ランバルト公爵家における“婚約破棄”の報せは、驚くほどの速さで王都中を駆け巡った。王家の第3王女フロリア・エルセリアとの縁組を一方的に破棄した、というあまりにも衝撃的な噂は、貴族社会のみならず平民たちの耳にも届き、人々の好奇や嘲笑を呼んだ。
だが、その騒ぎの中心にいるフロリアは、相変わらず落ち着き払って日常をこなしていた。アルフレッドによる婚約破棄宣言の翌日も、彼女はいつものように侍女とともに王城内を巡回し、文書に目を通し、限られた外出許可の範囲で近隣を視察するなど、王族の務めを淡々と果たしている。
もちろん、周囲から見れば「内心は傷ついているのではないか」「実は何か大きな陰謀があるのではないか」と勘繰る者もいたが、当のフロリアは何も語らない。それどころか、柔和な微笑を湛えたまま静かに日々を送っていた。
一方、深刻な事態に直面していたのは、当のランバルト公爵家である。
ランバルト公爵――名をオズワルドという。王国でも五指に入るほどの旧家であり、国王家との繋がりは古く、現公爵であるオズワルド自身も相応の政治的手腕を持っていた。長らく王家を補佐してきた立場から、それなりの敬意と権力を得ていたのである。
その公爵家にとって、王女との婚約は“さらなる安定と地位の保証”を意味していた。だが、それをぶち壊したのは、他ならぬオズワルドの息子、アルフレッドだった。
1.公爵家の重苦しい朝
とある朝、公爵邸の大広間にはいつになく重たい空気が漂っていた。これまでは、広々とした空間に豪華な調度品が並び、使用人たちがきびきびと動き回る光景が当たり前だったが、今はその使用人たちも皆、陰気な顔をしている。
公爵オズワルドは、大理石の床に響く足音を無視して、部屋の中央を行き来しながら思考を巡らせていた。大柄な体格に威厳ある風貌、髪には白髪が混じり始めているが、まだまだ老け込むには早い年齢だ。
その横には腹心の執事や秘書官が控えており、「何とか挽回策を――」と何度も繰り返している。だが公爵の頭痛の種は、一つに集約されていた。すなわち息子アルフレッドの愚行だ。
「アルフレッドはどうしている?」
オズワルドは渋面を浮かべながら問う。執事が申し訳なさそうに頭を下げる。
「はい……お部屋に閉じこもり、あまり外へも出てこられません。何度か説得を試みましたが、『自分はリサと一緒になるのだ』とまるで聞く耳を持たず……」
「……そうか」
返答にも力がない。オズワルドは食いしばった歯をギリギリと鳴らしながら、すぐ脇のテーブルに置いてあった書類を乱暴に手に取った。書類には、“王家がランバルト公爵家を王宮への出入り禁止とする”旨の通達が記されている。さらに、この後開かれる評議会で、どのような処分が下されるかが正式に決まるとのことだ。
王家との婚約破棄――しかも第3王女からの申し出ではなく、あろうことか公爵令息のほうが一方的に破談にした、という事実。どれほどの大罪であるか、オズワルドは嫌というほど知っている。
もともと、王女との婚約が成立した当初は、多くの貴族や重臣が嫉妬や警戒を向けてきた。今やオズワルドは、その嫉妬や警戒を“嘲笑”という形に変えられ、彼らの標的となっている。公爵家を見限る貴族も少なくなく、連携していたいくつかの伯爵家や侯爵家は、すでに距離を置き始めているという。
「息子の教育を怠った……それは私の落ち度だ。だが、これほどまでに愚かとは……っ」
オズワルドは大広間の重厚な椅子にどかりと腰を下ろす。やり場のない怒りが、その厚い胸板を上下させている。
そこへ、家令の一人が駆け寄ってきた。額にはうっすらと汗がにじみ、かなり切羽詰まった様子だ。
「こ、これは大変です、公爵様。宮廷からの連絡がありました。評議会は、どうやら我が家への“爵位剥奪”を含めて検討するらしく……」
「爵位剥奪、だと……?!」
オズワルドは一瞬目を剥き、血相を変える。確かに厳罰は免れないとは思っていたが、まさか爵位そのものを剥奪されるという最悪の可能性まで視野に入っているとは。
家令はおどおどしながら視線を落とし、震える声で続けた。
「表向きの理由は、“王家を愚弄し、貴族間の信義を踏みにじった”となっております。さらに、他の貴族からの告発が相次いでいる様子で……ここぞとばかりに、過去にランバルト家が握っていた利権や政治的要職を取り上げようと動いているようです」
「くっ……! やはり、私が長年維持してきた影響力を、この機会に潰そうとする輩がいるというわけか……」
オズワルドは悔しそうに拳を握りしめる。ランバルト公爵家は、長らく国内の財政や商業の一部を牛耳り、王家にも多額の献金を行うなど、政治的に大きな存在だった。それゆえに敵も多かったのは確かだ。それでも、王家との繋がりによって辛うじて均衡を保っていたものを、息子の一存であっさり崩されるとは思ってもみなかった。
使用人や近衛騎士たちが大広間の壁際で固唾をのんでいる。その視線を感じながら、オズワルドは深く息を吐いた。そして、もはや躊躇を捨てたように、低く落ち着いた声で言い放つ。
「アルフレッドを廃嫡する……。もはや、それ以外に手はあるまい。奴は自らの愚行で我が家をここまで追い込んだ。今からでも、せめて息子を家から切り離すことで、ランバルト家は自分たちの責任を明確にしなければならん。王家の怒りを少しでも宥められるのなら……」
こうして、公爵オズワルドは自らの息子を廃嫡する決断を固めた。しかし、それで事態が収まるかは定かではない。何しろ、王家が今回の件をどう裁定するかは、フロリアの意向だけではなく、国王や宰相、評議会の重鎮たちの合議にかかっているのだ。
公爵家の者たちは、この先に待つ破滅の足音を耳にしながら、暗い面持ちでそれぞれの役目を果たそうと動き始める。廃嫡の手続き、各方面への弁明や謝罪の文書作成、取り引き先との契約見直し――目に見える形で、ランバルト家は没落の一途を辿ろうとしていた。
2.アルフレッドの葛藤
一方、そんな父の苦悩など露知らず、アルフレッドは公爵邸の奥まった部屋に閉じこもっていた。窓の外からは春の陽射しが差し込むが、その部屋の空気はどこか淀んでいる。
アルフレッドは豪奢な調度品が並ぶ室内で、ただ椅子に腰掛け、うなだれていた。机の上には数通の手紙があるが、いずれも「あなたは一体何を考えているのか」「お家の恥だ」という知人や親戚筋からの叱責の文面ばかり。
だが、アルフレッドの脳裏には、そんな非難以上に「リサの存在」が大きく占めていた。
「リサ……。彼女だけが、僕の本当の気持ちを理解してくれるんだ。誰にも邪魔されない、純粋な愛……。僕はもう、フロリア殿下との婚約にはなんの未練もない」
そう呟いてはみるものの、否応なしに耳に飛び込んでくるのは、公爵家の騒動だ。廊下を行き交う使用人たちの焦った声、父オズワルドの怒号、そして時折、母が泣き崩れるような嗚咽も聞こえてくる。
アルフレッドは薄暗い部屋の中で、震える声を押し殺しながら唇を噛みしめる。ここまでなるとは思わなかった。確かに、自分の行動が重大な結果をもたらすことはわかっていたつもりだが、まさか貴族としての爵位が剥奪される危機になるなど、想像もしていなかった。
「……でも、フロリア殿下との結婚生活を続けていたって、僕は幸せになれなかったはずだ。王家の人間として重責を背負う彼女には、僕みたいなのはお飾り程度しか相手にされない。そう、僕はただの駒だったんだ……」
アルフレッドは自分を納得させるように、そう繰り返す。
頭の中に浮かぶのは、リサの笑顔。彼女は平民だが、優しく純朴で、貴族社会のしがらみを知らず、アルフレッドを心から受け入れてくれる存在だった。いつしか、アルフレッドにとって彼女との時間こそが本物の幸福だと思うようになったのだ。
それが、この国の慣習を破るほどの大罪であることを自覚しながらも、退き返すことができなかった。もはや、これほどの騒ぎになった今、後戻りするのはプライドが許さない――そんな卑屈な意地もある。
「リサに会いたい……。こんな邸に閉じこもっていないで、いっそ彼女のもとへ行ってしまおうか……」
アルフレッドは立ち上がり、窓辺へ近づく。外を見ると、公爵邸の庭が広がり、さらに先には街道が伸びている。そこを越えれば市街地があり、そのどこかにリサが暮らしているのだ。
だが、彼にはまだわずかながらの貴族としての自尊心が残っていた。何も言わずに勝手に出て行っては、ますます家に迷惑をかける。ちょうどそのとき、廊下から複数人の足音が近づいてくる気配がした。
「……アルフレッド!」
部屋の扉が乱暴に開かれ、現れたのは父オズワルドではなく、公爵付きの騎士長である。やや年配の男で、家に長年仕えている忠臣だ。騎士長は苦悩の表情を浮かべながら、アルフレッドをまっすぐに見つめる。
「お前さまは、まさか本気でこの家を破滅に導くつもりか? どうか、一度でいい、フロリア殿下に謝罪する機会を……」
「無理だよ。王家が僕との面会を禁じているんだ。それに、そもそも僕はフロリア殿下と結婚したいわけじゃない」
「ならば、公爵様にどう釈明すればいいのだ? 今回の件で、我々の努力はすべて水泡に帰そうとしている。お前さまには、貴族として、多少の義務感や責任感というものはないのか!」
騎士長の声には怒りと悲しみが混ざり合っている。アルフレッドはその気迫に一瞬ひるむが、それでも退かない。
「責任なんて、知ったことじゃない。僕は僕の幸せのために生きたいんだ。もし貴族のしきたりに縛られて、愛してもいない相手と無理やり結婚しろと言うなら、そんなものはまっぴらだ!」
「……っ、愚か者が……!」
騎士長は拳を握りしめ、今にも殴りかからんばかりの勢いだった。しかし、アルフレッドの顔を見据えると、まるでその瞳の奥にある必死さを感じ取ったのか、一転して力なく肩を落とす。
「お前さまの気持ちも、わからぬでもない。だが、ここまでの事態になれば、もはやただの恋愛沙汰では済まされぬ。ランバルト公爵家がどれほどの立場に追い込まれているか……想像もできないのか」
「……できないわけじゃない。でも、それでも僕は……」
アルフレッドは震える声で、しかしはっきりと言葉を返す。騎士長はその態度に失望を隠せず、深いため息をついた。
「そうか。……では、お前さまは公爵様から間もなく“廃嫡”を言い渡されるだろう。それがどういう意味かわかるか? 財産も地位も、何もかも失うのだぞ」
「仕方ない……それでも、僕はリサを諦めたくない」
自分でも驚くほど固い決意が、アルフレッドの胸に根付いていた。騎士長はしばらくアルフレッドを凝視していたが、やがて首を振り、そのまま踵を返す。
「……好きにするがいい。だが、これでお前さまは二度と貴族社会には戻れぬだろう。公爵様の怒りを鎮める手立てはもはやない……。今、邸の中は混乱の極みにある。お前さまがこれ以上この家にいるのも、お互いにとって不幸かもしれんな」
そう言い残し、騎士長は重たい足取りで去って行った。
部屋に一人取り残されたアルフレッドは、まだ胸の奥で鼓動が早鐘のように鳴っているのを感じていた。いよいよ廃嫡――それはつまり、自分がランバルト家の嫡男でなくなること。将来公爵位を継ぐ権利も、領地も、財産も何もかも失うという宣告だ。
それを恐れないと言えば嘘になる。だが、彼の脳裏には「リサと生きる未来」しか浮かばない。貴族としての地位を捨ててでも、彼女と共に歩きたい。その思いだけが、アルフレッドを支えていた。
3.王宮に広がる動揺と陰口
一方、王宮では、この婚約破棄騒動が引き起こした余波で、貴族や官吏たちの思惑が交錯し始めていた。
まず、王家に仕える重臣たちが懸念したのは、「王女の名誉を踏みにじった」という既成事実が、王家の威厳を損なう可能性だ。これまで歴史上、王族との正式な婚約を破棄した貴族がいた事例は、ごく稀であり、しかもそれらは特別な事情(戦争や政変など)によるものだった。今回のように「平民との恋愛」を理由に、当事者である貴族が王族との結びつきを袖にするなど、前代未聞である。
また、ランバルト公爵家の“古くからの権力”を快く思わなかった派閥は、「これを機に公爵家を潰すべきだ」と声高に主張している。彼らにすれば、王家の名誉回復という大義名分がある以上、堂々と公爵家の政治力を削ぎ落とすことができるからだ。
逆に、公爵家と親しかった貴族たちは「何とか穏便に済ませたい」と願うものの、当のアルフレッドがフロリアへの謝罪や破棄撤回を試みない限り、和解の道はほぼ閉ざされている。
そんな中、フロリアのもとにも、連日多くの人々が面会を求めてやって来た。中には直接謝罪したいというランバルト家の関係者もいれば、今後の政治的動きを探ろうとする貴族もいる。
しかし、国王の命により「アルフレッド並びにランバルト公爵家の人間は、王宮への出入りを禁ず」という強硬な措置が既に布告されており、公爵家関係者はフロリアと会うことすら叶わない状況だ。
フロリア自身は、表向き「まだ落ち着いてお話をする状況にありません」と返すだけ。正直なところ、自ら動いてランバルト家と接触する理由が見当たらなかった。見苦しい弁明を聞くよりも、放っておいたほうが彼らにとっても良いとさえ思っている。
(公爵家の人々がどんなに慌てふためこうが、私には関係のないこと。アルフレッドが選んだ道なのだから。王家を侮辱した事実は変わらないし、もうどうあがいても手遅れでしょう)
フロリアは、そんな冷めた思いで王宮の回廊を歩む。彼女の周囲では、侍女たちが気遣わしげに様子を伺うが、フロリアはいつもどおり穏やかな面差しを崩さない。むしろ、すでに次なる王族としての務めに目を向けていた。
4.国王の怒りと公爵家への警告
王宮内の一室では、国王グレゴール・エルセリア三世が、宰相や数名の重臣と密談を行っていた。
机上にはランバルト公爵家に関する報告書が山積みになっており、公爵家がこれまでに得てきた利権や財政状況、政治的な結びつきなどが克明に記されている。その中には、今回の騒動に乗じて“公爵家叩き”を画策する貴族たちの動きも含まれていた。
国王は、娘であるフロリアを粗略に扱われたという個人的な怒りを抱きつつも、国全体を見渡す立場として、冷静に状況を判断しなければならない。もしここで公爵家を滅ぼすような強硬策を取れば、一時的にはランバルト家の勢力が失墜して王家の威厳は保たれるかもしれない。だが、その後の政治的バランスが崩れ、より大きな混乱を招く可能性もある。
宰相が硬い表情で言葉を切り出す。
「陛下、ランバルト家には確かに処罰が必要でございます。しかし、彼らの没落を急速に進め過ぎれば、旧来の貴族社会全体に波紋が広がりましょう。ランバルト家と密接に取引している商人や領地の住民も混乱をきたす可能性が高いかと」
「うむ……わかっておる。しかし、息子が王女との婚約を反故にした以上、甘い措置など取れる道理がない。公爵が陳謝してきたとしても、アルフレッド本人が謝罪や撤回を行わぬのでは、まるで形にならん」
国王は苛立ちを露わにする。宰相はうなずき、続ける。
「今のところ、ランバルト公爵家との和解を望む意見は少数派です。逆に、公爵家を叩くことで自らの地位向上を狙う貴族が多い。さらに言えば、陛下としても今回の件で王家の名誉を大きく傷つけられたわけですから、穏便な解決は得策ではないでしょう。
……ただ、爵位剥奪にまで踏み切るとなると、公爵家だけでなく周囲の勢力図が激変します。そこをどうコントロールするかが問題かと」
「ふむ……」
国王はしばし思案に沈む。フロリア本人は特に被害者意識を持っていないように見えるが、だからといって王家が軽んじられた事実は取り消せない。ここで強い姿勢を示さなければ、王家の権威が疑われる可能性もあるのだ。
そうした思惑の中、評議会の重鎮の多くは「ランバルト公爵家への厳罰」を支持していた。まさしく爵位剥奪、領地の接収などが案として飛び交い、さらにはアルフレッドの公爵家相続権は当然として、公爵自身にも責任を問う声が日増しに強まっている。
「もし公爵が息子を廃嫡し、『すべては未熟な息子の暴挙である』と明確に打ち出したとしても、それだけで済む話ではない。公爵は息子の教育責任を問われ、監督不行届として重い処分は避けられんだろう」
そう結論付けた宰相の言葉に、国王はゆっくりと首肯する。
(フロリアは今回の一件をどう受け止めているのか……)
娘の冷静な様子は、かえって国王の胸を締め付ける。フロリアの年齢であれば、普通は怒りや悲しみに打ちひしがれそうなものだが、彼女はむしろ意に介さない風だ。いや、王家の義務を知り尽くし、王族としての矜持を備えているからこそ、“私情”を挟まないと決めているのかもしれない。
いずれにしても、この問題がすぐに収束するとは考えにくい。国王はさらに深くため息をつき、ひそかに決意を固める。――近々開かれる評議会で、ランバルト公爵家に厳しい裁定を下す。その先に生じる混乱を含めても、ここで弱腰を見せるわけにはいかない。王家の尊厳がかかっているのだから。
5.フロリアの静観と周囲の反応
当のフロリアはというと、この数日の間、淡々と日々の職務をこなしつつ、王宮内の動きを観察していた。もはや、アルフレッドに対する感情は「冷笑」以外に言い表しようがない。自分が侮られたというより、王家全体を愚弄する行為をしておきながら、その影響をまったく考えていない彼に呆れるしかないのだ。
そんなフロリアの態度は、周囲に多様な反応を引き起こしていた。
「殿下は強いお方だわ……普通なら、あれほどの仕打ちを受ければ落ち込んで当然なのに」
「いや、むしろ本当は激怒されているのを必死に堪えておられるのだろう……」
「悲しいのを表に出せないだけかもしれませんよ」
侍女たちは心配そうに囁き合い、宮廷の女官たちも「フロリア殿下のご心中はいかばかりか……」と噂する。だが、フロリアは何を聞いても「大丈夫」の一言で済ませるだけ。彼女の穏やかな微笑がむしろ神秘的な印象さえ与えた。
ある日の夕刻、フロリアは執務を終えた後、侍女長エステルを伴って王宮の庭園を散策していた。陽は西に傾きかけ、柔らかなオレンジ色が石畳や草木を照らしている。
季節はゆっくりと春の盛りへ向かおうとしており、花壇にはいくつかの花がほころび始めていた。フロリアはその一輪を見つけて、ふと足を止める。
「……こんな場所にも花が咲いたのね。冬の終わりは寂しかったけど、やっぱり暖かくなると色彩が戻ってくるわ」
フロリアがそう呟くと、エステルは微笑を返す。
「ええ、殿下。この庭園は殿下が幼い頃から大切に手入れしていらっしゃいましたから、季節ごとに必ずどこかに花が咲くのです。長い冬を耐え抜いた分、綺麗に咲いてくれるのでしょう」
「……そうね。私も、耐え抜いたかしら?」
フロリアはどこか意味ありげに微笑む。エステルは少し言葉を探すように視線を落としてから、そっと口を開いた。
「殿下、もしお気持ちの整理がつかないようでしたら、どうか私どもに何なりとお申し付けくださいませ。こうして表向きは毅然としておられますが、殿下ご自身の心が痛んでいないか、私どもは心配で……」
「ありがとう。でも、私は本当に大丈夫。エステルや侍女たちの優しさこそ、今の私には充分すぎるほどの支えよ。……それに、思った以上に気が楽になったのも事実」
「……アルフレッド様と添われなかったことは、殿下にとって大きな痛手かと案じておりましたが……」
「いいえ、そこはまったく気にしていないわ。むしろ、あのような相手と一緒になるよりは、よほど今のほうが清々しい。それよりも、父や王宮が混乱するのは心苦しいけれど……。最終的にどう裁かれるかは、評議会の決定に委ねられるでしょうし、私は成り行きを見守るしかないの」
フロリアは赤みを帯びた空を仰ぐ。遠くには、王宮の尖塔が夕陽を受けてシルエットを浮かび上がらせている。
自分にとっての“婚約破棄”は、実はそこまで深刻な痛手ではなかった。むしろ、長年の“形式的な関係”から解放され、肩の荷が下りたような気分すらある。それだけ、アルフレッドとの婚約には心が伴っていなかったのだ。
それよりも、フロリアが少し気になっているのは“これから先のこと”。第3王女という立場から、別の政略結婚を持ちかけられる可能性もある。あるいは、今回の騒動が国際関係や内政のバランスに影を落とすかもしれない。
彼女は心の中でそっと問いかける。――これから自分は、どのように生きるべきなのだろうか。王族として、国のために尽くすのは当然。しかし、その一方で、いつかは自分自身の幸せを追い求める権利も持っているはずだ。
6.公爵の最後の抵抗
時をほぼ同じくして、ランバルト公爵家ではオズワルド公爵が「最後の抵抗」とばかりに動いていた。まだ正式な裁定こそ下されていないが、評議会の議題として“爵位剥奪”が提示されている以上、何とか回避する手段を模索しなければならない。
公爵は一縷の望みを抱き、王宮の宰相宛てに長文の書簡を送った。そこには、「自分の息子の勝手な行動であり、公爵家としては謝罪とともにしかるべき償いを行う」「アルフレッドは廃嫡し、今後いかなる責任も負わない」など、切実な訴えが綴られている。
しかし、返ってきたのは「公爵家の処遇は評議会の総意により決定される。現段階でお会いすることはできない」という冷ややかな回答のみ。王宮への出入りが禁じられている公爵自身が、面会を懇願すること自体が愚策だったとも言える。
「くそっ……! このままでは本当に爵位が取り上げられる!」
書斎で机を叩きながら、オズワルド公爵は焦りのあまり声を荒げる。傍らに控えていた秘書官や執事も、打つ手がないことを痛感していた。
結局、アルフレッド本人がフロリアや王家に頭を下げ、婚約破棄を撤回するなり、何らかの落とし前をつけることが最善の道だ。だが、現実にはアルフレッドがそれを拒絶している。
しかも、公爵家の政治的盟友だった貴族たちが、続々と公爵家との縁切りを表明し始めた。彼らもまた、王家に睨まれることを恐れ、早々に身を引いたのだ。
「もう……終わりなのか……」
オズワルドは絶望の表情を浮かべる。
まさか、自分が築いてきた家督と権威が、息子のたった一度の過ちでこれほどまでに崩れ去るとは想像すらしていなかった。公爵という地位から引きずり下ろされれば、広大な領地も、宮廷での発言力も、何もかも失う。そうなれば、公爵家はただの貴族以下の存在に成り下がるだろう。
それでも、息子は目を覚まさない。リサという平民の娘に固執し、王家への謝罪も拒み続けている。その現実を前に、オズワルドはもはや成す術なく、その壮年の身体を机に預けて肩を震わせるばかりだった。
7.運命を分ける評議会の開幕
そして、決定的な日が訪れる。王城にて、大規模な評議会が開かれることになったのだ。
評議会には、王国の重臣や大貴族の代表たちが集まる。主要議題は、当然ながら「ランバルト公爵家の処遇について」。通常であれば、王族との正式な場で当人(アルフレッド)やその家長(オズワルド)の弁明を聞くが、今回はすでに二人の王宮への立ち入りが禁じられている。代わりに、公爵家の代理人が意見陳述を行う予定だった。
フロリアは、この評議会に公式な立場で出席する必要があった。なぜなら、彼女自身が被害者――というよりも、“王家の姫として冒涜された”当事者であるからだ。
朝早く、フロリアは一段と上質なドレスに身を包み、髪を美しく結い上げてもらった。3人の侍女が丹念に準備を整え、その姿は王宮に咲く一輪の薔薇にも例えられんばかりの気品に溢れている。
だが、当のフロリア本人は、あくまでも穏やかな表情を保ちながら鏡を見つめている。
「ふふ……皆、そんなに緊張しないで。私がみっともない姿を晒すわけにはいかないから、一応華やかにしているだけよ」
侍女の一人が目を潤ませ、フロリアに声を掛ける。
「殿下……どうか、今日は無理なさらないでくださいまし。もしお辛いようでしたら……」
「大丈夫よ。ありがとう。今日の評議会で公爵家の処遇が決まるのでしょう? 私も王族として、しっかり最後まで見届けます」
フロリアの声は落ち着いていた。それでも、これから大勢の重臣や貴族が一堂に会する中で、“婚約破棄の被害者”として注目を浴びるのは確実。若い王女には相当な重圧となるはずだが、フロリアは気丈な態度を崩さない。
ほどなくして、王宮の評議室へと向かう時間になる。そこには既に、国王や宰相、主要貴族が席を占めており、厳粛な空気が漂っていた。フロリアが入室すると、場の注目が一気に彼女へ向かう。
「失礼いたします。第3王女、フロリア・エルセリア、参りました」
フロリアが一礼をすると、国王は静かにうなずき、席を示す。フロリアは用意された席に腰を下ろし、顔を上げた。目の前には、王国の最高権力者たちがずらりと並び、中央に宰相が座している。
すでに初めの段階の議題は終わり、本丸である「ランバルト公爵家の処遇」が始まるところだった。宰相が声を張り上げる。
「では、これより“ランバルト公爵家の処遇”について協議を進めます。今回の件は、王女殿下との正式な婚約を破棄するという、極めて重い問題であることは周知の事実。まずは、公爵家の代理人であるクラーク弁務官より弁明を頂きましょう」
そう呼ばれて、やや小柄な男が前に進み出る。公爵家付きの法務担当、いわゆる弁務官だ。彼は緊張からか顔が青ざめており、手元の書類を震える手で握りしめている。
「は、拝命しておりますクラークと申します。このたびは、我が主であるランバルト公爵オズワルドが、王家に多大なるご迷惑をおかけしたことにつき、心より深くお詫び申し上げます。息子であるアルフレッドの不埒な行いは、断じて公爵家全体の意思ではなく、公爵はすでに息子の廃嫡を決定しております。どうか、ランバルト家そのものの存続だけはお許しいただきたく……」
クラークが頭を下げると、周囲の貴族たちから辛辣な視線が集まる。さながら、一匹の小動物が猛獣に囲まれているかのようだった。
続いて、宰相が低く問いかける。
「存続を許せと申すか。だが、アルフレッドの行為は王女殿下を侮辱するものであり、ひいては王家全体に泥を塗るもの。その責任は、家長たる公爵が負わなければなるまい。仮に息子を廃嫡したところで、王家を愚弄した事実が消えるわけではないが?」
「そ、それは重々承知しております。しかし、公爵自身は王家との婚姻を強く望んでおりました。すべてはアルフレッドの身勝手な行動です。公爵はこの件を食い止めようとしましたが、結果的に止められなかった責を負う覚悟はございます。ですので、どうか家名の剥奪だけは……」
「つまり、公爵は“止められなかった”がゆえに責任を負うと? それで済む話かな。公爵家の教育・監督責任が問われているのだが」
宰相の追及に、クラークは言葉を詰まらせる。一方で列席する貴族たちの中には、明らかに楽しげな表情を浮かべている者もいる。ランバルト家の失墜を好機と捉え、ここで自分の派閥を拡大しようとしているのだろう。
フロリアはその様子を静かに見つめる。まったく、阿鼻叫喚というほどではないが、冷たく鋭い空気が充満している。この場にアルフレッド本人がいれば、どのような弁解を試みたのか――それを想像するまでもなく、結論は見えたも同然だった。
やがて、国王が低く厳かな声で言う。
「アルフレッドが王家を愚弄した事実は揺るがぬ。そして、公爵はそれを防げなかった。重い処罰は免れないだろう。……第3王女フロリア、そなたはどう考える?」
突然、自分に意見を求められ、フロリアは少し目を伏せたあと、すっと背筋を伸ばす。周囲の重臣たちも注目する中、彼女ははっきりとした声で語る。
「私は、アルフレッド様との婚約破棄を受け入れました。王族として、政略的な意味合いで縁組を結ぶことに抵抗はありませんでしたが、あちらがそれを望まないのなら、無理強いしても意味がありません。ですから、今回の件について、私自身は必要以上に恨みを抱いてはいないのです」
会場がざわっとする。被害者であるフロリアが、こうもあっさりと“恨みはない”と言い切るとは意外だったのだ。
だが、彼女はそのまま続ける。
「けれど、だからといって王家が侮られた事実が消えるわけではありません。私個人がどう思おうと、“王家の名誉を傷つける行為”に対しては、国として適切な措置を取るべきでしょう。ですから、処罰が下されるのは当然だと考えています」
凛とした声。フロリアが自分個人の感情を表に出さず、“王族”としての発言をしたことに、周囲はあらためて彼女の器量を認める雰囲気だった。
クラーク弁務官は、それを聞いて青ざめた表情をさらに濃くする。“フロリア自身が許してくれるかもしれない”という淡い期待は、今の言葉で木端微塵に打ち砕かれた。
王家が侮辱された以上、公爵家が厳罰を免れる可能性は極めて低い。フロリアの言葉は、“私情ではなく公的観点から処罰を下すのが正しい”と宣言したも同然である。
国王は、娘の毅然とした態度に小さく頷くと、宰相に目配せする。宰相は小槌を軽く打ち鳴らし、周囲へ呼びかけた。
「諸公は、只今のフロリア殿下のご意見を踏まえたうえで、ランバルト家への処分を最終決定いたします。なお、廃嫡は公爵家内の問題として既に表明されておりますが、我々としては“公爵オズワルド”本人にも責任を負わせる必要があると考えています。具体的には爵位と領地の剥奪、そしてしばらくの間、家名保持のみを許可する形が妥当か……」
その瞬間、クラーク弁務官が情けない声をあげた。
「お、お待ちください! 領地まで剥奪されては、公爵家は死んだも同然。どうか、どうかそれだけはお許しを……!」
「もはや決定事項だ。公爵の行い、というより息子の行いを止められなかった時点で、王家との信義を損なった責任は重大だ。評議会として、その処分を避ける余地はない」
宰相が冷然と言い放つ。貴族たちの多くも同調の声を上げる中、クラークは項垂れて言葉を失った。
国王は、その場をまとめるように最後の宣告を行う。
「ランバルト公爵家は、王家に対して重大な背信行為を働いた。その罰として、公爵オズワルドの爵位を剥奪する。領地も一時的に王家の管理下とし、後日、新たな領主を選定する。……評議会の総意として、それで異論はないな?」
反対意見が出るわけもなく、場は静まり返る。フロリアは黙って目を伏せた。クラークは床に膝をつき、そのまま動かない。――こうして、ランバルト家は正式に没落が確定したのである。
8.幕引きとフロリアの安堵
評議会が終わり、フロリアは王宮の回廊を一人歩いていた。周囲には侍女たちや衛兵が控えているが、敢えて距離を置いている。フロリアの様子を見て、今はそっとしておいたほうがいいと判断したのだろう。
先ほどの裁定により、公爵家の爵位剥奪は事実上決定した。あとは公的な手続きが進み、王家が領地を没収する形となる。アルフレッド本人はすでに廃嫡が宣言され、貴族としてのすべてを失う運命にある。
フロリアはその事実を思うと、わずかに胸の奥がチクリと痛む気がした。もちろん、彼の愚行を許す気はないが、かつては自分の婚約者として隣に立っていた相手だ。ここまでの結末を迎えるとは、さすがに想像していなかった。
(まあ、私が何もしなくても、勝手に自滅していったわけだし……。これこそ、“ざまあ”という展開なのかしら)
冷酷に聞こえるかもしれないが、フロリアはそう思わざるを得ない。本人たちが蒔いた種なのだから、責任を取るのは当然のことだ。
一方で、これで一連の婚約破棄騒動は、表向きにはひとまず幕引きとなるだろう。アルフレッドがリサとどうなろうと、すでにフロリアの知ったことではない。貴族社会のルールを踏みにじった以上、彼らは生きていくのも厳しい現実に直面するはずだが、それもまた自業自得。
フロリアがふと窓の外を見やると、陽光の加減が少し変化している。評議会はかなり長引いたのだろう、辺りはすでに夕刻に差し掛かっていた。
やさしいオレンジ色に染まる空を見つめながら、フロリアは小さく息をつく。
(これでようやく落ち着くわ。私は再び、王家の姫としての日常に戻るだけ。もともと政略結婚なんて望んでいなかったし、アルフレッドみたいな愚か者の相手をしなくて済むだけ、むしろ幸運だったのかも)
そう思うと、自然と肩の力が抜けた。実のところ、フロリアは自分でも驚くほど心が軽い。長年負わされてきた「公爵令息との婚約」という重荷が消え、ようやく自由な道が少しだけ開けたようにすら感じる。
当然、王家に生まれた責任から完全に解放されるわけではない。むしろ、今回の騒動によって「王女としてどこまでも毅然とした態度を取る」という役割が一層求められるだろう。だが、それはアルフレッドのような相手に合わせるより、はるかに気楽な義務だった。
背後から、静かに侍女長エステルが歩み寄る気配がする。
「殿下、評議会、お疲れ様でございました。……これで、ランバルト公爵家への処分は確定ですね」
「ええ。あの家は、息子の不始末で家名そのものを失いかけている。公爵様はどうなさるかしら……。廃嫡されたアルフレッド様はともかく、公爵様自身ももう終わりでしょうね」
フロリアは苦笑まじりに言う。エステルは複雑な表情を浮かべながらも、小さく頷く。
「そうですね。国王陛下も、これ以上は容赦されないご様子ですし、他の貴族たちも見て見ぬふりでしょう。ランバルト家が長年培ってきた威光も、今回の騒動で完全に瓦解するでしょうね」
「私としては、面倒が一つ片付いた。それだけよ」
フロリアは微かに口角を上げる。確かに、今後の政局や派閥争いにおいては予断を許さないだろう。だが、彼女個人にとっては、アルフレッドという存在が持っていた“しがらみ”が消えたことは大きい。
エステルはそんなフロリアの横顔を見守りつつ、そっと言葉を付け加えた。
「殿下、どんなことがあっても、私どもは殿下にお仕えし、お支えいたします。どうか、ご自分の望む道を見つけてくださいませ。もう、“あの方”に縛られることはないのですから……」
「ありがとう、エステル。……そうね、これからは私自身の意思で未来を決めていけるかもしれない。もっとも、王女の立場は続くけれど……それでも、私の人生は私が決めるわ」
夕日に染まる回廊を進むフロリアの足取りは、まるで束縛の鎖を断ち切ったかのように軽やかだった。
婚約破棄がもたらした結果は、ランバルト家にとっては破滅、フロリアにとっては解放――それがはっきりと分かれた形だ。アルフレッドとリサという二人が、これからどんな運命を辿るのか、もはやフロリアの知るところではない。少なくとも、王家や貴族たちは今後、彼らを冷たい目で見るだろう。それでもなお「真実の愛」を貫くというなら、それはそれで一つの生き方だろう。
しかし、その代償がどれほど大きいものかを、アルフレッドが理解するのは、これから先の話。フロリアの目には、そこに一片の同情も映っていない。――なぜなら、すべては自分で選んだ道だからだ。