――――その夜。
宗主に本邸に呼ばれた無明は、自分の耳を疑った。聞こえていないと思ったのか、飛虎はもう一度同じことを繰り返す。
「紅鏡を離れ、この国をその目で見て感じてくるといい」
「··········はい?」
目が点になっている無明を現実に戻すように、飛虎は話を続ける。
「藍歌とも話した。お前は、この小さな囲いの中で納まる器ではない。外の世界を見て、たくさんの人に出会い、修練を積んだ方がいいと。そして戻って来た時に、ひと回りもふた回りも成長した姿を見せて欲しいと」
「けど、竜虎にも聞いたでしょ? 晦冥でのこと。あの陣のこともさっき話したばかりで、」
あの陣がただの陣ではなく、烏哭の宗主が生み出したものかもしれないということを。
「それは我々が解決する問題であって、お前が案ずることではない」
「それに! 夜の妖者退治も、都の人たちの厄介ごとも、俺がいなくなったら······っ」
竜虎がひとりで引き継ぐことになる。そうしたらなにかあっても守れない。
「それは金虎の術士たちに任せる。私から命ずることで動かざるを得なくなるだろう。彼らにも多くの経験が必要だ。お前たちがやって来たことは手放しで褒めてはやれないが、良くやってくれた。同じ志で行動できる術士たちを増やすきっかけにもなるだろう」
ここに残るための理由をほとんど潰されて、無明は押し黙る。藍歌がすでに宗主の考えを汲んでいるため、藍歌を理由にもできないのだ。
「それに竜虎にはすでに話してある。今頃準備をしているだろう」
「え? どういう意味です?」
「表向きは竜虎のお供として、各地方の一族に挨拶がてら修練をつけてもらうという話にしている。朝から各宗主の元に出向いて話は付けてきた」
そこで無明は気付く。あの時、白漣宗主が言っていた言葉の意味を。
しかもあの様子からして、白笶も知らされてなかったのだろう。今頃どんな顔をしているかものすごく気になる。
「出立は明日。白群の宗主たちと一緒に碧水へ。その後のことはお前たちに任せる」
もうどうにでもなれと、無明は解りましたと答え、そのままその場に跪いた。深く頭を下げて儀式的な別れの挨拶を行う。
「父上、母上を頼みます」
「こちらの事は案ずるな。道中は危険だ。どんな時もふたりで協力して、しっかり学んできなさい」
顔を上げた無明の頭を撫で、それから小さな子どもにするように背中をぽんぽんと軽く叩いた。
ずっと、憧れていた外の世界、知らない世界。こんな唐突にそれを知られる機会を得られるなど、思ってもみなかった。書物の中でしか知らなかったこの国を、この眼で確かめられる。そう思うと、不安よりも好奇心の方が大きかった。
そしてなにより、竜虎も一緒だ。
父との別れを惜しみながら、本邸を後にする。
自分の邸に戻ると、藍歌の琴の音が聴こえてきた。何も言わず、その琴に笛の音を合わせて、愛しい気持ちを奏でる。
ずっと、一緒。
離れることなどないと思っていた。
ここから出ることも離れることもなく、たまに痴れ者を演じながら邸の者たちを欺き、それを楽しんで生きて行くのだと思っていたから。
点心の店の青年に貰った、鮮やかな青い紫陽花の菓子を藍歌に差し出し、ふたりで一緒に食べた。藍歌は何も言わず、ただいつものように優しく微笑んでくれた。
明日が来るのがこんなに寂しいだなんて、はじめて思った――――。