ嬢、そして公爵、ご公爵夫人……私の弟、クラウスが昨夜の場で、あのような暴挙に及んだことは、王家にとっても痛恨の極みです。国王も王妃も激怒しており、どう糾弾すべきか頭を抱えているところです」
リュカの表情は真摯だった。マリーナは静かに視線を落としながら、「ありがとうございます」とだけ呟く。
続けて、リュカは公爵家の3人を見回しながら言葉を継ぐ。
「今回の件は、アルヴィス公爵家にとっても想定外のことでしょうし、我々王家にとっても大きな痛手です。ですから、できる限り早急に解決策を見出したい。……それで私なりに、少々ご提案を持って参りました」
公爵はやや身構えた様子で頷く。どんな提案なのか、全く見当がつかないからだ。リュカが一息ついたのち、ゆっくりと説明を始める。
「結論から申し上げますと……クラウスは、イレーネ・コールマンという女性と正式に婚姻関係を結びたいと主張していますが、王家としては到底容認できない話です。特に公爵令嬢マリーナとの婚約破棄が、あまりにも乱雑かつ礼を逸している。これに関して、陛下は『クラウスがアルヴィス家に正式な謝罪と賠償を行い、そのうえでしかるべき処分を受けること』を考えているようです」
公爵は苦い表情を浮かべる。
「処分……ですか。もっとも、公爵家がただ謝罪を受けて穏便に済ませられるような話ではありませんが」
リュカは厳粛に頷く。
「おっしゃるとおりです。その点で、私もクラウスの行動を許せない。……ただ、当人は半ば『恋に盲目』のような状態らしく、話がまるで通じません。イレーネ嬢も、我が国で言うところの『堂々たる王子妃』を目指している節がある。それを止めるどころか、むしろ煽っているようにも見えます」
その言葉に、公爵夫人がやや声を荒げそうになるが、マリーナが静かに目で制した。
リュカはマリーナの動作を見て少し意外そうな顔をするが、すぐに話を続ける。
「今後は、クラウスとイレーネの双方を正統な場で裁く可能性もあるでしょう。……ただし、マリーナ嬢としては、どうお考えでしょうか? もしご希望があれば、私や宰相、そして陛下とも協力して、彼らが二度と身動きできないほどの制裁を下すことも可能かもしれない」
部屋の空気が重くなる。王家が本気で動けば、クラウスとイレーネの将来を絶つことも容易なのだろう。しかし、それがマリーナの望むところなのか。
マリーナは一呼吸おき、慎重に言葉を選ぶ。
「正直に申し上げますと……昨日のあの場で、私の名誉は傷つけられ、また公爵家にも深刻なダメージがありました。そうした無礼に対して、然るべき制裁は当然受けてほしいとは思っております」
リュカは頷き、続きを促す。
「ですが、同時に、私は個人的な感情として、『あの二人がどれほど現実を知らずに浅はかな行動を取ったのか』を、身をもって思い知ってほしいとも考えています。もし王家がただ強権的に罰を与えるだけでは、『殿下が一方的に押さえつけた』という形になってしまうかもしれません。それでは、クラウス殿下やイレーネ嬢が真の意味で後悔することはないでしょう」
静かだが、芯のある声だった。リュカはその言葉を聞き、僅かに目を見張る。マリーナという令嬢が、これほどまでに冷静で、かつ深く考えを巡らせているとは思わなかったのだろう。
「なるほど……では、マリーナ嬢のお望みは『ただ罰するのではなく、彼らに自分たちの愚かさを理解させる』こと、というわけですね」
「はい。もちろん、王家としての方針に口出しするつもりはありません。ただ、私は私として、自分の方法であの二人に報いるつもりです。そのうえで、王家が決める処分や制裁があれば、私どもアルヴィス家は協力を惜しみません」
公爵も夫人も、マリーナの言葉を聞きながら静かに頷く。
リュカはしばらく考え込んだ様子を見せたが、やがて決意したように声を上げる。
「分かりました。あなた方がそこまで仰るのならば、私も協力を申し出ましょう。……実は、私自身もイレーネ・コールマンについて、調べを進めているところなのです。まだ大きくは動けませんが、いずれ何らかの事実が掴めるかもしれません」
それは、リュカからの申し出——つまり、王家と公爵家が連携し、クラウスとイレーネの暴走を食い止めつつ、二人に自業自得の末路を味わわせようという意図が感じられた。
「ありがとうございます、リュカ殿下。私も微力ながら、情報共有などさせていただきますわ。……もっとも、私のほうは復讐心むき出しに見えないように、あくまで冷静に動くつもりですけれど」
マリーナは柔らかく微笑み、茶を一口飲む。その姿は、昨夜の屈辱を受けたとは思えぬほど穏やかだが、その瞳には冷え切った光が宿っていた。
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リュカが公爵家を後にしたのは、それから一時間ほど経ってからだった。彼は公爵やマリーナと話を詰め、「公に制裁を下すか否か」については国王や宰相と再度協議をすること、そしてマリーナの意向をできる限り尊重することを約束した。
玄関先での別れ際、リュカはマリーナをまっすぐ見つめて言う。
「私は……あなたを尊敬します。昨夜、あれほどの仕打ちをされながら、毅然とした態度を崩さないのは並大抵のことではない。……もしこれが恋愛小説であれば、あなたはさぞ『気高いヒロイン』として称えられることでしょうね」
意外な冗談めいた口ぶりに、マリーナは控えめに微笑んだ。
「……光栄ですわ。でも、私はただ、そうしなければ自分を保てないだけです」
リュカは少し苦笑いを浮かべ、「また連絡します」と言い残して馬車に乗り込む。
彼の馬車が門を出ていくのを見送ると、マリーナは大きく息を吐いた。体の力が抜け、足元にふらつきそうになる。
「大丈夫か、マリーナ」
そばにいた公爵が心配そうに声をかけるが、マリーナは「ええ、平気」と短く答える。
(第一王子リュカ。私に協力すると言ったけれど、それは王家のための行動でもあるわ。私を助けることが、王家への被害を最小限に抑える手段でもあるということ……)
だが、いずれにせよ心強い助力になるのは間違いない。マリーナはリュカの誠実さや、弟を深く案じる優しさを感じ取りながらも、必ずしも油断しない姿勢を保とうとしていた。
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その夜。
アルヴィス公爵家の広い寝室で、マリーナは衣装を脱ぎ捨て、薄手の部屋着に着替えていた。鏡台の前に腰を下ろし、ゆっくりと髪をほどく。
リュカとの会話を振り返り、彼がどんな情報を得ようとしているかを考える。王宮の権力を使えば、イレーネの過去もかなり深く探ることができるだろう。マリーナにとってはありがたい展開だ。
同時に、彼女自身が動きやすくなるための準備も進めていた。既に複数の貴族令嬢たちに協力を打診し、さらにアニエスのような情報通を使ってイレーネの弱点を探り続けている。問題は「いかに効果的な場面で、それを公にするか」だ。
(ただ暴露してスキャンダルにするだけでは物足りない。彼女が私にしたように、私の前で堂々と勝ち誇るような無礼……その何倍もの屈辱を与えてやりたいわ。)
感情的になりすぎてはいけないと分かっていても、ふと夜風に触れると冷たい怒りの炎が胸に燃え上がる。
(クラウス殿下も……私の存在を軽んじたこと、悔やんでも悔やみきれないと思い知らせてあげる。)
その思いを噛みしめるように、マリーナはベッドへと向かう。
——ところが、横になった途端、全身から力が抜けていく。
「あ……」
声にならない声が漏れ、あらためて疲労が極限に達していることに気づく。この一日だけでも多くの手紙に対応し、リュカ殿下とも対面し、友人たちとの情報交換を行い、イレーネの経歴を調べる段取りをつけ……頭も体も酷使した。
悔しさや怒りはあるが、それらが一周して、今はただ横たわりたい気持ちに襲われる。瞳を閉じると、意識が少しずつ遠のいていく。
(だめね……こんなに疲れを溜め込んだままじゃ。明日からも動かないといけないのに……)
心を静めようと、ゆっくり呼吸を繰り返す。すると、頭の中に昨夜の屈辱的な光景がよみがえってきた。あの婚約破棄の瞬間。クラウスがイレーネを新たな婚約者として公に発表した姿。そして、多くの人々がマリーナを同情し、クラウスを非難する視線を向けていた場面……。
まるで噛みしめるように思い出す。悔しさがにじむが、涙は出ない。かわりに、心の奥底に眠る「闘志」がむくむくと膨れ上がるのを感じる。
(悲劇のヒロインを演じるつもりはない。私はそんな女じゃない。……私を踏みにじった人間には、その報いを必ず受けさせる。)
そう、今の自分を支えているのは、この強烈な復讐心と誇りだ。それがある限り、倒れるわけにはいかない。
マリーナは深くまぶたを閉じたまま、手をぎゅっと握りしめる。疲れた体に微かに力がこもり、内側から熱いものが湧き上がってくるのを感じた。
(さあ、ここからが本番。まだ始まったばかりだわ。)
風は依然として冷たく、窓の向こうには雪がちらついているようだ。だが、マリーナの胸に燃え上がる意志の炎は、夜の闇を追い払うかのように静かに熱を帯びていた。今は深い眠りにつく時、けれど明日からまた、彼女は動き出すに違いない。
アルヴィス公爵家の力、友人たちの助け、そして第一王子リュカの協力——あらゆる手札を活用しながら、クラウスとイレーネが築き上げた儚い「幸せ」を、根こそぎ揺るがしてやろう。
それこそが「マリーナの逆襲」であり、もう止まることはない。
——こうして、公爵令嬢マリーナの新たな一日が終わりを告げる。
だが、その胸の内には、燃え盛る炎が消えずに灯っていた。
復讐と名誉回復を胸に誓いながら、彼女は次なる行動の準備を怠らない。
クラウスとイレーネの行く末は果たしてどうなるのか。そして第一王子リュカの協力の真意は……。
嵐の前の静けさが、今、王都ロゼンベルクを包み込んでいた。