「……当然、私はその場で奴の申し出を断りました」
「当たり前だ。そんな狡猾で強欲なバカが宰相になってみろ。あっという間に国が亡びるぞ」
「えぇ、そうですね……」
(そう、そんな奴が宰相にでもなれば、国民はおろか、国そのものが無くなってしまう。それを分かっていたはずなのに、私は……)
小さく拳を握ったレクシャは、表情を歪ませたまま話を続けた。
「ですが、私が断ることを最初から分かっていた奴は、取引を突きつけたのです」
「『取引』か」
「……はい」
『まぁ、あなたなら断るのは分かっていたので……取引をしましょう』
『はっ?』
(申し出を断った私を見て、楽しそうな笑みを浮かべたノルベルトは、私にとっては酷な条件を出してきた)
「ちなみに、その『取引』というのは?」
「っ……」
小首を傾げた宰相からの問いに、悔しさと怒りを滲ませたレクシャは静かに俯くと、拳が強く握った。
「っ!?……あっ、あの、レクシャ様?」
「聞くな」
「へっ、陛下?」
「そして、皆の者。矛を収めよ。これは、皇帝の命令だ」
皇帝がいるにも関わらず、殺気を纏ったレクシャに、周囲にいた騎士が剣に手を駆けようとした。
それを威厳のある低い声で止めた皇帝は、いつになく険しい顔をしながら、ひじ掛けでレクシャと同じく強く拳を握った。
「お前だって、今のこいつの様子を見れば分かるだろ?」
「そっ、それは……」
周囲を威圧するような雰囲気を出しているレクシャを一瞥し、宰相の表情がみるみるうちに強張った。
それを横目で見た皇帝は、宰相と謁見の間にいる騎士達に聞かせるように、レクシャに視線を戻すと静かに口を開いた。
「国民のためなら、自国の国王だろうが隣国の皇帝だろうが、容赦無く冷酷になれるこいつが、かつてないほどの憎しみに満ちた顔をしているということは……その愚か者と交わした取引は、こいつが愛する家族が関わっているはずだ」
「っ!?」
(国のためなら何でもするこの腹黒宰相の唯一の欠点は、一番大切にしている家族だからな)
息を呑んでいる宰相をよそに、皇帝は小さく溜息をつくと頬杖をついた。
「さしずめ、『家族に手を出して欲しくなければ、宰相の座を明け渡せ』ってところだろう……そうだな、レクシャ?」
「…………えぇ、大方は合っています」
そう返事をしたレクシャの脳裏には、王城の前でノルベルトから告げられた一方的な取引が蘇った。
『あなたが宰相の座を明け渡せば、あなたの愛する家族には一切手を出しません』
『っ!?』
『ただし、あなたが明け渡さなければ……』
「正直、私の命と引き換えに奴の暴走が止められるのならば、それで良いと思いました」
殺気を纏わせたまま、レクシャは懺悔するように呟いた。
(それで、サザランス公爵家が宰相家でいられなくなろうが、どうでもよかった。愛する家族が生きていれば、それでよかった)
「ですが……」
鬼の形相をしたレクシャは、脳裏に蘇ったノルベルトに小さく肩を震わせた。
『家族もろとも公開処刑をした上で、サザランス公爵家を【ペトロート王国の最大の汚点】として没落させましょう』
「くっ!!」
今の今まで押さえていた悔しさや憎しみ、怒りを爆発させるように、レクシャは皇帝や宰相達の前で、真っ赤な絨毯に拳を強く叩きつけた。
「私は! 家族が手にかけられることを恐れ、愚かにも奴の卑劣な取引に応じた……いや、応じざるを得なかった!」
(国王陛下や国民の信頼を得て、国の政を取り纏めている宰相として、愚かな判断をしたと分かっている。だが、家族だけは! 私の愛する家族だけは、どうしても手を出して欲しくなかった!)
懺悔をするようにゆっくりと背中を丸めたレクシャの目には、カトレアやラピス達には決して見せなかった涙が溢れていた。
「レクシャ……」
(国民と家族……どちらも大切にしているこいつにとっては、さぞかし辛い決断だっただろうな)
皇帝から憐れみの目を向けられているなど知らないレクシャは、脳内で再生されたノルベルトの言葉に悔しさで奥歯を噛み締めた。
『さっさと宰相の座を返せ……この簒奪者』
(私は、愚かにもノルベルトとの取引に応じたあの日を、1日たりとも忘れたことがない……いや、忘れるなんて出来るものか!)
拘束されているレクシャに向かって、ノルベルトが怨念を込めて放った言葉。
その言葉は、ペトロート王国で『切れ者宰相』であったレクシャ・サザランスから地位や名誉、そして愛する家族さえも奪った。