午前の冷たい風が、王城の回廊に設えられたステンドグラスをかすかに揺らしていた。まだ雪解けの残る春先で、陽の光は暖かいが、吹き抜ける風には冬の名残が感じられる。そんな空気を吸い込みながら、第3王女フロリア・エルセリアは、ゆったりとした足取りで玉座の間へと向かっていた。
彼女の後ろを控えて歩く侍女たちは、フロリアの優美な後ろ姿をうやうやしく見守りつつ、少しだけ緊張した様子を見せる。というのも、本日はフロリアの婚約者であるランバルト公爵家の令息、アルフレッド・ランバルトがやって来る予定だからだ。
もともとフロリアとアルフレッドの婚約は、王家と名門貴族であるランバルト公爵家との結びつきを強固にするために取り決められたものだった。国王を含む宮廷の重臣たちは、この縁組が双方にとって大きな利益になると信じて疑わなかったし、フロリア自身も、「婚約は政略上のもの」という自覚を持ちながら、淡々と務めを果たすつもりでいた。
しかし、最近になってアルフレッドの行動に奇妙な噂が立ち始め、周囲は不穏な空気を感じ取っていた。なんでも「彼は平民の娘と親しくしている」というのである。貴族社会のしきたりや名誉を知り尽くしていれば、そんな軽率な行動には出ないはずだが、噂は絶えず流れ続けている。フロリア自身はもともとアルフレッドに大きな期待などしていなかったため、噂を耳にしても「ああ、やはり」と半ば呆れた程度だった。
もっとも、彼女の立場からすれば、婚約という結びつきは王家の威信を支える公的な意味合いが強い。自分の感情よりも、国や王家の状況を優先して、政治の一環として割り切るつもりでいたのだ。
王城の回廊を進むうちに、やがて玉座の間の扉が見えてくる。扉の前には衛兵が左右に立ち、フロリアが近づくと同時に無言で扉を開く。フロリアはふと息を整え、胸元を軽く撫でた。
(今日は何を話すのかしら。少し前までであれば、ただの挨拶と形式的な会話、そして周囲への顔見せだけだったのに。)
淡々とした婚約者同士のやりとり。それがこの数年、フロリアにとって当たり前の日常であり、そこに情熱的な感情など微塵もなかった。だが、近頃の噂を聞く限り、アルフレッドが目を輝かせて口にする「平民の娘」がいるというのは事実らしい。彼の口から何が語られるのか――その程度の興味は、フロリアにもわずかに湧いていた。
玉座の間に足を踏み入れると、そこにはすでにアルフレッドの姿があった。長身で金色の髪を持つ青年。貴族らしい端正な顔立ちだが、どこか落ち着かない様子であちこちに視線を彷徨わせている。
フロリアが視界に入ると、アルフレッドは一瞬びくりとし、気まずそうな顔をした。周囲には王城付きの侍従や近衛騎士も控えているが、本日は国王や宰相など、最上位の人物は同席していない。公的な話し合いというよりは、二人の個人的な面会に近い形での場になっている。
フロリアはアルフレッドに向かい、一礼する。アルフレッドもそれに倣うが、その動作はどこかぎこちない。そんな様子を見て、フロリアはうっすらと微笑んだ。
「ご無沙汰しておりますわ、アルフレッド様。今日はどのようなご用件で?」
穏やかな声を装う。だが、その内心では「どうせ愚にもつかない内容なのでしょう」と冷めた思いがあった。アルフレッドは微かに唇を震わせながら、目を伏せる。明らかに何かを言い出しづらそうにしていた。
フロリアはその様子を見て、「今日があの噂の核心部分を突きつける日だろう」と察する。どんな言葉を並べられようとも、自分は変わらず冷静であるべき――そう心に決め、背筋を伸ばす。
「……フロリア殿下」
アルフレッドは、フロリアを“殿下”と呼ぶ。その言葉にかすかな苛立ちを覚えながらも、フロリアは冷静に彼の言葉を待つ。いつもなら「フロリア様」と呼ぶはずなのに、妙に距離を置いた言い方だった。
「本日は、皆様に隠していたことを正直にお伝えしようと決意いたしました」
周囲にいる侍従たちが、少し息を呑んだ気配がある。フロリアはわずかに目を細める。
「隠していたこと、ですか。もしわたくしにも関係があることでしたら、ぜひ伺いましょう」
アルフレッドは自分の胸の前で拳を握りしめると、おそるおそる言った。
「わたくしには……真実の愛を見つけたのです。お相手は……平民の娘リサ。決して身分は高くありませんが、彼女は純粋で、わたくしが心から愛せる女性です。ですので、婚約を破棄させていただきたく――」
その瞬間、玉座の間に緊張が走る。侍従たちが一斉に顔を上げ、フロリアの様子を窺った。王家と公爵家との婚約は、それ自体が国の安定に寄与する重要な結びつきである。ましてや婚約破棄など、正当な理由なくしては到底受け入れられるものではない。
ところが、そんな空気の中でも、フロリアの表情は微塵も揺らがなかった。淡々とした面持ちで、アルフレッドを見つめ続ける。いつものように柔和な微笑さえ浮かべている。
「なるほど。それがあなたの望みならば、わたくしは構いませんわ」
一同が息を呑んだ。普通であれば「何を言っているのか」と怒りを露わにしてもおかしくないのだ。それほどまでに、この“王家の姫との婚約破棄”という事態は、貴族社会では重大な問題だからである。
アルフレッド本人でさえ、フロリアのあっさりとした返答に面食らったように目を丸くした。
「よ、よろしいのですか? その……王家とランバルト家の縁組というのは、わたくしたちの気持ちだけの問題では……」
「おっしゃる通り。ですが、こればかりは強制しても意味がありませんもの。アルフレッド様が本当にお望みなら、わたくしはそれを尊重いたします」
その声には感傷の色など一切感じられない。アルフレッドは次第に混乱の表情を深め、「ありがとうございます」と小声で呟いた。
こうして、名門貴族と王家を結ぶ一大縁組は、当事者であるフロリアのあっさりとした受け入れにより、表面上は穏やかに幕が下ろされたかのように見えた。だが、この知らせはあっという間に王宮内外へと広がり、周囲を大きく揺るがすことになる。
アルフレッドが早々に玉座の間を去った後、フロリアは一人きりでその場に立ち尽くしていた。侍女や侍従たちも彼女に声をかけづらいのか、離れた位置で動揺を隠せずにいる。
婚約破棄――それは、フロリアにとって決して小さな問題ではない。少なくとも、王家の人間としては不名誉な話だ。だが、彼女の胸中には不思議なほど静かな感情しか湧きあがってこなかった。
(やっぱり。以前から愚か者だとは思っていたけれど、ここまでとはね……)
フロリアは心の中で小さく嘲笑する。幼少の頃から、王家と公爵家が結びつくという重圧を背負い、外面では「可憐で従順な王女」を演じてきた。アルフレッドが軽率で、深く物事を考えない性格であることも、言動から見抜いていた。
それでも、「公爵家」という大きな後ろ盾がある以上、彼の存在は国政にとっても意味を持つ。フロリアはそれを承知していたからこそ、距離を保ちながら婚約状態を維持してきたのだ。
しかし、アルフレッドが自ら平民を選び、婚約を破棄すると決めたのであれば、もはやフロリアが何かをする必要はない。貴族社会では、王家との婚約を破棄することの重大さを知らないわけがないはずだ。彼がそこまで考えていないのであれば、その無知の代償は、ランバルト家全体が払うことになるだけの話。
(第3王女である私との婚約を袖にして、平民の娘を選ぶなんて。貴族としての自覚がまるでないのね。まあ、それで本人が幸せだと思うなら、ご勝手に。ただ、ランバルト家はこれで終わりね……。公爵には気の毒だけれど、自分の息子の教育を怠ったのだから、ある意味自業自得。)
やがてフロリアは、心の中でそう結論付けて、深々と溜息をついた。今後、自分に降りかかるかもしれない雑音を思えば少しだけ気が重いが、それでもアルフレッドという愚か者と形式上でも縁が切れるのは、むしろ好都合と考えている。
少し時間を置いて、フロリアは控えていた侍女の一人に小声で話しかけた。
「……お気遣い感謝しますが、大丈夫よ。少し部屋に戻るわ」
侍女ははっと目を潤ませ、フロリアに声をかける。
「殿下、本当にお辛くはございませんか? あのような……言い方をされて……」
「心配いりませんわ。私は強い女よ。貴女たちこそ、私より動揺しているんじゃない?」
「そ、それは……殿下のお気持ちを思うと、胸が痛くて……」
侍女は顔を伏せ、目元をハンカチで押さえた。フロリアは困ったように微笑み、そっと侍女の肩に手を置く。
「ありがとう。その優しさだけで十分。私は少し休むわ。何かあれば呼んでちょうだい」
そう言い残し、フロリアはゆったりとした足取りで玉座の間を後にした。
広い王城の廊下を進む間、視線を向けてくる使用人や近衛兵たちの表情から、すでに噂が一気に広がり始めたのがわかる。みな一様に心配そうな目を向けてくるのだ。だが、フロリアはその視線を気にすることなく、自室のある棟へと足を運ぶ。
王城の一角にあるフロリアの部屋は、白を基調とした内装が特徴的で、彼女の趣味に合わせた優雅な装飾品や花が配されている。さほど広くはないが、フロリアが過ごすにはちょうどいい広さだった。
部屋に入るや否や、フロリアは扉を静かに閉めて、壁にもたれかかる。表向きはまったく動じていない様子を見せたが、いざ一人になると、さすがに疲労が押し寄せた。
(とはいえ……ここからが面倒なところね。公的には婚約が破棄された、と周知されるでしょうし、その落とし前をどうつけるつもりかしら、ランバルト公爵家は。もっとも、王家を蔑ろにした時点で、もう詰んでいるようなものだけど。)
王家と公爵家の縁組――それは、単なる恋愛感情とは無縁の、政治的な結びつき。もちろんフロリアだって、運命の恋や真実の愛という言葉に憧れた時期がなかったわけではない。だが、王族として生まれたからには、まずは国や家の利害を優先すべきなのだ。
アルフレッドは、そうした貴族社会のルールを理解していないか、あるいは理解したうえで無視しているか。どちらにせよ、ランバルト家にとっては致命傷となるだろう。貴族同士の結びつきが連鎖的に壊れていくのは目に見えている。
(……下手に動く必要もないわね。私が何をしなくても、もう「婚約破棄」そのものがランバルト家の首を締め続けることになる。あの公爵がどう対応するか知らないけれど、既に手遅れじゃないかしら。)
ふと、小さく肩をすくめる。そして、机の上に置かれた水差しからグラスに水を注ぎ、一口含む。その冷たい感触は、胸の奥に小さく広がった苛立ちを鎮めてくれるようだった。
窓の外を見やると、王城の庭園が一望できる。冬枯れを経て、ようやく色彩を取り戻し始めた花々の芽吹きが、かすかな春の訪れを感じさせる。王城の庭は、季節ごとに異なる花が植えられており、フロリアは密かにこの庭園を気に入っていた。
それにしても、アルフレッドが口にした「平民の娘」リサとはどのような女性なのだろうか、とフロリアは少しだけ興味を持つ。もちろん、彼女を羨む気持ちはまったくないし、むしろ哀れにさえ思う。貴族社会を知らないまま、アルフレッドの甘い言葉にほだされているのかもしれない。
何より、フロリア自身はアルフレッドを一度も「魅力的な男性」だとは思ったことがない。高貴な育ちではあるが、その言動は軽はずみで、深い考えなど持っていない。そんな彼の言葉を鵜呑みにして、身分を超えた「真実の愛」などと信じるのは、ある種の無邪気さか、それともあまりに世間知らずなのか。
(私には関係のないこと。好きにすればいいわ)
さほど長い時間をかけることなく、フロリアの中でこの問題は「終わった話」になっていた。激しい怒りも、深い哀しみもない。ただ、愚か者を切り捨てる過程で、多少の混乱は生じるだろうから、その後処理だけが面倒だ――そう思うだけだ。
そこへ、部屋の扉がノックされ、控えめな声が聞こえてきた。
「殿下、失礼いたします。侍女長のエステルでございます。今、お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」
フロリアはグラスを机に戻し、扉のほうを振り返る。
「どうぞ。入ってください」
侍女長エステルは四十代半ばくらいの落ち着いた女性で、フロリアが幼少の頃から仕えている信頼のおける人物だ。彼女は静かに扉を開けて部屋に入り、深々と一礼する。
「殿下、本日は大変でしたね。皆、婚約破棄などという言葉を耳にして動揺しております」
エステルは低い声で言いながら、フロリアの顔を見つめる。その視線には憂慮の色が浮かんでいるが、フロリアに同情しすぎるような様子は見せない。プロの侍女長として、冷静な視点を持っているのだろう。
フロリアは、エステルの姿勢を少し心強く感じながら、静かに頷いた。
「ええ、予想以上にあっさりと切り出してきましたね。むしろ、ここまで率直に言われるとは思っていなかったわ」
「殿下は大丈夫でございますか? 本来ならお怒りになってもおかしくない話でしょうに、殿下は一切それを表に出されなかった。かえって皆、不安になるほどの落ち着きようでした」
「……お気遣いは感謝します。けれど、私は本当に平気なのよ。もともとアルフレッド様とのご婚約は、私の意思というより周囲の思惑によるもの。それが壊れたところで、さほど痛手には感じていません。むしろ、厄介ごとが片付いてほっとしているくらい」
フロリアは、あくまで淡々と言葉を続ける。それを聞いてエステルは少し目を伏せるが、その表情には安堵の色が混じっていた。
「そうでございますか。ただ、今後はランバルト公爵家がどのように動くか、あるいは王家がどのように対応するか……非常に難しい局面になるかと思われます。もしかすると、殿下のお気持ちを無視するような事態も起こり得るかもしれません。婚約破棄について何らかの取り決めがなされるとなれば、殿下を道具として利用しようとする勢力が動く可能性もあります」
「わかっています。だけど、やることは変わりません。私は第3王女として、与えられた立場を全うするだけ。下手に私が動かなくても、ランバルト家はもう終わりでしょうから」
フロリアの言葉には、透き通った自信があった。生まれながらにして王族という立場に身を置く者は、感情だけで物事を判断してはいけない。ましてや今回の事態は、アルフレッド自身が自ら王家を冒涜するような真似をしたのだ。婚約を破棄することで、貴族社会のルールを大きく踏みにじった。
どうなるかは火を見るより明らか。周囲の貴族たちは誰もランバルト家を擁護しないだろう。むしろ、この機会に一気にライバルを蹴落とそうと考える者だって出てくるはずだ。
「殿下の決断を、わたくしども侍女たちは全力でお支えいたします。とはいえ、どうかお気をつけくださいませ。宮廷は何が起こるかわかりませんから」
「ええ、もちろん。エステル、いつもありがとう。あなたには何かと迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、今後もよろしくお願いしますね」
フロリアの言葉に、エステルは深く一礼する。フロリアはその姿を見届けると、意識的に長い息を吐き出した。
こうして、第3王女フロリア・エルセリアはアルフレッド・ランバルトとの婚約を、あっさりと破棄された形になる。まるで花びらが一枚、ひらりと散るように、これまで何年も続いてきた“未来”が覆ってしまったのだ。
だが、本人が感じているのは解放感と、ほんの少しの呆れ。それ以外の感情はほとんど浮かんでこない。アルフレッドに対する未練も、もともとないに等しかったのだから。
その日の午後、フロリアはもう一度王城の廊下を通り、控えの間へ向かった。そこには、いくつかの理由で王城に訪れた貴族たちが集まっている。主だった貴族はまだ姿を見せていないが、噂好きの面々が既に情報を得ているのか、顔を合わせるなり遠巻きにフロリアを見つめてひそひそ声で話しているのが分かった。
フロリアは、そんな周囲の視線に対して何の反応も示さない。いつもどおりの優雅な立ち居振る舞いで、背筋を伸ばし、落ち着いた足取りで部屋の中央へ進む。
(きっと、皆面白がっているのね。王家の姫が婚約破棄されたなんて、一大スキャンダルに違いないもの。もっとも……私は別に笑われても構わない。笑われるべきは、ランバルト家の愚行だもの。)
視線の先では、公爵家に仕える一部の騎士たちが、落ち着かない様子で互いに言葉を交わしていた。どうやら、今日の出来事を知らされて動揺しているらしい。彼らもまた、自分たちの“主”が王家との婚約を反故にしたことで、今後の立場が危うくなることを予感しているのだろう。
そこへ、新たな人物が部屋へ入ってきた。ランバルト公爵本人――ではなく、公爵に仕える執事のひとりである。彼はフロリアを見つけるや否や、ひどく恐縮した様子で駆け寄ってきた。
「フ、フロリア殿下……このたびは、まことに申し訳ございません……わたくしどもは、何と申し上げればよいのか……」
汗をかきながら頭を下げる執事。その必死さにフロリアは少し驚きはしたが、彼がどういった立場なのかすぐに理解する。
ランバルト家の使用人としては、公爵令息が王家との婚約を破棄したとなれば、その責任がどこまで及ぶかわからない。執事や使用人は直接の当事者ではないが、それでも貴族社会においては、主の責が家全体に降りかかるのは常だ。
「顔を上げてください。あなたが謝罪する必要はありませんわ。これはアルフレッド様のご意志だもの」
フロリアは柔らかい笑みを見せる。言葉自体は穏やかだが、執事はますます肩を震わせてうなだれる。
「お、それでは、殿下はお許しくださると……?」
「“許す”も何も、私はただ受け入れただけです。アルフレッド様のご決断である以上、ランバルト家の皆様がどう対処されるかは、私の関知するところではありません。……ただ、お気の毒に、とは思いますわ」
フロリアはわずかな同情を込めて言う。執事は青ざめた顔で、さらに何かを言いかけたが、口をつぐんだ。そのとき、公爵家の騎士たちが彼を呼び、何やら耳打ちをしている。どうやら、今すぐにでも公爵と連絡を取り合わなければならないらしい。
フロリアはその様子を見届けると、特に引き止めることもなく踵を返す。
(公爵がどう出るか……いずれにせよ、もう手遅れだと思うけれど。)
ランバルト公爵がどうにかして婚約破棄を撤回させようと動く可能性は高い。あるいは、王家に平身低頭して許しを乞うかもしれない。しかし、当のアルフレッドが「真実の愛」という幻想に取り憑かれている以上、根本的な解決にはならないだろう。
そうこう考えているうちに、侍女から「殿下、陛下がお呼びです」との声がかかった。フロリアは一瞬だけ眉をひそめる。どうやら国王が、今回の一件について何らかの意見を述べるつもりらしい。
国王――すなわちフロリアの父であるグレゴール・エルセリア三世は、普段は穏やかな性格で知られているが、王家の名誉を傷つける行為に対しては厳しい態度をとる。今回の婚約破棄は、まさに「王家の権威を損なう」ものだ。彼が静かに怒りを燃やしているのは、想像に難くない。
フロリアは、侍女を伴って父のもとへ向かう。王城の奥まった部屋、執務室に通されると、そこには国王のほか、宰相や少数の重臣が同席していた。彼らの表情は明らかに厳しく、重苦しい空気が漂っている。
フロリアが深く一礼すると、国王は静かに口を開いた。
「フロリア、よく来た。……今回の件、既に聞いておるな」
「はい、陛下。アルフレッド様ご本人から、直接婚約破棄を告げられました」
フロリアがはっきりと答えると、宰相が息を飲んだような仕草を見せた。国王はうなずきながらも、その目には怒りの炎が宿っている。
「まったくもって許し難い話だ。王家との婚約は、一個人の気持ちだけで容易に動かせるものではないというのに……。公爵令息が、よりによって平民の娘との恋を理由に破棄を告げるとは、呆れを通り越している」
「はい。けれど、私としては、彼の意思を尊重いたしました。たとえ名門といえど、あのように安易に身分を捨てる方にしがみつく理由が見当たりませんので」
フロリアの言葉に、周囲の重臣たちがざわめく。あまりに冷静な反応に驚いているのだ。国王も、娘の揺るぎない態度を見て目を細める。
「そうか。お前の立場からすれば、それが最も理性的な判断なのだろうな。……だが、ランバルト家とはこれまで互いに協力し合ってきた関係だ。今回の件で、あちらのほうもただでは済まんだろう。公爵は、陛下のお怒りを恐れて、今すぐ謝罪に駆けつけたいと申していたが……」
宰相が苦々しい表情で言葉を継ぐ。
「しかし、我々としても、安易に公爵家の責任を不問に付すわけにはまいりません。すでに周囲の貴族からも非難の声が上がっていますし、王家の面目を潰したという事実は消えない。何より、婚約破棄を一方的に宣言され、王女殿下に恥をかかせたということで……公爵家への処罰は避けられないでしょう」
「そうですね。私としては、厳しい処罰が必要だと思います。例え公爵本人が止めようとしても、令息であるアルフレッド様の浅はかな行動がすべてを壊している以上、もはやどうにもならないかと」
フロリアはすらりと答える。第3王女とはいえ、王家の一員である以上、国や王宮を支えるための合理的判断を下すのも役目の一端だ。目の前の事態がいかに異常かをわかっているからこそ、私情を挟む余地はない。
国王は眉間に深い皺を寄せながら、しばし黙りこくった。その後、低く厳かな声で言う。
「ランバルト家への正式な処分は、近日中に評議会を開いて決定しよう。公爵本人に釈明の機会を与えるが、少なくとも、王宮への出入り禁止と、政治的権限の大幅な剝奪は避けられまい。アルフレッドに至っては、王宮に二度と足を踏み入れることを許さん。フロリア、お前はそれでよいか」
「はい、陛下。私は問題ありません」
フロリアが深々と頭を下げると、国王は小さく嘆息した。娘の心中を思えば複雑かもしれないが、今ここで余計な憐憫を示すよりも、国のために毅然とした態度を取ることが重要なのは、父としても理解しているのだろう。
こうしてフロリアは、正式に「婚約破棄された王女」として公的に認知される形となった。ランバルト家への処罰が進むにつれ、彼女の立場が何かしら変化する可能性もあるが、とりあえずはこのまま静観するしかない。
執務室を出たフロリアは、廊下で待ち構えていた侍女とともに歩き始める。周囲には、決定を待つ重臣たちの姿がちらほらと見える。彼らの視線は、疑問と不安を混ぜ合わせたような色合いだ。
彼らが何を考えているのか、フロリアには手に取るようにわかる。ランバルト家は、この国の貴族の中でも特に古く、王家との繋がりも深かった。そんな家が今回のことで没落すれば、権力の空白が生まれ、また新たな権力争いが起こる。
特に宰相派と大貴族派、そして地方貴族を束ねるような小領主派閥。これらの動きがどう変化するか、王宮の中枢を担う者たちは神経を尖らせている。フロリアは、それらの人間模様を想像しながら、静かに胸中で嘆息する。
(……本当に、下らないことで国の安定が揺らぐのだから、権力のバランスというのは脆いわね。もっとも、それを理解できなかったアルフレッドが最大の馬鹿というだけだけれど。)
彼女が婚約を解消されたという事実は、貴族社会の常識では“耐え難い屈辱”に相当する。だが、フロリアにとっては、むしろ面倒が一つ減ったくらいにしか感じられない。
思えば、アルフレッドと初めて顔を合わせたのは十年前。当時フロリアはまだ幼く、王家の行事に参加しては優雅な微笑を浮かべるのが精一杯だった。アルフレッドは同年代の中でも比較的優れた容姿を持ち、教養も身につけていると言われていたが、実際には深い知識や洞察力とは無縁の人間だった。
それでも、周囲が「二人はお似合い」と騒ぎ立て、両家の利害関係が整ってしまえば、婚約の話などたちどころに進んでしまう。それが貴族社会のシステムだ。フロリアはそれを受け入れ、表向きの愛想を振りまき続けたが、少なくとも“心”を重ねたことは一度もなかった。
(まあ、今となってはそれで良かったわ。愛情など欠片もなかったから、傷つくこともない。むしろ、奇妙な縁が一つ切れたと捉えましょう。問題は、その後に渦巻く政治的影響力の変化かしらね。)
フロリアは自室に戻り、窓を開け放つ。冷たい風がカーテンを揺らし、部屋の奥にまで入り込んでくる。まだ肌寒い季節だが、フロリアはその冷気が心地よかった。まるで、こびりついていた婚約という重荷を吹き飛ばしてくれるようだ。
心のどこかで、こう思っている。――これで新たな一歩を踏み出すことができるのではないか、と。第3王女という立場のままでいる限り、完全な自由が約束されるわけではない。だが、少なくとも形ばかりの相手に縛られる必要はなくなった。
一方で、ランバルト家が没落していく様を想像すると、ほんの少しの憐憫と嘲笑がないまぜになる。公爵はそれなりに地位と責務を果たしてきた人物だろうが、息子の教育を誤ったのだ。責任を問われるのは仕方ない。
(……それでも、これからどこまで追い詰められるかしら。公爵は激怒しているでしょうし、アルフレッドを廃嫡することもあり得る。でも、その廃嫡したところで、王家との婚約を破棄した事実は変わらない。結局、公爵家の信用は地に堕ちる。それが貴族社会の非情なルール。)
フロリアは椅子に腰かけ、机に置いた文書を手に取る。そこには、今後の外交案件や宮廷行事のスケジュールなどが細かく記されている。アルフレッドとの婚約に関する記載もあったが、もう必要のない項目だ。侍女や書記官がすぐに更新するだろう。
その文書をひととおり眺めたあと、フロリアはペンを取り、何かをさらさらと書き込む。心はすでに次の仕事へと向かっている。ここでいつまでも過去の破談を嘆き続けるほど、彼女は脆弱ではない。
時折、窓の外から鳥のさえずりが聞こえてくる。冬を越え、春の訪れを告げるあの鳴き声。婚約破棄という出来事は、フロリアにとってはまるで「暗い冬」が終わり、新しい季節を迎えたかのような気分にさせる。
――そう。これから先、フロリアが歩む道は、かつての「政略結婚を前提としたレール」とは違ったものになるのかもしれない。彼女にとって、この国にとって、それは吉と出るか凶と出るか。
その答えはまだ見えない。しかし、一つ確かなのは、アルフレッドが引き起こした婚約破棄が、王宮と貴族社会に大きな波紋を広げるという事実。そして、その渦中でフロリアは自らの生き方を選び直すチャンスを得た、ということ。
――こうして、第3王女フロリア・エルセリアの物語は、大きな転機を迎えようとしていた。何もかもが変わる。その予感は、春先のまだ冷たい風が告げている。
だが、この時点でフロリアはまだ知らなかった。激怒したランバルト公爵が、アルフレッドに何を命じ、どのような結末を迎えるのか。その余波が想像以上に大きなものであることを、そして自分の運命までも新たな方向へと導いていくことを――。
部屋の中に差し込む斜陽を見つめながら、フロリアはひとり、静かに微笑む。
(さようなら、アルフレッド。あなたの軽率さが、これからどんな破滅をもたらすか、私は見届けさせていただくわ。もっとも、私が手を下すまでもなく、あなたは自ら破滅への道を突き進んでいるでしょうけど。)
冷ややかな眼差しとともに、フロリアの心に小さな決意が芽生える。その決意は、王家の第3王女として、誇り高く歩んでいくという意思。そしていつか、新たな道を見つけたときには、誰にも干渉されない本当の自由を手に入れたい――そう願う思いでもあった。
こうして、何事もなかったかのように日常業務へ戻るフロリア。それを取り巻く王宮の空気は、今まさに嵐の前の静けさを孕んでいる。ランバルト公爵家にとっては、婚約破棄という言葉が、処刑執行書にサインをするのも同然の大罪であり、貴族としての信用を一瞬で失わせる行為となる。
これからフロリアの目の前で、彼らはゆっくりと破滅への道を辿ることになるだろう。フロリアにとっては、煩わしい政略婚を回避できるという解放感。ランバルト家にとっては、一家の存続すら危うくするほどの重大事。
そして、その余波は確実に王宮内部にも波紋を広げる。だが、どれほど大きな波紋が広がろうとも、フロリアは動じない。――そこには、内面の強さと、王家の血筋に裏打ちされた矜持があった。
没落の足音はもう聞こえてきている。だが、フロリアはその足音を憂うどころか、どこか愉快にさえ思っていた。自分を愚弄した男への“当然の報い”を、彼女はただ静かに待ち構えているに過ぎないのだから。