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第二章 嘘と抑圧のカーテン

 週末、僕は会社の会議のために自宅に戻った。高級住宅街の一角にある我が家は「白亜の家」と呼ばれている。純白の外壁と西洋建築を模した瀟洒な佇まいは、まるで異国の貴族の館のようだ。


 門をくぐると、煉瓦を敷き詰めた小道が緩やかなカーブを描きながら玄関へと続いている。両脇には色とりどりの花が背の高さに合わせて植えられたイングリッシュガーデンが広がり、海外の庭園に迷い込んだような錯覚を覚える。


 春の柔らかな陽光が庭園を優しく照らし、淡い色合いの花々が風に揺れていた。バラ園では蕾が膨らみ始め、ラベンダーは新緑のボールのような芽を出していた。庭師の丹精込めた手入れによって、どの植物も完璧な配置と状態を保っていた。


 爽やかな風が庭を吹き抜けていったが、僕の心は窓のない閉ざされた部屋のようにどんよりとしていた。ここに帰るたびに感じる重圧感。自分の本当の姿を隠し、「完璧な息子」という仮面をつけなければならない場所。


 深く息を吸い、仮面を装着する心の準備をした。口角を上げ、背筋を伸ばし、感情を押し殺して――。


「ただいま戻りました」


 玄関ドアを開けると、父の秘書である佐藤が僕の帰りを待っていた。彼は丁寧に腰を折り、まるで執事のような所作で挨拶をした。


「おかえりなさいませ、凪様」


「佐藤さん、こんにちは」


 僕は軽く頭を下げた。彼は父の右腕として長年仕えている人物で、志水家と関わる全ての人間を把握している。そのため横柄な態度は取れない。


「凪様、お父様からの伝言がございます。朝比奈家との結納の件ですが、一年早まりまして、来月執り行われることになりました」


 僕の足は突然その場に凍りついた。言葉が耳に入ってきても、すぐには理解できなかった。


 ――結納が、一年早く? 僕がまだ高校を卒業する前に?


 僕は喉の奥が乾いていくのを感じながら、かろうじて声を絞り出した。


「……理由は……、なんでしょうか?」


「はい。志水グループの新規プロジェクトにおきまして、朝比奈グループとの連携が急務となりまして……」


 佐藤の口から淡々と事務的な説明が続いた。彼の言葉の端々から、僕と美月の結婚はただのビジネス上の取引に過ぎないのだと改めて痛感させられる。僕たちは駒でしかない。感情や希望など、企業間の利益の前では取るに足らないものだった。


 胸の奥で怒りが燃え上がる。


 ――僕の気持ちは? 僕の将来は? 進学のことは? そんなことはどうでもいいというのか!


 しかし表面上は、完璧に作り上げた微笑みを崩さない。


「承知しました」


 佐藤はカバンから書類を取り出し、僕に手渡した。


「こちらが、今後のスケジュールでございます。赤字の日程は必ず押さえておいてください」


 書類を受け取り、目を通すと、会議や式典、朝比奈家との顔合わせなど、予定が詳細に書き記されていた。高校生である僕に、これほど多くの会社関連の仕事を課すなんて……。


 小さなため息が漏れそうになるのを必死に押し殺した。


「承知しました。必ず参加します。父に伝えておいてください」


 佐藤は満足げに頷くと、丁寧に頭を下げて立ち去った。


 彼の足音が遠ざかるのを確認してから、僕は重い鉛の靴を履いたような足取りで自室へと向かった。部屋に入るなり、窓辺に立ち、庭を見下ろした。


 手入れの行き届いた庭園は、一本の雑草も生えていない。全てが計画通りに植えられ、剪定され、コントロールされている。まるで僕の人生のように。


 ――この家にいると、本当に息が詰まる……。


 窓の外の空をゆっくりと流れる雲を見つめ、自由に漂う雲のようになれたらと切なく願った。しかし現実は、僕の人生も親によって整えられた庭のように、完全にコントロールされていた。


 気持ちを落ち着かせようと、ソファに身を沈め、スマートフォンを取り出した。画面に映し出されたのは、先日の体育祭準備委員会の会議風景。生徒会の書記が送ってくれた写真だ。


 そこには屈託のない笑顔の礼央が映っていた。彼は周囲の生徒たちと肩を組み、満面の笑みを浮かべている。その自然な表情と解放感に満ちた姿に、胸の奥が疼いた。


「自由に笑える人生って……どんな感じなんだろうな」


 まるで遠い星を眺めるように、僕には手の届かない「自由」を羨ましく思った。


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