放課後、春の風が吹き抜ける剣王会の部室で、私はついに決心していた。
「せ、先輩っ!」
剣道具の片づけをしていた藤井先輩が、ぴくっと肩を震わせる。私の声に驚いたのか、それとも私が珍しく真剣な顔をしていたせいか。いや、たぶん両方。
「……なに」
いつも通りの低いトーン。けれど、耳が少し赤いのは私だけが知っている。
「こ、今度の土曜日、空いてますかっ?」
「……なんで」
「い、いえ、その……あのっ!」
言えない。好きです、なんて。まだ無理。でも、せめて……せめて――
「どこか、一緒に行きませんか! たまには、部活じゃなくて!」
言った。やった。ああもう、心臓が口から出そう!
先輩は、一瞬だけぽかんと目を見開いた。それから、口の端だけで小さく笑った。
「……別にいいけど」
「やったぁぁああ!」
勢いよくガッツポーズを決めた私に、藤井先輩は小さくため息をついた。でも、頬がちょっぴり赤いから、これは……たぶん、脈アリ、だよね?
部室が暑いだけかな?
そして土曜日。
駅前で待ち合わせた私は、目を疑った。
「……っ!?」
そこには、衝撃的なコーディネートで立っている藤井先輩がいた。
グレーのハイネックに、蛍光グリーンのチェックシャツ(前開き)、下はなぜかカーゴパンツ。そして、アニメキャラのロゴ入りリュック。
うん、これは……初デートで着てくる服じゃないよ、先輩。
「な、なんか……イメージと違って、ちょっと……かわいい……ですね?」
精いっぱいのフォローだったけど、藤井先輩は「うるさい」とそっぽを向いた。その耳は、また赤い。
目的地は、私の希望で「おいしいラーメン屋さん」。でも――
「……ここ?」
連れてこられたのは、商店街の裏路地にある、年季入りすぎて看板の文字が剥がれかけてるラーメン屋だった。
しかも、中にいるのは明らかに40代以上のサラリーマンと作業服のおじさんたちばかり。
「……ここ、通ってた店」
たぶん、私が「おいしい店」としか言わなかったせいだ。悪いのは、私。
「い、いいですね……この昭和感! レトロってやつです!」
藤井先輩の顔が明らかにほっと緩んだ気がして、私もほっとした。
だが、事件はこの後すぐ起こった。
「ご注文は?」
「……しょうゆラーメン」
「私は、味噌で!」
店内はガラガラではないけど静かで、テレビからは野球中継の声がぼそぼそと流れている。
沈黙に耐えかねて、私は水を飲もうとした。
……その瞬間。
カシャッ!
隣で、乾いた音が響いた。
「ひっ……!」
振り向くと、藤井先輩が水のコップを床に落とし、割ってしまっていた。
店内が、凍りつく。
みんなの視線が藤井先輩に集まる。おじさんたちの視線が、地味に痛い。
「…………!」
藤井先輩が無言で立ち尽くした。
先輩、無言なのやめて。
先輩があたふたとしゃがもうとしたとき。
店員さん――恐らく店長――がカウンターから顔を出して言った。
「お兄さん、危ないので触らないでくださいね〜」
めっちゃ冷静……!!
その妙に優しいトーンに、先輩が固まった。
私は――もう、耐えられなかった。
「ぷっ……あっははははっ!」
笑ってしまった。ごめんなさい。でも無理だった。涙出るくらい笑った。
「……なにわらってんだ」
「だって……だって、藤井先輩、こんなにテンパってるの初めてで……かわいすぎる!」
店内がざわついた。おじさんたちが、「付き合ってんのか」「若いっていいなあ」とか言ってる。
藤井先輩の顔は、真っ赤だった。
「……バカ」
毒舌なのに、声が震えてるのは反則だ。
帰り道、駅のホームで、私はぽつりとつぶやいた。
「今日、すごく楽しかったです」
藤井先輩は、照れ隠しのようにそっぽを向いたまま、ボソリとつぶやいた。
「……おまえのせいで、人生で一番恥ずかしかった」
でも、その顔は……少し、笑っていた。