ランバルト公爵家の爵位剥奪が正式に宣告されてから、およそ一週間が経過した。春を迎えた王都は例年であれば祭りの準備に浮き立つ頃合いだが、今年はどこか冷え冷えとした空気が漂っている。かつて王宮や貴族社会で大きな影響力を持っていたランバルト家が、わずかな期間で没落へと転落した――それ自体が王都住民の最大の話題となっていた。
もともとランバルト公爵家は広大な領地と莫大な資産を誇り、古くから王家を支える名門の一角だった。その威光は絶大で、貴族たちはもとより街の商人や職人たちにも「公爵様の後ろ盾」があるという安心感を与えていたほどだ。それが今や、一人息子アルフレッドの“軽率極まりない婚約破棄”を理由に、爵位を失い、公爵本人であるオズワルドも政治的影響力を根こそぎ奪われてしまった。
とはいえ、王家の裁定が下ったからといって、すべてがすぐに終わるわけではない。実際には、公爵家が抱えていた領地や財政、関連する事業の整理など、山のように処理すべき問題があり、王都を中心に様々な余波が生じていた。
そんな中、第3王女フロリア・エルセリアは、相変わらず冷静な日々を送っていた。
婚約破棄の件は、国民や貴族社会にとっては大きなスキャンダルだったが、当のフロリアは「自分にとっては既に終わった話」という姿勢を崩していない。王族としての公務を粛々とこなし、必要な儀礼や行事にも参加しながら、淡々と日常を営んでいる。
しかし――。
フロリアの周囲には、ここ最近“ある変化”が生まれつつあった。ランバルト家という古い柱が崩れたことによって、空白になった権力の座を狙う貴族たちが活発に動き始めていたのだ。そして、その矛先が「王家の第3王女」であるフロリアにも向けられようとしている。
要するに、“次は誰がフロリア殿下の縁談相手となるのか”という思惑が渦巻いているのである。元婚約者アルフレッドが自滅した今こそ、フロリアとの縁組が決まれば、自分たちの家の地位を一気に高められるかもしれない。そんな打算がちらついているのは明白だった。
この第3章では、そうした王宮内外の混乱や思惑に翻弄されるフロリア、そして没落後のアルフレッドとリサの姿が描かれる。さらに、新たな人物の登場がフロリアの人生に新たな選択肢をもたらすことになるのだ――。
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1.失墜した公爵家のその後
かつて「ランバルト公爵家」と呼ばれた邸宅は、今ではひっそりとその門を閉ざしている。表札や紋章は撤去され、華やかな装飾品も取り外され、敷地の一角には“王家管理地”を示す小さな印が立てられていた。
そこには今もなお、元公爵であるオズワルドと、その妻(アルフレッドの母)が暮らしている。だが、もはや使用人の多くは解雇され、屋敷の維持に関わる人手は必要最低限のみ。廊下にはかつての賑わいの面影はなく、寒々しい空気が立ちこめていた。
オズワルドは執務室という名ばかりの小さな部屋で、積み上げられた書類を前に頭を抱えている。領地や財産はほぼ没収され、残されたのは極めて限られた私財と最低限の家名のみ。爵位を失ったとはいえ、一応は“名門の末裔”という形式だけは残されているが、政争の表舞台からは完全に排除された。
時折、親類や古くからの友人を名乗る者が様子を見に来ることもあるが、既にほとんどが“他人行儀”になっており、オズワルドは苦笑いを浮かべるしかない。結局、この国の貴族社会は弱肉強食だ。強い存在が弱った途端、周囲は一気に離れていく。これはオズワルド自身が長年の政略で散々見てきた光景そのものだった。
(ああ……私が他家を追い詰めたときも、こんな心境だったのだろうか。いまさら遅いが……)
自嘲気味に呟いて、オズワルドは書類をめくる。そこには、王家から差し出された“新領主への財産移譲計画”がびっしりと記載されている。要するに、これまでランバルト家が保有していた領地や事業権を、別の有力貴族に振り分ける案だ。オズワルドは反論の手立てもないまま、書類に確認のサインを入れるしかない。
この一連の流れが完了すれば、彼の家は完全に力を失い、今後は王都の片隅で目立たぬように過ごすしかないだろう。
「公爵様……いえ、オズワルド様」
部屋の扉がノックされ、秘書官だった男が申し訳なさそうに頭を下げて入ってくる。長年仕えてきたが、この騒動で多くのスタッフが解雇され、彼だけが最後まで残った形だ。
「どうした。まだ何か用か」
「はい……こちらは、新しく割り当てられた仮住まいの手配に関する文書です。王家の指示で、今の邸宅は二週間以内に退去しなければなりません。専用の馬車や荷運び人夫は用意されるとのことですが……」
「そうか……わかった。すまぬな、何もかも。お前には苦労をかける」
「いえ……私など、ただご命令に従うだけですから。オズワルド様も、どうかお身体をお大事に」
そう言って、秘書官は深く頭を下げる。オズワルドはその姿を見て、もう一度ため息をついた。
――ランバルト家が失墜した原因のすべては、アルフレッドの“愚行”にある。しかし、オズワルドも父として、教育を怠った責任は免れない。王家や評議会は、その点を厳しく追及した。裁定が下った今となっては、もはや何を言っても後の祭りだ。
では、当のアルフレッドはというと……完全に行方をくらませていた。廃嫡の宣言を受けた後、屋敷に寄りつかなくなり、どうやら平民街のほうへ逃げるように移り住んだという噂だけがかすかに伝わってくる。
オズワルドは息子の顔を思い浮かべながら、やり場のない怒りと哀しみを抱えていた。どこかで無事ならばいいが――そう思う反面、「もう顔を合わせることもないだろう」という冷酷な諦観もある。貴族としての名誉を捨て、家を破滅に導いた息子など、もはや見限るしかないのだ。
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2.アルフレッドとリサの新生活
一方、アルフレッドは王都の外れにある貧民街とまではいかないが、中流階層が居住する雑多な地区に身を置いていた。
商人や職人、あるいは日々の糧を得るために働く人々が集まるその地区は、貴族の邸宅が立ち並ぶ中心街とはまるで空気が違う。石畳はところどころで剥がれ、路地裏には生活の残滓が散乱し、人々は懸命に生きるために仕事を探しては朝から夜遅くまで動き回っている。
そこに、小さな下宿屋を見つけ、アルフレッドとリサは同居生活を始めていた。もはやランバルト家の名は捨て去り、アルフレッドは平服を纏い、リサの労働によって生計を立てるしかない状況に陥っている。
「アルフレッド……大丈夫? あまり顔色が良くないわ」
リサが細い声で問いかける。
安アパートの一室。日の光が差し込みにくい角部屋で、壁には染みが浮いており、床も軋む。この部屋が、アルフレッドにとって今の“住処”だ。かつて王宮のパーティで着ていた高価な衣服や宝石は売り払ったり、実家に置いてきたりしたため、今は粗末なシャツとパンツ姿。それでも、どこか似合わないのは、元貴族の雰囲気が抜けきっていないからだろう。
「……平気だよ。少し頭痛がするだけだ」
アルフレッドは辛そうに頭を押さえている。金銭的な余裕がなくなった今、栄養ある食事もままならず、何より精神的に追い詰められていた。
彼は改めて「平民としての生活」がどれほど過酷なものかを思い知らされる。朝から晩まで働いて、ようやく日銭を稼ぐ。少しでも病気になれば医者にかかる費用すら苦しい。衣服や生活必需品も、すべて自分の財布と相談しなければならない。
だが、アルフレッドはまだ何も仕事を見つけられず、実質的にはリサの内職や雑用で稼ぐわずかな金で生きているのが現状だった。貴族時代の教育は受けているが、それがこの街での“実務”に直結するわけではない。貴族的な礼儀作法や古典知識をひけらかしても、誰も雇ってはくれないのだ。
「……ごめんね、アルフレッド。私の稼ぎだけじゃ、食べていくのがやっとで……」
リサは気落ちした様子で言う。彼女自身も元々は下町の出身で、家族は農村に住んでいた。しかし両親が亡くなり、行き場を失って王都へ流れ着いた経緯がある。王都では洗濯屋の手伝いなどをして糊口をしのいでいたが、アルフレッドを支えるには到底足りない収入だった。
アルフレッドはそんなリサに申し訳なさそうに視線を向けながら、かすかな笑みを作る。
「いいんだ。僕が選んだ道だから。……そのうち何か仕事を見つけるよ」
そうは言うものの、現実は厳しい。貴族の名を捨ててきたアルフレッドは、実務経験がなく、体力勝負の職場に馴染むこともできない。商才があるわけでもなく、数字や売買に疎い彼は商人からも敬遠される。短期間に稼ぐあてなど、そう簡単には見つからないのだ。
リサも「私が働くから大丈夫」と言うが、彼女の働き口も不安定な日雇い業が中心で、日々の生活すらままならない。ましてや部屋の家賃、食費、雑費を合わせれば、常に金策に追われる日々だった。
(でも、僕はリサと一緒になりたかったんだ。愛さえあれば、苦労なんて乗り越えられると信じていた……)
アルフレッドはうつむいて、唇を噛む。
しかし、もはや貴族だったころの自分には戻れない。廃嫡され、家との縁も完全に切られた今、ランバルト家の資産に頼ることは不可能だ。父オズワルドがどれほど苦しんでいようと、アルフレッドが口を挟む余地などない。
リサはアルフレッドの苦悩を感じ取っているのか、「大丈夫よ、私も頑張るから」と必死に励ましてくれる。しかし、それすらもアルフレッドにとっては重荷になりつつあった。
「……僕がこんなに何もできない人間だったなんて……」
内心で自嘲する。平民の娘と恋に落ち、「真実の愛」を貫くと豪語したところまではいいが、その先の苦難を具体的に想像できていなかった。
それでも、愛を理由にすべてを捨てたアルフレッドは、今さら「間違いだった」とは言えない。もしそれを認めてしまえば、自分の決断の全否定になってしまう。
かくして、アルフレッドは行く当てもないまま、リサと二人、厳しい生活に耐えているのだった。
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3.王宮に渦巻く新たな思惑
ランバルト公爵家の没落が確定し、アルフレッドも姿を消した。王宮内部では、ようやくひとつの混乱が収まったかに見えた。
しかし、実際にはそう簡単に安定は訪れない。むしろ、空いた“椅子”を巡る争いが激化するのは、貴族社会の常だ。今まさに、有力貴族たちは次なる一手を狙っていた。
特に注目されているのが「第3王女フロリアとの縁談」。フロリアはまだ若く、王族としての人気も高い。加えて、アルフレッドとの婚約破棄騒動を毅然とした態度で乗り越えたことで、貴族たちの間では「優れた器量を持つ王女だ」という評価が急速に広まりつつあった。
もしこのフロリアと婚約し、いずれ結婚でもすれば、王家との強い繋がりが得られるのは言うまでもない。政治的に一気にステップアップできる絶好のチャンスだ。そう考える者が増えるのは当然だった。
王宮に仕える重臣の一人、ラウル伯爵は、ある午後に宰相室を訪れていた。
ラウル伯爵は中年の男で、近年台頭してきた新興貴族の代表格とも言える存在。財力に物を言わせて商業や軍事部門に投資し、若くして伯爵位を得た才覚の持ち主だ。
宰相の執務室で椅子に腰掛けたラウルは、猫なで声をつくりながら切り出す。
「宰相殿、先日のランバルト家への処分、お見事でございました。王家の権威をしっかり示し、貴族社会の秩序を維持してくださったこと、私も安堵しております」
「おだては結構。……それで、今日は何のご用向きかな?」
宰相は警戒の色を隠さず、冷淡に返す。ラウル伯爵は気にするそぶりもなく、続ける。
「実は、そろそろフロリア殿下のご縁談を進めてもよろしいのではないかと。ランバルト家の一件が片付いた今、殿下を放置しておくのは、むしろ王家にも損失かと存じます。私めとしては、ぜひとも殿下にふさわしいお相手をお探ししてはどうかと……」
案の定というべきか、フロリアとの縁組の話を切り出す。宰相はわずかに眉をひそめる。
「フロリア殿下は、今回の件で迷惑を被った当事者でもある。あまり早急に“次の婚約”などというのは、配慮に欠けると思うがね」
「しかしながら、殿下は王族として立派なお力をお持ちです。若く美しく、しかも聡明。これから国を支える重要なお方となりましょう。となると、その“お相手”がどのような人物かは、国全体にとっても重大な関心事。……早めに決めておくに越したことはないのでは?」
ラウル伯爵がそれらしくもっともな理屈を並べ立てる。実際、フロリアの縁談を“商談”のように考える輩は少なくない。
宰相としては、フロリア本人の意思を尊重したいという気持ちもあるが、王族は国政と切り離しては考えられない存在だ。王太子である第一王子や、他国に嫁いだ王女たちの例もあるように、政略結婚は避け難い現実である。
宰相は重い口を開き、静かに答える。
「フロリア殿下の縁談については、国王陛下のご判断が最優先となる。……しかし、まだ殿下ご自身が“婚約”というものに対してどう考えておられるか、不透明な状況だ。ランバルト家との破局から日が浅いしな」
「それはもちろん、私も承知しております。ですが、もし殿下に“もう少し時間が欲しい”というお気持ちがおありなら、それも含めて、今後の話し合いをしていくべきかと。いきなり婚儀の日取りを決めようというのではなく、候補者をいくつか挙げ、殿下にご選択いただく――というプロセスなら、問題ないはずでしょう」
ラウル伯爵の言葉には隠しきれない野心が透けて見える。自分もその候補の一人として名乗りを上げるつもりなのだろう。
宰相は内心で苦笑する。王家の婚姻に安易に手を出せると思うのは、ラウル伯爵のような成金貴族だけではない。古参の貴族もまた、今こそチャンスとばかりに動き出すに違いない。
(まったく、フロリア殿下に少しは落ち着いた時間を与えてやりたいものだが……。これもまた王族の宿命か)
宰相はそんな思いを抱きつつ、当たり障りのない返事でラウル伯爵を送り出した。表向きは「検討してみよう」と言いながら、実際にはまだ何も具体的に動くつもりはない。
ともあれ、こうして王宮内では、フロリアの“再婚約”に向けた噂話や駆け引きが徐々に表面化し始めていた。
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4.フロリアと新たな出会い
フロリア自身は、この動きに気づいていないわけではない。むしろ、王宮の侍女や近臣たちを通じて、「あちこちから縁談の打診が来ている」という報告を受けていた。だが、彼女はそのたびに「まだその気はありません」とやんわり断っている。
婚約という形式に懲りたわけではないが、“ランバルト家との一件”を経験したばかりの彼女には、一度落ち着いて自分の将来を考えたいという気持ちがあった。政略結婚の道具として扱われるより、自らが納得する形で相手を選びたい――そんな淡い願いがフロリアの胸の奥に芽生えていた。
そんな折、王宮に一人の客人が訪れる。隣国の使節団に同行してきた、若き侯爵令息だという。名前をリシャール・ド・クレールモンといい、隣国の中でも名門とされる家の生まれだそうだ。
リシャールは正式な外交儀礼に則り、王宮を訪問して各種の会合に参加する。彼は十代後半か二十歳そこそこの年齢と見られるが、落ち着いた雰囲気を持ち、礼節をわきまえた言動で好印象を与えた。
そして、王城の広間で催された小規模な歓迎会で、フロリアとリシャールは初めて顔を合わせることになる。
歓迎会と言っても、大々的な宴ではない。近しい王族と高官、そして隣国からの使節が少人数で会食をする、という程度のものだ。フロリアは父である国王や兄王子たちと並んでテーブルにつき、隣国の客人たちと他愛ない会話を交わしている。
そこでリシャールはフロリアに礼儀正しく挨拶した。
「はじめまして。私は隣国のクレールモン侯爵家の嫡男、リシャールと申します。今回、我が国と貴国との友好を深めるための使節に同行することとなりました。お目にかかれて光栄です、フロリア殿下」
穏やかな声色に、フロリアは軽く微笑を返す。彼女にとって初対面の相手ではあるが、その瞳には飾らない誠実さが宿っているように感じられた。
「ご丁寧にありがとう、リシャール様。ようこそ、私たちの王国へ。……使節としてのご訪問だと伺いましたが、道中のご様子はいかがでしたか?」
「ええ、道中は大きなトラブルもなく快適でした。貴国の街道整備や宿場町の発展ぶりは、我が国でもよく噂に聞いておりましたが、実際に目にすると感心させられますね」
柔らかな微笑みを交わし、互いにさらりとした会話を続ける。正式の場だけあって、周囲には宰相や重臣、使節団の長が耳を傾けているため、余計な深入りはしづらい。それでも、リシャールの言葉の端々にはフロリアへの好感が感じられた。
フロリアもまた、彼の印象を好ましく思う。相手が隣国の名門であり、なおかつ若くして使節団に同行しているという事実から、それなりの実力や教養、礼儀を身につけている証拠だろう。ランバルト家のアルフレッドのような軽率な性格ではなさそうだ――そんな風に感じられた。
この歓迎会自体は短時間で終わり、フロリアとリシャールがじっくり話し込む機会はなかった。だが、わずかな言葉を交わす中で、お互いに良い印象を抱いたのは確かだった。
それから数日後、リシャールは外交交渉の合間を縫って王城内を見学したいとの希望を申し出る。案内役に立候補したのは、なんと第3王女であるフロリア本人だった。もともと王族の内でもフロリアは城内の施設や歴史に通じており、海外からの客人を案内することも少なくなかったのである。
フロリアが相手ならば、リシャールとしても申し分ない。こうして、ささやかな“二人きり”の城内見学が実現したのだった。
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5.城内見学と小さな対話
ある晴れた午後、フロリアとリシャールは侍女や近衛騎士を最低限だけ従え、王城の各所を回っていた。歴史の古い玉座の間や王家の宝物庫、庭園や図書館など、限られた範囲ではあるが、王族ならではの特別な案内が可能である。
フロリアは城の歴史や特徴を丁寧に説明し、リシャールは興味深そうに耳を傾ける。二人の間には終始和やかな空気が流れ、周囲の侍女や近衛たちも「これはなかなか良い雰囲気では」と内心思っていた。
「こちらが、先王の時代から受け継がれている宝物庫です。もっとも、今は重要なものは別の場所で管理しているので、ここに展示されているのはレプリカや副次的な品がほとんどなのですけれど」
フロリアが笑顔で案内すると、リシャールは陳列された装飾品や甲冑を興味深そうに眺める。
「なるほど。それでも素晴らしい品々ばかりですね。こうして貴国の歴史や文化に触れられるのは、とても刺激的です。……フロリア殿下が直々に案内してくださるなど、私は光栄の極みですよ」
「私などでよければ、いくらでもご案内いたしますわ。……あなたは隣国の重要な役職を継ぐお立場と伺っていますが、まだお若いのに外交の場で活躍されていて、すごいですね」
「いえいえ、私はまだまだ未熟者です。父の跡を継ぐには経験が足りませんし、今回はあくまで見習いのようなもの。ですが……この機会に、貴国の王族や貴族の方々の価値観に触れたいと思っております」
そう語るリシャールの声音には嘘がない。本当に学びや探求心を大切にしている青年なのだろう。
フロリアは胸の内で安堵を覚える。もし彼が、他の貴族たちのように“フロリアとの婚約”を目論んで近づいてくるのであれば、もっと露骨な態度を見せるに違いない。だが、リシャールにはそんな押し付けがましさが感じられないのだ。
「リシャール様は、貴国でどのような領地を治めておられるのですか?」
「ええ、クレールモン家には広大な農地と葡萄畑があります。ワインの生産が盛んでして、我が家のワインは近隣諸国にも輸出されているほどの名産品なんですよ。いつかフロリア殿下にもぜひ味わっていただきたいですね」
「まあ、素敵。私、ワインはまだそれほど詳しくないのですけれど、機会があれば楽しみにしておりますわ」
そんな穏やかな会話を交わしながら、二人は再び城内を歩く。時折、歴史的な壁画や肖像画を見つけては、フロリアがその由来を語り、リシャールが関心を示す。
しばらくして、城内の中庭に差しかかる。ここは緑豊かな芝生と花壇が広がっており、王族や来賓が散策や憩いの時間を過ごす場所だ。午後の柔らかい陽光が降り注ぐ中庭を見て、リシャールの目が少し輝いた。
「美しい庭ですね……。隣国でも噂はかねがね耳にしていましたが、このように手入れが行き届いていて、しかも色とりどりの花が咲いているとは。まるで絵画のようだ」
「ここの庭師たちはとても優秀で、季節ごとに花壇を入れ替えたり、土壌を改良したり、試行錯誤を重ねているんです。私も時々、彼らの仕事を見学させてもらってますわ」
フロリアは淡い笑みを浮かべながら、庭の奥に視線を向ける。すると、ちょうど庭師の一人が作業をしていたので、軽く会釈を交わしつつ、リシャールに紹介した。
リシャールは礼儀正しく挨拶し、気さくに庭師の話を聞いている。その様子は、身分の差などまったく意に介していないようで、フロリアは改めて彼の人柄の良さを感じた。
(もし、アルフレッドがこんな風に人の話を素直に聞ける人物だったら、また違った未来があったのかしら……)
ふと、そんな考えがよぎるが、フロリアはすぐに打ち消す。今さらアルフレッドのことを思い返しても仕方がないし、過去を嘆くことに意味はない。
それよりも、ここにいるリシャールという青年は、隣国の要人の跡取りとして将来が嘱望されているうえに、性格も穏やかで社交性があるように見える。まだ知り合って間もないが、フロリアの胸にはどこか温かい好感が広がりつつあった。
「フロリア殿下……もし、ご迷惑でなければ、もう少しお話を伺ってもよろしいでしょうか。貴国の文化や歴史について、殿下のお言葉でぜひ学びたいのです」
リシャールが少しはにかんだ笑顔で尋ねる。フロリアは心の中でわずかにときめきを覚えながら、頷いた。
「もちろんですわ。私でお力になれることがあれば、いくらでもご説明いたします。……よろしければ、少し休憩しましょう。この中庭の奥に、小さなテラスがあるんです。そこでお茶でもいかが?」
「喜んで。殿下とゆっくりお話しできるなんて、光栄の極みです」
二人は侍女を通じてお茶の準備を整えさせ、テラスへと移動した。周囲に控える近衛騎士や侍女たちも、一定の距離を保ちつつ、若い王女と隣国の侯爵令息の“親しげな会話”を温かく見守っている。
カップに注がれた香り高い茶をすすりながら、フロリアとリシャールは言葉を交わす。お互いの国の行事や文化、最近の出来事など――表向きは何でもない世間話だが、その裏には確かな好意が芽生え始めていた。
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6.渦巻く噂とフロリアの決意
フロリアがリシャールを案内した日の夕刻、早くも王宮内では「第3王女が隣国の侯爵令息を手厚くもてなしている」という噂が流れ始めていた。これを聞きつけた貴族たちは、「もしやもう次の婚約候補が決まっているのでは」「いや、単なる外交儀礼ではないのか」と勝手な憶測を飛ばす。
もちろん、フロリアとしてはまだリシャールを“婚約者候補”と見なしているわけではない。だが、リシャールとの会話を通じて感じる“誠実さ”と“知的好奇心”に惹かれる部分があるのは確かだ。これまで政略婚を前提とした相手とは違う、自然なコミュニケーションの心地よさがそこにあった。
同時にフロリアは、王族としての責務を忘れてはならないと自分に言い聞かせる。アルフレッドとの破局を経てもなお、“王女”としての立場は変わらない。ゆくゆくは国際情勢の安定のために他国に嫁ぐ可能性もゼロではないし、国内の有力貴族と結婚して王家を支える選択肢も残っている。
だが、少なくとも「次に婚約をするならば、相手をきちんと見極めたい」というのが、今のフロリアの偽らざる思いだった。
(私は王族だけれど、私個人としての幸せを追い求めることだって許されるはず。……けれど、それは甘い考えかしら? 国や家のことを度外視して“恋”を優先したアルフレッドが、あのような末路を辿ったのを見ているから……。私は、同じような愚行を繰り返すわけにはいかない)
フロリアの脳裏に、一瞬だけアルフレッドの姿が浮かぶ。愛に生きると誓い、すべてを捨てた彼の結果は、貴族社会からの追放と困窮生活。フロリア自身がそれを望んだわけではないが、王家と貴族社会がそれを許さなかったのだ。
――ならば、フロリアが自由な愛を追求するには、王族の責務と両立できる形を見つけ出すしかない。
リシャールがその道を示してくれる相手かどうか、まだ判断するには早い。だが、こうして共に言葉を交わし、時間を過ごす中で“もう少し知りたい”と思わせる男性が現れたことは、フロリアにとって大きな意味を持っていた。
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7.新たなる暗雲
ところが、そんな静かな交流に水を差すような出来事が起きる。ランバルト家の問題が一応の決着を見たとはいえ、没落した公爵家を狙う“亡者”のような勢力や、アルフレッドの行方を追ってあわよくば“弱み”を握ろうとする者たちが、王都の闇で動き始めていたのだ。
ランバルト家が手放した財産や利権の一部を、非合法な手段で手に入れようとする悪徳商人や闇組織も少なくない。王宮の治安維持部隊が取り締まりを強化しているが、すべてを防ぎきれるわけではない。
さらに、「第3王女フロリアへのあてつけ」あるいは「王家への復讐」のつもりで暗躍する連中もいるという噂が、侍女長エステルからフロリアの耳に入る。
フロリアがアルフレッドを直接的に陥れたわけではないとはいえ、“表向き”は王家がランバルト公爵家を徹底的に叩き潰した構図に見えてしまう。その怨嗟がフロリアを標的にする可能性も、十分にあり得るのだ。
ある日の夕刻、フロリアは自室で書簡に目を通していた。侍女が次々と届ける報告書の中には、王都近辺で不審な動きを見せる集団がいるという記述が含まれている。
「……公爵家の元使用人を名乗る者が、街で金を無心している、とか。あるいは公爵家の家紋が入った武具を闇市に流している、などの噂もあるわね」
フロリアが溜息まじりに呟く。侍女長エステルは落ち着いた声で答える。
「はい。公爵家が処分した品物が不正に横流しされているのでしょう。一部には、“王家への恨みを晴らそう”と焚きつけている輩もいるようです。もちろん、ほとんどは噂止まりですが……」
「そう……。私としては何も恨まれるようなことはしていないのだけれど。あちらが勝手に没落していったのに……」
フロリアは苦々しい表情を浮かべる。アルフレッドの真実の愛を尊重し、婚約破棄をあっさり受け入れただけ。しかし、結果的に公爵家は没落し、アルフレッドも行方不明。
王家を含む貴族社会が「ランバルト家を潰した」のは事実であり、フロリアが“当事者”である以上、腹いせに狙われる危険がゼロとは言えない。
「殿下、どうか外出の際は十分にお気をつけくださいませ。近頃、王都の一部では小規模な暴動が起きるという情報もあります。新たに領地を得た貴族と、その従者を狙った襲撃未遂事件なども……」
「わかりました。気をつけるわ。……でも、いずれにしても私は王宮にいて、公務で動くときは護衛がつく。そこまで神経質にならずとも大丈夫でしょう。それより、この国全体の秩序が乱れるほうが問題よね」
実際、フロリアが日常的に危害を加えられる可能性は低い。警備が厳重であり、本人も王城内での業務が中心だ。
ただ、彼女は政治に深く関わる立場として、一連の混乱が続く状況を憂慮していた。ランバルト家が崩れた“空席”を巡り、急進派や旧貴族派がせめぎ合い、暴発する危険性がある。国民が不安定な治安の影響を受ければ、王家の評価にも悪影響が及ぶ。
(リシャール様たち使節がいる間に、大きな事件が起きなければいいのだけれど……)
フロリアはそう願いながら、視線を窓の外へ移す。遠くには王城の高い壁が見え、その外側には広大な王都が広がっている。そこでは今も多くの人々が、希望や不安を抱えながら日々を送っているはずだ。
彼女は心の中で、自分にできることを考える。自国の王女として、弱き者たちを守り、国をより良い方向へ導く一助となりたい。その思いが募る一方で、自分自身の幸せをも得たい――という、わずかながらも確かな願望。
こうして、フロリアの胸には新たな決意が生まれつつあった。アルフレッドとの破談で得た“解放感”と“王女としての責任”を両立させるために、どのような道を歩むべきか。リシャールとの出会いが、その道を示すきっかけになるかもしれない。
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8.揺れる未来への一歩
やがて夜が更け、王宮は静寂に包まれる。フロリアは執務や報告書の確認を終え、自室の窓際でたたずんでいた。外には星空が広がり、月明かりが薄く中庭を照らしている。
彼女はそっとカーテンを引き、椅子に腰かけた。このところ怒涛のように目まぐるしい日々だったが、ようやく一息つける時間だ。
(ランバルト家の没落、アルフレッドの行方不明。貴族社会の混乱。リシャール様との出会い。……本当に色んなことが続いているわ)
フロリアは自分の心を整理しようとする。
まず、アルフレッドやランバルト家のことは、国や王家としては“決着済み”だ。個人的にも、フロリアは既に割り切っている。自分が関与すべき問題ではないと。
そのうえで、今後は王族としての公務を淡々とこなしながら、“いつか訪れるかもしれない再婚約”に備えなければならない。政略結婚であれ、そうでなければ別の形であれ、王族としての宿命からは逃れられないのだから。
しかし、それをただ受け身で待つのではなく、“自分が望む形”に近づけるための努力もできるはずだ。リシャールのように誠実で文化への理解が深い相手がいれば、フロリアの理想に近い関係を築けるかもしれない。もちろん、リシャール本人とそこまで踏み込んだ話をしているわけではないが、将来の可能性として感じるところはある。
(私は私の生き方を選びたい。王家の責務からは逃げないけれど、それだけに縛られるのは嫌。……できることなら、国や民に貢献しながら、私自身も愛や幸せを感じられる道を見つけたい)
ふと、窓の外で風が吹き、わずかに木々がざわめく音が聞こえる。その音に耳を澄ませながら、フロリアは静かに目を閉じた。
アルフレッドがあのような形で“愛”を選んだ結果、全てを失った姿は悲惨だった。しかし、だからといって、愛を捨てればいいという話ではない。バランスを見極め、両立を目指すのが、フロリアの目指す道だ。
やがてフロリアは椅子から立ち上がり、寝台へ向かう。明日からもまた、忙しい日々が続くだろう。リシャールたち使節団との交流、王家の公務、貴族たちからの縁談攻勢、そしてランバルト家が落とした混乱の後処理――気がかりは尽きない。
だが、不思議と胸は重くない。むしろ、少しだけ未来への期待が芽生えている。あのリシャールと話していると、自分は王族である以前に“ひとりの人間”として大切に扱われている、と感じられるからだ。こういう男性が隣にいてくれたら、きっと自分も“王女”であることを肯定しながら、より自由に自分の意思を形にできるかもしれない。
フロリアはそっと口元に微笑を浮かべ、寝台に身を横たえる。
(いつか、アルフレッドとリサを見かけることがあったら、どう思うのかしら……。彼らが本当の幸せを掴んでいるなら、それはそれでいい。それでも――私は私の人生を歩むわ)
こうして、フロリアの心に新しい一歩を踏み出す覚悟が芽生えた。
――ランバルト公爵家の没落という大波を乗り越え、アルフレッドとの呪縛から解放されたフロリア。今、彼女の人生は別の方向へ動き出そうとしている。
だが、その道には数多の障害が待ち受けているだろう。王族である限り、政治的な思惑や国際関係の波から逃れることはできない。ランバルト家が去った穴を狙う貴族たち、そして暗躍する闇の勢力――それらが再び大きな嵐を呼ぶかもしれない。
それでもフロリアは決めたのだ。逃げたり、嫌々従うのではなく、王族としての責務をまっとうしながら、自分自身の幸せを探すと。アルフレッドのような愚かな結果には絶対になりたくない。その誇りと意志が、今のフロリアを支えている。
そう、婚約破棄はすべての終わりではなく、フロリアにとっては新しい始まりでもあった。
――夜の帳が降りる王城の窓辺で、彼女の瞳は次なる物語へ向けて、静かに輝きを増していた。
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