放課後の風は、ほんの少し春の匂いを含んでいた。
「まーりーなーっ!」
校舎裏に続く階段を降りた先で、紗綾が手を振っていた。新しい学年が始まり、彼女も茉莉奈と同じく2年生になった。クラスは離れてしまったけれど、その距離が二人の仲を壊すわけじゃない。
「ごめんね、待った?」
「ううん、今来たとこ」
いつも通りのやりとり。でも、紗綾の笑顔の奥には、茉莉奈だけには見える、ほんの少しの翳りがあった。
二人は自動販売機の前でジュースを買い、並んで腰を下ろす。
「慧先輩とさ、最近話してるよね」
ジュースのプルタブを開ける音が、やけに大きく響いた。
茉莉奈は、言葉に詰まる。
「うん……話す、かな。練習のときとか。あと、この前……一本付き合ってくれて」
「そっか。よかったね」
その言葉は優しくて、でも少しだけ、遠かった。
茉莉奈は缶を強く握りしめた。
「紗綾……大丈夫?」
「……うん、平気。だって、茉莉奈のこと、応援すると決めたから」
そう言って笑った紗綾の笑顔は、まるで桜が散る瞬間のように切なかった。
――私は、大切な友達を傷つけてる。
そう思いながら、止められない想いが、茉莉奈の中で静かに大きくなっていく。
その夜、茉莉奈は布団の中で何度も藤井先輩の言葉を思い出していた。
「……黙ってる方が可愛いぞ、お前」
ドクン、と胸が高鳴る。
「うぅ……あれって、どういう意味……?」
思い返すたびに熱くなる頬を枕に埋めながら、茉莉奈はごろごろと転がった。
そんな自分が少し可笑しくて、でも――嬉しかった。
翌日。部活の時間。
いつも通りの練習が始まる。だけど、どこか集中できない自分がいた。
(先輩、今日はいるかな……)
ちら、と視線を送ったその先に――慧先輩がいた。
冷静にフォームソードを振るその姿に、茉莉奈の胸はまた騒ぎ出す。
「天野、ちょっと来い」
「えっ!?」
突然の指名に、茉莉奈の心臓は跳ね上がった。
「俺と一本。前と比べて、どこまで動けるようになったか見せてみろ」
周囲がざわつく。
「また慧先輩、天野ちゃん指名か~」「最近多くね?」
そんな声が聞こえないフリをして、茉莉奈はコクリと頷いた。
「お願いします!」
剣を構えた瞬間、世界が変わる。
藤井先輩の構えは、鋭く、美しい。
(負けたくない――この人の目に、少しでも私を映したい)
茉莉奈は渾身の一撃を繰り出した。
……だが、その剣先はあっさりと受け流され、体勢を崩される。
「くっ……!」
「悪くない。でも、お前はまだ焦りすぎだ」
慧先輩の静かな声が、心にしみる。
試合は一瞬で終わった。
けれど、そのあとの慧先輩の言葉が、茉莉奈を驚かせた。
「天野、お前……このまま真っ直ぐ来い。そういう奴の方が、俺は好きだ」
「――えっ?」
「好き、って言っても、剣の話だ。勘違いするなよ」
そっぽを向いた慧先輩の耳が、ほんのり赤いことに、茉莉奈は気づいた。
(……ずるい)
そう思いながら、顔が自然と熱くなっていく。
練習後、更衣室で。
「慧先輩と一本? なんか距離近くなってない?」
紗綾の問いに、茉莉奈は言葉を詰まらせた。
「……うん。でも、まだわかんない。私、自信ないし」
紗綾は少しだけ、寂しそうに笑った。
「大丈夫、茉莉奈は可愛いよ」
「えっ、なにそれ、急に!」
「……だって、私、藤井先輩に振られてすぐに、自分の気持ちより茉莉奈の幸せを考えてる自分が、ちょっとだけ大人になれた気がしたんだ」
「紗綾……」
「だから、遠慮しないで。茉莉奈は、まっすぐでいいよ」
紗綾の優しさに、胸がぎゅっとなった。
二人は目を合わせて、ゆっくりと笑い合った。
親友って、たぶんこういう関係のことを言うんだ。
その日の帰り道。
校門の前で、慧先輩が茉莉奈を待っていた。
「……一緒に帰るか?」
「は、はいっ!」
小さな一歩だった。
でもその一歩が大きな一歩だった。