邸に戻ると、飛虎がすでに藍歌の傍にいた。邪魔をするのもあれなので、無明は戻った報告だけして、昨夜の晦冥での出来事はまた後日話すことにした。
ふと薄青の衣が目に入って、あの時の事を思い出す。明後日には紅鏡を離れて碧水に戻ると言っていた。明日は都を案内すると約束した。その時に衣を返すことにしようとひとり頷く。
衣裳を脱ぎいつもの黒い衣に着替える。髪の毛は面倒なのでそのままにしておく。書物や竹簡の山で埋め尽くされた文机を少しだけ片付けて、その空いた場所に伏せた。
頬にかかる髪や落ちてきた赤い紐はそのまま、近くにある書物をパラパラと適当に捲る。
「碧水、か。どんな所なんだろ。湖水の都か······綺麗なんだろうな······紅鏡も賑やかで好きだけど、叶うならいつか····他の地にも行ってみたいな」
『一緒に、碧水へ、』
あの時の白笶の声が頭に響く。今なら、それもいいと答えてしまいそうな気がする。初めて会ったはずなのに、なんだかわからないが懐かしさを覚えた。いや、覚えていないだけで、もしかしたらどこかで会ったことがあるのかも?
(うーん。あんな綺麗な顔のひと、一度でも会っていたら忘れないよね?)
明日また会って話をしたらなにか聞けるだろうか。ああ、その前に宗主に許可を貰わないと····と思ったところで、意識が途切れる。毒はほとんど抜けていたが、色々ありすぎて疲れていたこともあり、無明は机に伏したまま眠ってしまう。
少しして様子を見に来た飛虎が、部屋に静かに入ってきた。そして器用な格好で眠っている無明を抱き上ると、寝台へ運んだ。
正直、今日の無明の奉納舞や立ち振る舞いには驚いた。今まで素顔を覆っていた仮面は無くなり、隠していたモノが皆の前で晒されてしまった。その高い霊力も、能力も、行動力も。
鳥籠から放たれた小鳥が大空に飛び立ってしまうように、無明もいつか、自分たちの前から去っていくのだろうか。
「無明、お前は何を望む? 今まで通りの平穏や不変か。それとも大きな変化か」
ここに留めておくのは狭すぎるだろうか。藍歌も言っていた。このままこの小さな邸の中で終わらせていいのかどうか、と。
まだ幼さの残るその寝顔を見下ろし、頬にかかる髪の毛をそっと払う。なにかを決意するように、飛虎は邸を後にした。
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翌朝。藍歌に頼んで、宗主に外出の許可を貰った。その時に後で本邸に寄るように託を預かってきたようだ。
無明はいつもの黒い衣ではなく、外出用の白を基調とした赤い紋様が入った、本来金虎の公子が身に着ける衣を纏い、髪の毛はいつもの赤色の紐で高い位置で括っていた。
妖退治の時とは違い、外出用の衣は公子だと解る格好をしなければならない。今までも何度かこの格好で都を歩いたことがあるが、その時は仮面を付けていたのでどこに行っても無明だとすぐに判別できた。
しかし先ほど回ってきた店の者たちもそうだが、目の前の点心の店の顔見知りの売り子もまったくこちらに気付いてくれない。
「白群の公子様とそこの可愛らしいお嬢様! この店の点心はどれも甘さ控えめだが、上品で味も良いよ〜。日持ちもするから、お土産には最適だよ」
色鮮やかな茶請けの菓子を前に、背の高い公子の横から顔を出して、そのお嬢様はあれ? と見上げてくる。珍しい翡翠の瞳は大きく、どこまでも澄んでいた。
「紫陽花の点心、今日はもう売り切れなの?」
「ああ、それならまだ奥にあるから今、」
売り子の青年は首を傾げる。そしてまじまじとこちらを眺め、
「ん? どこのお嬢様かと思ったら、この声、その衣······まさか無明か!? 仮面がないからどこぞの一族の令嬢かと思ったよっ」
と、大いに驚き、ばんばんとその肩を遠慮なしに叩いた。
「まったくお嬢様だなんて、目が悪くなったんじゃない?」
わざとらしく頬を膨らませ腰に両手を当て、むぅと売り子を睨む。いや、どう見ても······と売り子は頬をかいた。
「すまん、すまん。お詫びに好きなだけ点心を包んでやるよ」
「本当? じゃあこれと、それと····あれもっ」
公子様はどれがいい? と袖を引っ張って訊ねてくる無明に、白笶は「任せる」とひと言だけ発する。こんな調子で色々な店からタダで貰った土産で、手が塞がっていく。
「それにしても····無明、隣の公子様とはどういう知り合いなんだ? 奉納祭のおかげで色んな一族の人たちがそこら中歩いていたが、白群の人たちが出歩く姿なんて今までほとんど見たことがないぞ?」
この売り子もそうだが、今まで訪ねた店のだれもが、無明に対して敬語を使わない。皆が皆、時に自分の息子や孫、または可愛い弟のように扱っているのだ。
「色々あって友達になったんだっ」
「そりゃ羨ましい。こんないい男、なかなかいないぞ。公子様、無明はこの辺りじゃ皆に好かれてる良い子です。邸の連中は馬鹿にしてるようだが、どんな小さな怪異でも、相談したら助けてくれるようなお人好しなんですよ。どうか大事にしてやってくださいね!」
「解った」
「え?」
即答した白笶に驚き、思わず見上げる。表情が全く読めなかったが、真面目に答える姿に誠実さを感じた。
夜に竜虎としている妖退治のことを知っているこの青年は、内緒と言ったのに広めた張本人なのだ。みんながみんなこの事を知っているわけではないが、土産の山はそれを知っている者たちからのものだった。
「ほら、これはお前の分。後で藍歌様と一緒に食べるといい」
「ありがと。じゃあもう行くね」
色鮮やかな青い紫陽花の形をした点心をふたつ包んで手渡すと、またな、と手を振ってふたりを見送るのだった。