「……じゃあ、行くか」
そう言って、藤井慧先輩はすっと歩き出した。
茉莉奈の横を歩く、その背中は、いつもと変わらない。けれど、たった今、自分のことを――いえ、「剣について」好きだと言ったその人がすぐ隣にいるだけで、世界の色が変わって見えた。
(これ……夢じゃないよね?)
横顔を見たら、また心臓が跳ねてしまいそうで、茉莉奈はうつむきがちに歩く。
春の風が髪を撫で、制服の裾を軽やかに揺らした。
「……何か言いたいことがあるなら、言えばいい」
「えっ……?」
不意にかけられた言葉に、茉莉奈は目を見張った。
「さっきから、落ち着かないだろ。視線、何度もこっち向けてきてる」
「そ、そんなことないですっ!!」
真っ赤になって否定する茉莉奈の声に、藤井先輩は、少しだけ口元を緩めた。
「……お前、わかりやすいから」
「うぅ~……ご、ごめんなさい……」
「謝ることじゃない。お前のそういうとこ、俺は――」
「……俺は?」
「……いや、なんでもない」
「えっ!? ええっ!? 言いかけてやめるのが一番モヤモヤしますってば!!」
思わず食いついた茉莉奈に、藤井先輩は苦笑を浮かべた。
「……からかっただけだ。すまん」
「ずるいですよ、先輩……」
むぅっと頬を膨らませる茉莉奈に、慧先輩は少しだけ歩調を緩める。
ふと、彼の手がポケットから出されるのが見えた。
(手……)
茉莉奈は、自分の手元を見下ろした。春風に吹かれて、かすかに震えている自分の指先。
(……もし、もしも今、手を繋げたら――)
そんな勇気、ないくせに。
けれど、心が勝手に期待してしまう。
「……なあ、天野」
「はい……!」
「お前は、俺のこと、どう思ってる?」
「――――えっ?」
雷に打たれたような衝撃だった。
足が止まる。風が止む。時間が止まったような錯覚。
藤井慧の目が、まっすぐ茉莉奈を見ていた。
いつものように無表情だけど、なぜだろう。今日は、少しだけ熱を帯びているように見える。
「俺は……お前が気になる」
「……えっ」
「うるさくて、よく転んで、ドジで、真っ直ぐで……バカみたいに頑張ってるお前が、放っておけない」
茉莉奈は言葉を失った。
鼓動が耳まで響く。頬が熱い。何も喋れないのに、何か言わなきゃと思う。
「わ、私も……」
やっとのことで、声を絞り出す。
「私も……先輩のこと、好き……だと思います」
「思う、じゃなくて?」
「……好きです。すごく、すごく……好きになっちゃってました」
その瞬間、藤井先輩の表情が、確かに柔らかくなった。
彼がゆっくりと手を伸ばす。茉莉奈の手に、優しく触れた。
「……手、繋いでいいか?」
「……はいっ」
茉莉奈はそっと指を絡めた。
その温かさに、胸がきゅうっと締め付けられる。
夢みたい。だけど、現実。
二人で並んで歩く帰り道は、何気ない風景なのに、世界で一番特別だった。
――帰り道の角を曲がるとき、藤井先輩がぽつりと言った。
「……実は、紗綾に相談されてた」
「え……?」
「お前のこと、好きになるかもしれないって言ったら、“茉莉奈を、好きにさせてあげて”って。……お前、いい友達持ってるな」
茉莉奈の胸がきゅうっとなった。
「紗綾……っ」
(私なんかのために……あの子、そんなに強くなって……)
「……絶対、大切にします」
そうつぶやいた茉莉奈に、藤井先輩は静かに頷いた。
「俺も。……これからは、お前の隣にいてもいいよな?」
「はいっ……よろしくお願いします」
その返事には、春の空よりも澄んだ輝きがあった。
そして、交差点で手を離す直前――
藤井先輩は、茉莉奈の耳元にそっと顔を寄せて、こう言った。
「……黙ってる方が可愛いけど、今日のお前は、もっといい」
その声は、茉莉奈の全身を甘く包み込んだ。
「うぅ……だから、そういうのずるいって言ってるじゃないですかっ!」
「はは……そうだな」
春の夕陽が、二人の影を優しく重ねた。
それは、きっと――初恋が始まる音だった。