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2-22 白笶の願い



 目を覚ますと、自分の失態に血の気が引いた。


 薄暗いがお互いの顔や姿はなんとなく解る仄かな明るさの中、腕の中で眠る無明むみょうの姿があった。


 腰と肩に回していた手を思わず放すと、凭れていた無明むみょうの華奢な身体がぐらりと傾ぐ。冷静を取り戻して身体を受け止め、そのまま膝の上に頭を乗せて仰向けに寝かせた。


 状況を把握するために辺りを見回す。繭のような壁に包まれており、自由に身動きは取れないが大人ふたりが足を延ばせるくらいの広さはあるようだ。


 あの時、負傷した右肩は衣が破れて濡れているが傷は塞がっていた。口から顎にかけて水が零れたような痕があり、袖で拭う。反射的に無明むみょうに視線を落とすと、同じように唇が濡れていた。


 思考をしばし停止して、無言で無明むみょうの唇を袖で拭う。横に竹筒が転がっていること、傷が癒えていること、霊力が満ちていることを考えると、無明むみょうが水を通して霊力を注いでくれたのだろうということがすぐにわかった。


「······君に、話したいことがたくさんあるのに、」


 普段あまり表情の変わらない白笶びゃくやの眼差しが、まるで雪を解かす春の日差しのように穏やかで優しいものへと変わる。無明むみょうの冷たい頬に触れて、それから前髪をそっと指で整えた。


「私は、なにも伝えることができない。だからどうか、思い出さないで欲しい。なにひとつ思い出さず、今のまま····どうか、」


 祈るように、自分より小さく細い手を握り締める。どうか思い出さないで欲しい。そうすればこれ以上不幸なことは起こらないだろう。ずっと傍にいて、そのたくさんの表情を見ていられたら、それだけで。


「君の傍にいさせて欲しい」


 右の手を取り、そのまま手の甲に口付けをした。あの時。渓谷の鬼が口付けた場所と同じ場所にそれは落とされる。触れた唇は少しだけ震えていた。


 無明むみょうは目を開けるのを躊躇う。実は唇を拭われた時に意識が戻っていたのだが、目を開けようと思った時に白笶びゃくやが急に話し出したので、機会を逃したのだった。しかしそれが幸いして、いつも口にすることのない気持ちを盗み聞いてしまった。


(心臓が飛び出そう、)


 その行為も言葉も誠実さしかなく、それが彼の真実であることに心臓が煩いくらいばくばくと鳴っている。ようやく指から唇が離れ、今だとばかりに無明むみょうは知らないふりをして目を開けた。


「······平気?」


「俺は、大丈夫。眠ったら回復したみたい。公子様の怪我はどう?」


「君のおかげで、もうなんともない」


「ああ、うん、俺がなにしたか解ってて言ってるよね。でもあれしか思いつかなくて。ごめんなさい」


 問題ない、と平静な声で答え、身体を起こすのを手伝って、白笶びゃくや無明むみょうをそのまま自分の脚の間に背を向けて座らせた。少し乱れた髪の毛に触れ、緩んでいた髪紐を結び直してやる。慣れた手つきで器用に元の整えられた髪に戻すと、白笶びゃくやは本題に入った。


「ここから出て、外の状況を把握しないと」


「うん。でもどうやってここからでるの?」


 無明むみょう白笶びゃくやの胸に背中を預けて、そのまま左斜め上を向いて顔を眺める。とくに嫌がられるでもなく、白笶びゃくやは淡々とした表情で見下ろしてくる。


「ここは巣で、この繭が獲物を入れておくための物だろう」


「近くにいるってこと、だね」


 頷いて白笶びゃくやは同意する。そして言いにくそうに、視線を無明むみょうの腰に差している笛へと落とす。




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