体育祭が近づき、準備委員会が開催された。生徒会役員のほかに、各運動部の部長と各クラスの委員長で構成されるこの委員会には、約五十人の生徒が集まっている。緊張感の漂う生徒会室で、僕は静かに資料を手に取った。
「それでは今から体育祭準備委員会を開催します。資料を前から回しますので、一部ずつ取ってください」
僕の声が静かな部屋に響く。生徒たちは黙々と資料を受け取り、後ろへと回していく。全員に行き渡ったことを確認するように視線を巡らせると、ふと、礼央と目が合った。
彼は僕に向かって嬉しそうに手を振っている。その仕草があまりにも無邪気で、思わず目を細めそうになる。だが、生徒会長としての立場を意識して、僕はわずかに頷くことしかできなかった。
「それでは、資料が行き渡ったようなので、会議を始めます」
僕は進行役として、粛々と会議を進めていく。体育祭までの準備スケジュール、当日の役割分担、必要な備品の確認……。一つ一つの議題を丁寧に処理していく。
――今日も完璧だな。
心の中でそう呟きながら、僕は資料に目を落とした。しかし、時折視線を上げると、礼央がじっと僕を見つめていることに気づく。その視線に捉えられるたびに、なぜか胸が締め付けられるような感覚に陥った。
会議が終了し、生徒たちは次々と教室を後にしていく。しかし、礼央だけが一人残っていた。彼はゆっくりと僕に近づいてきた。
「凪、お疲れ! 生徒会も大変だな。でも、最後の体育祭だし、いいものに仕上げたいよな!」
屈託のない笑顔を向けられ、僕はどう返せばいいのか分からず、いつもの仮面に笑顔を貼り付けて言った。
「そうですね。いいものにしましょう」
すると礼央は首を傾げ、くすりと笑った。
「なんで敬語なんだよ? 同級生だし、別にタメ口でよくない?」
そう言って、彼は僕の顔をじっと見つめた。その瞳に映る自分の姿が、どこか透けて見えるような気がして、居心地の悪さを覚える。
「俺、凪と仲良くなりたいんだよねー」
その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。こんなにも真っ直ぐに自分に踏み込んでこられたことがない。一瞬戸惑いを覚えたが、同時に胸の奥で小さな温かさが灯るのを感じた。
「わ、分かった……」
やっとのことで絞り出した言葉に、礼央は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、また!」
礼央は手を振って教室を出て行った。その背中を見送りながら、僕は小さくため息をついた。
――今までにない距離感で詰められてる気がする……。けど、悪くない。
会議終了後、僕は他の生徒会の仕事を済ませてから、使用した備品を片付けるために再び会議室へと戻った。静かな部屋で黙々と片付けを進めていると、突然ドアが開いた。
振り返ると、そこには礼央が立っていた。
「あ、凪。まだいたんだ」
彼は僕に軽く手を振ると、先ほど座っていた席へと向かった。
「何か忘れ物?」
僕が問いかけると、彼は机の下に潜り込んで何かを探し始めた。
「あれ〜? どこいった?」
ゴン!
大きな音に驚いて、僕は彼の側へと駆け寄った。
「いってー!」
頭を机にぶつけたのか、礼央は後頭部を撫でながら顔を上げてきた。勢いよく僕の目の前に彼の顔が現れ、あまりの近さに僕は息を呑んだ。
「……わっ! 近っ!」
僕は驚いて目を見開いたが、すぐに目を逸らし、小さく咳払いをした。その反応に礼央は楽しそうに笑った。
「ハハっ! 凪もびっくりした顔してんじゃん。意外と動揺するんだな」
「……別に。礼儀としてパーソナルスペースを守って欲しいだけ」
僕は冷静を装いながら言ったが、顔が熱くなるのを感じた。
「へぇ〜。それが"生徒会長"の本音かぁ」
からかうように言う彼の声には、どこか優しさが混じっている。
「あったあった。よかったぁ! 筆箱忘れててさ。こう見えて意外とおっちょこちょいなんだよな、俺」
彼は照れたように頭をかいている。教室には僕と礼央だけ。静けさの中に二人の呼吸だけが響いていた。
「それにしても、最近、よく凪と会うよね? なんか運命みたい」
突然の言葉に、僕は思わず礼央の方を見た。夕陽に照らされた彼の頬が、ほんのりと桜色に染まっているように見えた。
「……運命、か。僕は運命なんて、信じていない」
僕は少し冷めた口調で答えた。それは半分は本心から、もう半分は自分を守るための言葉だった。
「あはは、そっか。じゃあ、偶然ってことで」
礼央はすぐに退室するかと思ったが、彼は動く気配を見せなかった。代わりに、真剣な眼差しで僕を見つめてきた。その視線に捉えられ、僕は動けなくなった。
「あのさぁ……。俺、ずっと思ってたんだけど。凪ってさ、どこか苦しそうに見えるんだよね……」
その言葉に、僕は心臓が一拍飛んだような感覚を覚えた。今まで誰にも見破られなかった"仮面"を、この人は見抜いてしまったのか。
「……それは、君の勘違いじゃない?」
僕はいつものように完璧な笑顔を作った。だが、その表情がどこか不自然に感じられて仕方なかった。
「……そうかな? でもさ、無理して笑ってる人って、俺、すぐ分かるんだよね……」
僕は彼の言葉に返す言葉が見つからず、ただ俯くことしかできなかった。誰にも気づかれないように、ずっと冷静に、完璧に"演じて"きていたはずなのに。それなのに、この人だけには見破られてしまったのだろうか。
そんな僕の内面を探るように、礼央はしばらく僕を見つめていた。しかし、それ以上何も言わず、やがて微笑んで「じゃあ、またね!」と手を振って教室を出て行った。
彼の去った後、窓から差し込む夕陽が床に長い影を落としていた。僕はその影に自分の姿を重ね合わせながら、静かに息を吐いた。本当の自分の姿を見られたような不思議な感覚と、同時に少しだけ解放された気持ち。
それは怖いことなのか、それとも……。