目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第16話「春風にゆれる心、近づく距離」

「……じゃあ、行くか」


そう言って、藤井慧先輩はすっと歩き出した。


茉莉奈の横を歩く、その背中は、いつもと変わらない。けれど、たった今、自分のことを――いえ、「剣について」好きだと言ったその人がすぐ隣にいるだけで、世界の色が変わって見えた。


(これ……夢じゃないよね?)


横顔を見たら、また心臓が跳ねてしまいそうで、茉莉奈はうつむきがちに歩く。

春の風が髪を撫で、制服の裾を軽やかに揺らした。


「……何か言いたいことがあるなら、言えばいい」


「えっ……?」


不意にかけられた言葉に、茉莉奈は目を見張った。


「さっきから、落ち着かないだろ。視線、何度もこっち向けてきてる」


「そ、そんなことないですっ!!」


真っ赤になって否定する茉莉奈の声に、藤井先輩は、少しだけ口元を緩めた。


「……お前、わかりやすいから」


「うぅ~……ご、ごめんなさい……」


「謝ることじゃない。お前のそういうとこ、俺は――」


「……俺は?」


「……いや、なんでもない」


「えっ!? ええっ!? 言いかけてやめるのが一番モヤモヤしますってば!!」


思わず食いついた茉莉奈に、藤井先輩は苦笑を浮かべた。


「……からかっただけだ。すまん」


「ずるいですよ、先輩……」


むぅっと頬を膨らませる茉莉奈に、慧先輩は少しだけ歩調を緩める。


ふと、彼の手がポケットから出されるのが見えた。


(手……)


茉莉奈は、自分の手元を見下ろした。春風に吹かれて、かすかに震えている自分の指先。


(……もし、もしも今、手を繋げたら――)


そんな勇気、ないくせに。


けれど、心が勝手に期待してしまう。


「……なあ、天野」


「はい……!」


「お前は、俺のこと、どう思ってる?」


「――――えっ?」


雷に打たれたような衝撃だった。


足が止まる。風が止む。時間が止まったような錯覚。


藤井慧の目が、まっすぐ茉莉奈を見ていた。


いつものように無表情だけど、なぜだろう。今日は、少しだけ熱を帯びているように見える。


「俺は……お前が気になる」


「……えっ」


「うるさくて、よく転んで、ドジで、真っ直ぐで……バカみたいに頑張ってるお前が、放っておけない」


茉莉奈は言葉を失った。


鼓動が耳まで響く。頬が熱い。何も喋れないのに、何か言わなきゃと思う。


「わ、私も……」


やっとのことで、声を絞り出す。


「私も……先輩のこと、好き……だと思います」


「思う、じゃなくて?」


「……好きです。すごく、すごく……好きになっちゃってました」


その瞬間、藤井先輩の表情が、確かに柔らかくなった。


彼がゆっくりと手を伸ばす。茉莉奈の手に、優しく触れた。


「……手、繋いでいいか?」


「……はいっ」


茉莉奈はそっと指を絡めた。

その温かさに、胸がきゅうっと締め付けられる。


夢みたい。だけど、現実。


二人で並んで歩く帰り道は、何気ない風景なのに、世界で一番特別だった。




――帰り道の角を曲がるとき、藤井先輩がぽつりと言った。


「……実は、紗綾に相談されてた」


「え……?」


「お前のこと、好きになるかもしれないって言ったら、“茉莉奈を、好きにさせてあげて”って。……お前、いい友達持ってるな」


茉莉奈の胸がきゅうっとなった。


「紗綾……っ」


(私なんかのために……あの子、そんなに強くなって……)


「……絶対、大切にします」


そうつぶやいた茉莉奈に、藤井先輩は静かに頷いた。


「俺も。……これからは、お前の隣にいてもいいよな?」


「はいっ……よろしくお願いします」


その返事には、春の空よりも澄んだ輝きがあった。




そして、交差点で手を離す直前――


藤井先輩は、茉莉奈の耳元にそっと顔を寄せて、こう言った。


「……黙ってる方が可愛いけど、今日のお前は、もっといい」


その声は、茉莉奈の全身を甘く包み込んだ。


「うぅ……だから、そういうのずるいって言ってるじゃないですかっ!」


「はは……そうだな」


春の夕陽が、二人の影を優しく重ねた。


それは、きっと――初恋が始まる音だった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?