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第4話 :運命の結末と新たな旅立ち



 ランバルト公爵家の没落から、早くも三ヶ月あまりの月日が流れた。季節は完全に春へと移り変わり、王都では色とりどりの花が咲き乱れている。例年なら祝祭や式典が華やかに行われる時期だが、今年はやや控えめな雰囲気だ。ランバルト家の失墜をはじめ、貴族社会の再編や治安の不安要素など、国全体が少なからず揺れているせいだろう。

 そんな中、第3王女フロリア・エルセリアは、以前にも増して多忙な日々を送っていた。国王の代理として外交の場に立つこともあれば、改革を進める宰相や重臣たちの調整役を務めることもある。さらには、ランバルト家崩壊によって生じた空席をめぐる貴族同士の駆け引き――フロリアは、それらの動向を冷静に見極めながら、自分なりの“王女としての役割”を全うしていた。


 もっとも、彼女の心が完全に公務だけに向いているわけではない。近頃、フロリアの周辺では“ある噂”が盛り上がりを見せていた。それは、「隣国からの使節団の一人、リシャール・ド・クレールモン侯爵令息と第3王女が親密な関係にあるらしい」というものだ。

 実際、リシャールは数週間の滞在期間を延長し、王都や近郊の視察を続けている。その案内をフロリアが積極的に買って出ていることから、周囲の貴族たちが“もしかして次の婚約相手か”と邪推しているのだ。

 当のフロリアは、その噂を聞くたびに苦笑するばかり。リシャールとの出会いは確かに大きな転機だったが、まだ正式な婚約話が出ているわけでもない。とはいえ、政略に振り回されることなく、心の底から「一人の相手」として彼と向き合える時間は、フロリアにとって何よりも貴重だった。


 しかし――そうした静かな充実と安定は、王都に渦巻く不穏な動きの前には危ういものでもあった。

 ランバルト家が消えた今、古参貴族や新興勢力の間で領地や利権の再配分が急速に進んでいる。その裏で、一部の不満分子や闇組織が暗躍し、王宮や貴族を狙った小規模な暴動や襲撃が散発的に起こり始めていたのだ。王宮側も取り締まりを強化しているが、すべてを防げるわけではない。

 そしてついに――この国の情勢を決定づけるような“事件”が起こる。王宮で計画されていた春の祝祭において、フロリアやリシャールを巻き込んだ大きな波乱が生じるのである。



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1.春の祝祭と不穏な空気


 春の祝祭。それは、かつてランバルト公爵家が大きく関わっていた行事の一つで、新しい季節を祝い、都市近郊の農作の豊穣を祈念する儀式でもある。毎年、王都の大聖堂に貴族や聖職者が集い、共同で祈りを捧げ、その後、広場に設けられた会場で祝宴を開くのが通例となっていた。

 だが今年は、ランバルト家の没落に伴う混乱を鑑みて、「規模を大幅に縮小するのではないか」という意見もあった。ところが、国王は「こういう時期だからこそ国民に安心を与え、王家の威厳を示すために、祝祭は滞りなく行うべきだ」と決断する。

 こうして、王宮主導で祝祭の準備が進められたが、やはり直前になっても警護の強化や治安維持のための策が十分とは言えず、侍女長エステルをはじめ、フロリアの周囲の人々は気をもんでいた。


「殿下、どうか本日の祝祭では、身辺にご注意を。特に大聖堂から広場へ移動する際は、あまり群衆に近づかないようにしてくださいませ」


 エステルは緊張した面持ちでそう告げる。

 フロリアは春らしい淡いドレスに身を包み、すでに祝祭への出席準備を整えていた。白と薄ピンクを基調とした織物で仕立てられたこのドレスは、落ち着いた気品を保ちながらも、季節の柔らかさを演出している。髪はシンプルにまとめられ、その上に控えめな王冠――まだ“正式な后”の証ではなく、あくまで王女に許されるティアラの一種――が載せられていた。


「わかっています。近衛騎士たちにも目を光らせてもらいますし、私もなるべく無闇に動かないように心がけるわ。……でも、今日ばかりは国民の前に姿を見せるのも大切でしょう?」


「それはもちろん。殿下がご参列されること自体、民にとっては安心材料となりましょう。ただ、念には念を入れて……」


 祝祭は王都に住む平民たちも参加するイベントだ。フロリアが王族として彼らの前に立ち、挨拶を述べるのは恒例行事の一つでもある。

 もっとも、今年は何が起こるかわからない緊張感が漂っている。ランバルト公爵家の名残を引きずる者、あるいは単に王家や貴族への恨みを持つ者が、混乱に乗じて騒ぎを起こす可能性は否定できない。


「ええ、重々承知よ。ありがとう、エステル」


 フロリアは冷静に頷いた。彼女自身、いついかなるときも王女としての務めを怠るわけにはいかない。周囲の懸念を振り払い、「自分は大丈夫だ」と堂々と振る舞うのも、ある意味では王家の責務だと理解しているのだ。



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2.リシャールの提案


 祝祭当日の朝、フロリアは王宮の一角でリシャールと顔を合わせた。外交使節としての役割を終えたリシャールだが、春の祝祭だけは“友好の証”として参加していくことを希望していた。

 彼もまた礼装に身を包み、隣国の紋章があしらわれた肩掛けをまとっている。金色と濃紺を基調としたその服装は、品格と華やかさを併せ持ち、リシャールの端整な容姿を引き立てていた。


「おはようございます、フロリア殿下。……と申し上げるべきか、それとも“今日は本当に美しいお姿で”と称賛すべきか迷うところですが」


 リシャールは軽く笑みを浮かべて言葉を継ぐ。


「いや、失礼。王宮では、あまり軽口を叩くべきではありませんね」


「いいえ、そんなことありませんわ。こちらこそありがとうございます、リシャール様。あなたもとても似合っていらっしゃる。さすが隣国の名門侯爵家の令息ね、堂々としたものだわ」


 二人のやりとりは心地よい柔らかさに満ちている。周囲にはフロリアの侍女やリシャールの随員が控えているが、皆、この二人の穏やかな関係性を微笑ましく見守っていた。

 やや離れた場所には宰相や貴族たちが集い、祝祭の進行手順や警護の配置について最終的な確認を行っている。フロリアはリシャールに向き直り、小さく声を落とした。


「……今日の祝祭について、少し心配な情報もあるの。王宮に寄せられた噂では、不満分子が騒ぎを起こす可能性が高いらしいわ。もしも何かあったときは、あなた自身も十分に気をつけて」


「お気遣い痛み入ります。確かに、この国の情勢は不安定な面があると感じています。私の護衛も数名だけですが、万一に備えて同行させています」


 リシャールはそう答えた後、少しためらいがちに言葉を続ける。


「実は……私にも一つ、殿下にお伝えしたいことがあるんです。と言っても、重大な話ではないのですが……」


「何かしら?」


「本日の祝祭の終わり頃、もし殿下がよろしければ、少し二人だけでお話しできる時間をいただけないでしょうか。最近、殿下とはいろいろなことを語り合ってきましたが、私の気持ちをもっと正直にお伝えしたいことがあるのです」


 その言葉に、フロリアの胸が軽く高鳴る。リシャールは、これまで礼儀正しく温厚な態度を崩したことがない。しかし、今の彼の眼差しには、はっきりとした“意志”が宿っていた。

 フロリアは動揺を悟られないよう、あくまで落ち着いた様子を装いながら微笑む。


「……もちろん。私も、あなたとゆっくり話す機会がほしいと思っていたわ。祝祭が無事に終わったら、そのときに……ね」


「ありがとうございます。では、改めてあとで」


 そう言うと、リシャールは周囲の貴族たちが呼んでいるのに気づき、そちらへ向かう。フロリアは見送るように視線を送りながら、心に湧き上がる期待と、なぜか同時に芽生えた不安を感じ取っていた。


(この国の動乱が落ち着いて、もし私が本当の意味で自由に未来を決められるなら……。リシャール様の存在が、その“鍵”になるのかもしれないわね)


 胸の奥でそう呟きつつ、フロリアは自分も祝祭へ向けた最後の準備に取りかかる。



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3.大聖堂での祈りと、リサとの再会


 午前中、大聖堂では国王と王族、そして貴族たちが集い、聖職者による厳かな儀式が執り行われた。祈りの言葉や合唱が堂内に響き、厳粛な空気が場を包む。フロリアは王族の席に着きながら、ランバルト公爵家との破談騒動以来、初めて参列する本格的な儀式に感慨を抱いていた。

 儀式が終わり、出口へと向かう際、フロリアはほんの短い時間だけ一般参列者のほうへ目を向ける。そこには平民や地方からの参拝客が大勢詰めかけており、皆、王家や貴族たちを遠巻きに見送る形だ。

 その群衆の中に、フロリアは見覚えのある顔を見つけた。――あれは、かつてアルフレッドが「真実の愛」と呼んだ相手、平民の娘リサではないだろうか。


(……リサ? あんな場所に……)


 一瞬目が合った気がした。リサは気づいたのか、表情を強張らせたように見えたが、そのまま身を隠すように人混みに消えていく。

 フロリアは心の奥で波立つ感情を抑えながら、深く息を吐いた。リサはアルフレッドと共に平民街で苦しい生活をしていると耳にしていたが、まさか大聖堂に参列しているとは思わなかった。彼女もまた、春の祝祭を見に来ているのだろうか。

 とはいえ、フロリアがわざわざリサを追いかける理由もない。立場の違いもさることながら、フロリア自身は既にあの二人のことを“過去”として割り切っている。――ただ、どこか胸の奥で妙な予感がざわつくのは否定できなかった。

 王族たちを乗せた馬車や車列は、大聖堂から広場へと移動する。そこでは民衆向けの祝典が準備されており、屋台や演芸が並び、幾分賑やかな雰囲気だ。警戒態勢を強めた近衛騎士たちが随所に配置される中、フロリアは公式スピーチの場で簡単な挨拶を述べることになっていた。



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4.襲撃と混乱


 広場に設けられた特設ステージ――そこに国王や宰相、王族が立ち並び、民衆へ向けた祝辞を述べるのが恒例の流れだ。フロリアも、王の許しを得て短いメッセージを伝えることになっている。

 王室の一員として会場に姿を見せたフロリアは、日の光を浴びながら、晴れやかな笑みで手を振る。民衆も「フロリア殿下だ」と声を上げ、拍手や歓声を送ってくれる。

 リシャールや隣国の使節団も特別席に招かれ、王家の一員と共にステージ脇で待機していた。リシャールはフロリアに視線を送り、微笑みながら小さく頷く。フロリアもそれに応え、心を落ち着けるように意識を集中した。


 やがて国王の長い祝辞が終わり、その次にフロリアの番が回ってくる。フロリアは民衆へ向けて一歩前へ進み、張りのある声で言葉を紡ぐ。


「皆様、今日はこのように多くの方々が集まり、共に春の訪れを祝えることを心から嬉しく思います。この国は、様々な課題を抱えながらも、確実に前へ進もうとしています。私は王族の一人として――」


 そこまで言いかけた瞬間、突如としてステージ上に鋭い金属音が響き渡った。

 フロリアの傍らに待機していた騎士が、反射的に剣を抜く。――次の瞬間、ステージ下から現れた黒ずくめの男たちが、短剣や武器を手に襲いかかってきたのだ。少なくとも数名はいる。警備をかいくぐって突入してきたらしい。


「危ない、殿下!」


 フロリアに最も近い位置で控えていた近衛騎士が、咄嗟にフロリアの前に立ちふさがり、敵の一撃を受け止める。

 それだけではない。ステージ下や観客席の一角からも悲鳴や怒号が上がり、複数の場所で同時多発的に小競り合いが始まっているのが見えた。どうやら、組織的な襲撃が計画されていたようだ。


(何てこと……! ここまで警備を固めていたのに!)


 フロリアは胸の奥で激しい鼓動を感じながら、後方へ数歩下がる。近衛騎士たちが盾となって囲んでくれるが、敵の数が思ったより多く、広場全体が混乱に包まれている。

 国王や宰相も護衛に守られながら退避を試みているようだが、現状では安全な場所へ移動するのは容易ではない。リシャールの姿を探すが、人垣に阻まれて一瞬見失う。そのとき、彼の声が聞こえた。


「フロリア殿下、こちらへ! 退路を確保します!」


 振り返ると、リシャールが自国の護衛とともにステージ脇に陣取り、武装した男たちを押し返そうとしている。リシャール自身も剣を携えており、普段の穏やかな雰囲気からは想像できないほど鋭い眼差しで状況を見極めていた。

 しかし、フロリアのすぐ近くに“別の男”が一人、忍び寄っていたことに、ほとんど誰も気づいていなかった。


「王女め……お前が王家を潰したも同然……!」


 男は怒声を上げながらフロリアへ斬りかかる。その際、男の口からは“ランバルト”という言葉も聞こえたが、詳細は定かではない。ただ、彼がランバルト家やその周辺と関係しているか、あるいは同情的な考えを持つ反王家派なのかもしれない。

 フロリアは反射的に身をよじるが、華奢な体では咄嗟の回避に限界がある。刃はフロリアの肩先をかすめ、ドレスの一部を斬り裂いた。鋭い痛みが走り、浅いが流血を伴う切り傷がつく。


「ぐっ……!」


 思わず声を詰まらせ、片膝をつくフロリア。その光景を見た周囲の騎士たちが「殿下!」「下がれ!」と叫ぶが、男は追撃の手を休めず剣を振り下ろそうとする。


「させるか……っ!」


 そこに割り込んだのはリシャールだった。彼は横合いから男の刃を受け止め、激しく火花を散らして押し返す。男は舌打ちしながら一瞬怯むが、すぐに体勢を立て直そうとする。しかし、リシャールの随員が後方から男を拘束し、どうにか事態は食い止められた。

 フロリアは肩の痛みに耐えながら、必死に立ち上がろうとする。リシャールがそれを支え、言葉少なに問いかける。


「大丈夫ですか、殿下……? 傷は……」


「だ、大丈夫……深くはないみたい……」


 実際、ドレスが血で染まり始めてはいるが、致命傷ではなさそうだ。フロリアは痛みに耐えつつ顔を上げる。見ると、広場のあちこちで近衛兵や騎士たちが襲撃者を制圧し始めている。国民の多くは既に避難を始めており、混乱の規模は大きいものの、少しずつ鎮圧の方向に向かっているようだ。

 やがてステージ付近の敵が完全に制圧され、フロリアの周囲は比較的安全が確保された。しかし、まだ広場の端では騒ぎが収まらない様子だ。国王や宰相も近衛兵に守られて後方へ避難し、騒ぎの終息を待っている。



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5.リサの迷いとリシャールの導き


 襲撃は想像以上に組織的で、あちこちから現れた男たちは「王家への恨み」や「貴族への反発」を口々に叫んでいるようだった。その中には、かつてランバルト家の傘下にいた犯罪ギルドや、反体制派の煽動者が混ざっているとの情報が、王宮の騎士団からもたらされる。

 何とか負傷者を手当てし、混乱を鎮めようとしている最中、フロリアはステージ下をぼんやりと見つめていた。そこに一人、先ほど見かけたリサの姿がうずくまっているのが見える。どうやら巻き込まれて転倒したのか、あるいは誰かに突き飛ばされたのか、服は汚れ、肩を抑えて痛がっているようだ。

 フロリアは多少の痛みをこらえながら、リシャールと近衛騎士に支えられてステージ下へ降りる。周囲にはまだ危険が残っているが、彼女の胸に「ここでリサを放ってはおけない」という衝動が走ったのだ。


「リサ……? あなた、大丈夫?」


 フロリアが声をかけると、リサは驚いたように顔を上げる。彼女は泣きそうな目でフロリアを見た後、かすれた声を絞り出す。


「フ、フロリア殿下……どうして、私なんかに……」


「そんなことはどうでもいいの。ケガをしているのね。立てる?」


 リサは尻込みしているが、フロリアが近衛騎士に手伝わせてそっと身体を起こす。脇腹のあたりを痛めているのか、リサは苦しげに息をしていた。

 一方で、リシャールも周囲を警戒しつつ、二人のやりとりを見守っている。襲撃者の多くは既に取り押さえられつつあるが、まだ油断できる状況ではない。


「ありがとう、ござい……ます……。私……、ただ祝祭を見に来ただけで……。そしたら突然……」


 リサの声は震えていた。フロリアが浅い呼吸で痛みに耐える姿に、逆に驚いたようでもある。


「あなたこそ、ケガがひどそう。ここは危険だから、応急処置を受けられる場所に移りましょう。私の護衛が案内するわ」


「……殿下は、どうして……。私、アルフレッド様と……それで……」


 リサはそこまで言いかけて、言葉を失う。あの婚約破棄劇のあと、自分とアルフレッドが落ちぶれ、貧困に苦しむ状況を知っていても、フロリアは一度も関与してこなかった。それなのに、今こうして手を差し伸べてくれている。

 フロリアは小さく首を振る。


「あなたがどんな立場でも、今目の前に怪我人がいるなら手を貸すわ。……それだけよ」


 実際、フロリアはリサを憎んでいない。あくまでアルフレッド自身の選択によってランバルト家は没落し、二人が苦しむ羽目になったのだから。

 リサは泣きそうな目でフロリアを見上げた後、かすかに頷き、近衛騎士の手に支えられて歩き出す。フロリアも安堵の息をついた瞬間、どこからか「リサ!」という叫び声が聞こえた。

 振り返ると、そこには憔悴しきった様子のアルフレッドが立っている。髪は乱れ、衣服は埃にまみれ、かつての貴族的な風采はどこにも感じられない。


「アルフレッド様……!」


 リサが弱々しい声を上げると、アルフレッドはリサに駆け寄ろうとする。しかし、そのとき、背後から一人の襲撃者がナイフを持って突っ込んできた。どうやら混乱に乗じて逃げ出そうとしているのか、あるいは王族や元貴族を狙うつもりか――その狙いは定かでないが、少なくともリサとアルフレッドのいる方向へ突進していた。


「危ない……!」


 フロリアは咄嗟にリサをかばうように身体を寄せるが、自分も肩口にケガを負って動きが鈍い。リシャールがすぐに駆け寄ろうとするが、距離が少しある。

 誰もが危険を感じたその瞬間――アルフレッドが、必死の形相でリサの前に立ちはだかった。今の彼は剣も持っていないし、戦う術はほとんどない。それでも、かつて王族の婚約者だった誇りか、それともリサへの愛情か、わずかな決意が彼を動かしたのかもしれない。

 男のナイフはアルフレッドの腕を掠め、血が飛び散る。続けて近衛騎士が男を抑え込むが、一瞬の出来事でアルフレッドはふらりと膝をつき、そのままうめき声を漏らした。


「アルフレッド様……! いや……!」


 リサが泣きそうな声で駆け寄る。アルフレッドの腕からは血が流れているが、幸い深手ではなさそうだ。男を取り押さえた騎士が「こいつら、まとめて牢へぶち込め!」と怒声を張り上げ、辺りは再び混乱する。

 フロリアとリシャールは顔を見合わせ、今は一刻も早く負傷者を救護所へ移すべきだと判断する。リサとアルフレッドを含め、巻き込まれた民衆数名を護衛が誘導して、急ごしらえの救護スペースへと運んでいった。



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6.決着と選択


 襲撃事件から小一時間ほどが経過し、ようやく王都近衛兵や騎士団が現場を制圧した。総勢十数名の襲撃者が捕縛され、多くは反王家派やランバルト家に同情的な犯罪組織と繋がりがあることが判明する。

 フロリアの負傷も軽い切り傷だったが、流血はそれなりに目立ち、彼女は救護用のテントで簡易的な手当てを受けていた。エステルや侍女たちが心配そうに見守る中、フロリアは平然とした表情を保ちながら、包帯を巻いた肩を押さえる。


「本当に、大事に至らずに済んでよかった……。リシャール様が助けてくれなかったら、危なかったわ」


 フロリアが小さく笑みをこぼすと、エステルは目に涙を浮かべて言う。


「殿下、そんなお気楽に……ご自分の身に起きたことの重大さをお忘れなく。まだ王都には危険が潜んでいるかもしれません。どうか今後は、もっと慎重になさってくださいませ」


「ありがとう、エステル。わかっているわ。……でも、こうして何とか無事に戻ってこられたのだから、まずはそれで十分よ」


 フロリアが安堵の息を吐きかけたとき、テントの外からリシャールが姿を現す。彼も少なからず傷や汚れを負っているが、大事には至っていない様子だ。フロリアは嬉しそうな顔でリシャールを出迎える。


「リシャール様。あなたは……大丈夫?」


「ええ、私は軽い打撲程度です。それより、フロリア殿下が無事で本当に良かった。先ほど、陛下と宰相も殿下の無事を確認され、ようやく落ち着かれたようですよ」


 リシャールはそう答えつつ、フロリアの肩の包帯を見て顔を曇らせる。


「……私がもっと早くそばに駆け寄れれば、殿下を傷つけさせずに済んだのに。申し訳ありません」


「そんな、あなたがいなかったら、もっと大きな傷を負っていたかもしれないわ。感謝こそすれ、謝罪なんてしないで」


 二人が目を合わせると、そこには言葉にし難い絆のような感情が漂う。傍らにいたエステルは、さりげなく気を利かせてテントの外へ退き、二人きりの空間をつくってあげた。

 フロリアは意を決したように口を開く。


「リシャール様……先ほど、祝祭が終わったら二人でお話しがしたいと言っていたけれど、この状況じゃ……」


「ええ、でも……私は今こそ殿下に伝えたいことがあるんです」


 リシャールはフロリアの手を軽く取り、その瞳をまっすぐに見つめる。いつも優しく穏やかな彼の中に、力強い意志が浮かんでいた。


「私たちの国同士が友好を深めるのは大切なことですが、それだけじゃなく、私は“あなた”という人間に惹かれました。強く、聡明で、誰よりも周囲を思いやる優しい方。……どうか、私に、あなたの未来を一緒に歩む権利を与えていただきたい」


 静かな語り口。しかし、その言葉には真摯な決意が感じられる。フロリアは驚きと戸惑いを隠せない。まさか、こうも急に想いを打ち明けられるとは思っていなかったからだ。

 だが、フロリアの胸にもまた、リシャールへの好意は確かに存在していた。アルフレッドとの婚約破棄を経験し、政略やしがらみに翻弄されかけた自身を尊重してくれる相手。自分が“王女”である前に“フロリア”という個人であることを認めてくれる――そんな相手は、これまでいなかったと言っていい。


(……私が、本当に求めていた相手かもしれない。けれど、王族として他国の人物と結婚するということは、国際関係や政治情勢に影響が及ぶわ。今のこの国が、そこまで落ち着いているかというと……)


 フロリアは迷いを覚える。自分自身の気持ちは、リシャールと共に未来を見たいと思う。しかし、王家の立場を考えると、今すぐに「はい」と答えていいのか。

 その逡巡を見抜いたのか、リシャールは微笑んだ。


「ゆっくり考えてくださって構いません。私も自国へ戻るときが来るけれど、殿下が答えを出すまで待ちます。たとえ数ヶ月、あるいはもっと長くかかっても。……ただ、一つだけ、あなたに私の誠意を示したかった」


 フロリアは胸がいっぱいになり、そっとリシャールの手を握り返す。二人の間に温かな感触が流れ、混乱を極めた祝祭の惨状からは想像もつかない穏やかな空気が生まれた。

 答えはまだ出せない。しかし、フロリアは少なくとも“彼を想う気持ち”が自分の中に芽生えていることを、まざまざと感じている。



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7.アルフレッドの末路とリサの決断


 一方、その頃、簡易的な救護スペースに担ぎ込まれたアルフレッドとリサは、医師や看護役の手当てを受けていた。アルフレッドの腕の傷は浅いが、しばらく安静にする必要があるらしい。リサのほうは軽度の骨折が疑われたが、こちらも命に別状はない。

 二人とも、決して裕福とは言えない身の上であり、かつランバルト家の名残という悪評もついて回る。普通なら適切な治療を受けるにも苦労するだろうが、今回は王宮の指示で設置された救護所ゆえ、最低限の治療は受けられるのが幸いだった。

 アルフレッドは微かにうめきながら、リサに視線を向ける。彼女もまた、苦しそうに胸を押さえつつ、必死に言葉をかけてきた。


「アルフレッド様、どうか安静に……。私、何もできなくて……本当にごめんなさい」


「リサ……いや、君こそ大丈夫か。さっき転倒して痛めたろう。……くそっ、情けないな……」


 アルフレッドは顔をしかめる。自身は元公爵令息だったというのに、今や護衛一つつけられず、リサも守ることがままならない。先ほどの襲撃にしても、ほんのわずかな勇気を振り絞っただけで、このざまだ。

 そのとき、医師が小声でアルフレッドに尋ねる。


「あなたはもう貴族ではないんですね? それなら、治療費は自費になりますが……支払いのあてはあるのか?」


 冷たい響きを帯びたその言葉に、アルフレッドは息を詰まらせる。いつかランバルト家の名を振りかざしていたころの自分なら、相手はひれ伏していただろう。しかし、今は誰も彼を特別扱いしない。それどころか、王家を裏切った家の人間として冷ややかな視線を向ける者も多い。

 アルフレッドはうなだれた。自らの選んだ道とはいえ、ここまでの惨状になるとは想像していなかった。


(僕は……何のためにフロリアとの婚約を破棄してまで、リサを選んだんだ……?)


 真実の愛――そう言えば響きは美しいが、現実には愛を貫くために必要な基盤や経済力、覚悟もなかった。リサを愛し守りたいと思いながら、結果的にはリサにも辛い生活を強いてしまっている。

 リサはそんなアルフレッドを見て、痛々しげに唇を噛む。自分も恋に酔い、貴族社会の厳しさを甘く見た報いだという自覚があった。それでも、アルフレッドに対する想いは消えない。


「アルフレッド様、私……まだあなたと生きたい。こんな苦しい日々だけど、あなたがいれば……それだけで……」


 リサは涙ぐみながら手を伸ばす。アルフレッドは、その手をぎこちなく握り返す。

 ――たとえ救いのない現実でも、二人が選んだ道ならば最後まで共に歩む。それしか彼らには残されていない。王族や貴族社会から見捨てられた今、アルフレッドは文字通り“どん底”に落ちたとも言えるが、少なくともリサだけはそばにいる。

 そうして、二人は傷ついた身体を寄せ合いながら、周囲の嘲笑や冷淡な視線に堪え続ける。かつての栄華は完全に失われ、もう二度と取り戻すことはできないだろう――しかし、それこそがアルフレッドとリサの“自業自得”の果てでもあった。



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8.フロリアの決断と新たな道


 襲撃事件が沈静化して数日後。王都は再び緊張した空気に包まれたが、王宮は“早急に治安を立て直す”と宣言し、懸命に対処を進めている。逮捕された襲撃者たちの取り調べが進めば、背後関係がさらに明らかになるだろう。

 フロリアもまた、負傷した肩をいたわりながら、日々の公務に復帰していた。襲撃事件の報せを受け、各地での反応が気になるところだが、彼女自身は驚くほど落ち着いている。むしろ、事件によって“この国の王族として何をすべきか”が一層明確になったように思えた。


 そして、フロリアは再びリシャールと二人きりで会う機会を作った。リシャールは、国王との正式な面会も無事にこなし、まもなく隣国へ帰る支度を整えている。

 王城の離れにある小さなサロンで、フロリアは彼と向かい合う。窓の外には、春の柔らかな陽光が差し込み、噴水のきらめきと花の香りが漂っている。


「肩の具合はいかがですか、フロリア殿下。あの日以来、ずっと心配していました」


 リシャールが穏やかに問いかける。フロリアは包帯を巻いたままの左肩をそっと触れ、微笑んで答えた。


「もう大丈夫よ。あと数日で包帯も取れるってお医者様が言っていたわ。……あなたに守ってもらったおかげで、これくらいで済んだもの」


「私にできることなど、ほんのわずかでした。もっと万全にお守りできればよかったのですが……」


 その言葉に対して、フロリアはかぶりを振る。


「いいの。あなたのおかげで私は生き延びられたし、こうしてまた話せる。……リシャール様、本当ならもっと早く答えを伝えたかったけれど、この国の状況を見ていると、簡単に“はい”とは言えなくて……」


 リシャールは真剣な面持ちでフロリアを見つめ返す。フロリアもまた、覚悟を決めたように言葉を継いだ。


「もし私が、あなたと共に生きる道を選ぶなら、隣国への嫁入り――つまり、国際結婚という形になるでしょう。その決断には、私一人の気持ちだけでは済まない問題が山ほどある。父である国王や、宰相、重臣たちとも話し合わなくてはならない。

 だけど、私はもう“惰性の政略結婚”をしたくない。王女であっても、自分が心から信頼できる相手と、手を携えて国を支えたいの。……あなたは、その覚悟があるかしら?」


 フロリアの瞳には、王女としての気高さと、一人の女性としての切実な思いが同居していた。リシャールはその強い眼差しを受け止め、はっきりと頷く。


「もちろんです。私も自国で侯爵家を継ぐ立場にあり、周囲からの反発や政争は避けられません。ですが、それらを乗り越え、フロリア殿下と一緒に未来を築く意志は揺るぎません。私の国と、あなたの国の橋渡しをするのも、私たちにしかできない役目かもしれません」


 そう言って微笑むリシャールの言葉に、フロリアの胸は大きく震える。アルフレッドのように軽々しい“愛の言葉”で全てを投げ打つのではなく、政治や国際関係を視野に入れたうえで、それでもなお一緒に歩みたいと語ってくれる相手――フロリアが求めていたのは、まさにこういう誠実さだったのかもしれない。

 フロリアは椅子から立ち上がり、リシャールの前で小さく礼をする。


「わかりました。私も、あなたを信じます。もちろん、正式に婚約が成立するまでには、いろいろと手続きを踏まなければなりません。でも、私はもう、あなたと共に“次の一歩”を歩みたいと思っているの。――少し時間をちょうだいね。国王と話して、周囲を納得させるだけの道筋を作るから」


「はい、喜んでお待ちします。私も、自国で同様の準備を進めましょう。お互いが納得し合える形で、必ずやこの道を現実のものといたしましょう」


 二人はそっと手を取り合い、静かな微笑みを交わす。そこには、かつての婚約破棄を巡る混乱や、血生臭い襲撃の記憶を乗り越えて得た“固い決意”があった。

 政治や利害を度外視できるほど甘い理想ではない。だからこそ、フロリアは自分で考え、選ぶ。アルフレッドのように周囲を見ずに突っ走るのではなく、王女としての責務と個人の幸せを両立させる道を。リシャールとともに、それを成してみせるのだ。



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9.エピローグ:新たな旅立ちと“ざまあ”の結末


 襲撃事件の後、王都では治安維持のために更なる強硬策が打たれ、反体制派や犯罪ギルドの取り締まりが強化された。これにより、ランバルト公爵家の崩壊後に台頭した闇勢力は大きく勢いを削がれつつある。

 アルフレッドとリサは、しばらくは王宮の救護施設で療養したものの、まとまった金がなくなると結局退去せざるを得なくなった。負傷後のリハビリも十分に受けられず、二人は王都の下層地区へと戻っていく。かつての公爵家の令息としてのプライドは、すでに跡形もない。

 そこには当然、フロリアの助力も、他の貴族の支援もない。アルフレッドが自ら破棄し、没落させた関係は二度と戻らない。リサと共に貧しい暮らしを続けながら、彼がどう生きていくのかは、もはや王家や貴族たちの関知するところではなかった。


 一方、フロリアとリシャールは、王宮を出て大聖堂の裏手にある小さな庭を歩いていた。そこは、つい先日の祝祭で混乱に巻き込まれた場所からほんの数百メートルしか離れていないが、不思議と静寂に包まれている。

 フロリアが軽くドレスの裾を持ち上げて歩くと、リシャールがさりげなく手を貸してくれる。その姿勢に、フロリアは優しい笑みを浮かべた。


「リシャール様、もうすぐあなたは隣国へ帰るのよね。準備は進んでいるの?」


「ええ、今週中には出発し、そのまま父の元へ戻ります。殿下のほうも、くれぐれもお身体を大事に。無理をなさらないでくださいね」


「心配してくれてありがとう。……私も、いずれ正式に交渉が始まるときには、隣国へ赴くことになるでしょう。きっと、またすぐ会えるわ」


 フロリアがほほ笑むと、リシャールは少し照れくさそうに視線をそらし、しかし嬉しそうに笑みを返す。


「その日を心待ちにしています。私も、国の状況を整え、殿下を迎える準備をしなくては。――ああ、でも“殿下”と呼ぶのも他人行儀になってしまいそうですね。いつか、あなたを“フロリア”と呼べる日が来るかもしれない。それを夢見て……」


「ふふ、それは……こちらの国の人々に認めてもらわないとね。王女を呼び捨てにするなんて失礼だって、怒られてしまうかもしれないわよ?」


「それでも構いません。あなたを隣国にお迎えする日を、私はずっと待っています」


 柔らかな春風が、二人の周囲を包み込む。かつてフロリアは、ランバルト家のアルフレッドとの形式的な婚約を背負わされ、自分の意志とは関係なく結婚への道を歩もうとしていた。しかし、いま彼女は違う。王族としての責任を果たしつつ、自分の意志で相手を選び、その相手と共に国を支えていく。

 アルフレッドのように結末を見誤り、すべてを失った末路はもう辿らない。リシャールとなら、王家を侮った者たちへの“ざまあ”として、栄光と真の幸福を勝ち取ってみせる――そんな確信がフロリアの胸にある。


(婚約破棄? あの程度の茶番で私の人生を縛れると思わないことね。私は王女である前に、一人の人間として、ちゃんと未来を切り拓いてみせるわ)


 静かに微笑みを交わしながら、フロリアとリシャールは庭を後にする。

 貴族社会の中には、まだ二人の動向に懐疑的な者や、妨害を画策する者もいるだろう。だが、フロリアは揺るがない。リシャールの誠実さと、自分自身の決断を信じて、前へ進んでいくつもりだ。

 花吹雪が舞う中、遠くで鐘の音が響く。それは、新たな季節を告げる合図――あるいは、フロリアとリシャールにとって始まりの鐘の音かもしれない。


 こうして、婚約破棄をきっかけに始まった大きな波乱は一応の幕を下ろし、フロリアは自由への扉を開き始めた。アルフレッドは没落の果てに平民の生活を余儀なくされ、王家の威厳を冒涜した代償の重さを背負い続ける。

 いっぽうで、フロリアは王女としての責務を捨てることなく、リシャールとともに新たな未来を描く道を歩み出す。そこにあるのは、一時の激情ではなく、お互いを尊重し合う確かな絆――これこそが、アルフレッドが見失った“本物の関係”なのだろう。


 ――婚約破棄“ざまあ”恋愛小説、その物語の結末は、フロリアの幸せな旅立ちとともに静かに閉じていく。

 だが、フロリアの人生はまだまだ続く。この先、国際情勢や国内の派閥争い、そして隣国での新たな試練が彼女を待ち受けているかもしれない。

 それでも、フロリアはもう恐れない。自分の足で立ち、自分の目で正しい道を選ぶと決めたからだ。――そして、その隣には、共に手を携えようと誓うリシャールがいる。

 幸福への道は遠くとも、フロリアの瞳には確かな希望が映っている。誰かの意志に振り回されるのではなく、“王女”として、“フロリア”として、自分が信じる道を進んでいくのだ。


 春風がそっと二人の頬を撫で、花の香りを運んでくる。

 それは、かつての偽りの婚約や浅はかな裏切りとは無縁の、真っ白な未来への序章――。



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