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2-2

 自宅での時間は、いつも決まりきったルーティンの連続だ。今回は会議に向けた資料の確認と、スピーチの原稿の推敲に時間を費やした。その合間に気分転換として本を読む。読書こそが、僕にとって唯一心から安らげる時間だった。


 活字の並ぶページに没頭していると、ノックの音が聞こえた。


「どうぞ」


 入室を許可すると、黒いドレスと白いエプロンを着たメイドの紗枝が入ってきた。


「凪様、お食事の準備が整いました」


 紗枝は両親より少し年上の女性で、長年我が家で働いている。彼女の立ち居振る舞いには気品があり、言葉遣いも丁寧だ。


「紗枝さん、ありがとうございます」


 礼を言い、食堂へと向かったが、その足取りは重かった。志水家の食事の時間は、楽しさとは無縁の厳格な儀式のようなものだ。幼い頃から、この時間が苦痛でしかなかった。


 食堂に入ると、重厚なダイニングテーブルには完璧なテーブルセッティングがされていた。銀のカトラリーが整然と並び、白いテーブルクロスの上に置かれたクリスタルグラスが陽光を受けて輝いている。


 僕はいつもの席に着き、静かに両親の到着を待った。


 少し遅れて母の絢子あやこが入ってきた。高級ブランドのワンピースに身を包み、完璧なメイクを施した彼女は、僕にちらりと目を向けただけで、向かいの席に着いた。その視線には温かみがなく、ただ「あぁ、息子がいる」という確認だけがあった。


 そして父の圭一けいいちが現れた。背の高い彼は、渋いスーツに身を包み、厳格な表情で上座に着いた。僕たち家族に目をくれることもなく、ただ当然のように自分の席に座る。


 父が着席するのを合図に、料理が次々と運ばれてきた。一流シェフが腕を振るった美しい料理の数々。どれも見事な味付けと繊細な盛り付けだが、僕はその味をほとんど感じない。ただ機械的に口に運ぶだけだ。


「最近の我がグループの株価の動向は悪くない。特に医療系の子会社の業績は上々だ」


 カトラリーの触れ合う音だけが響く中、父が口を開いた。冷たく事務的な口調で、まるで家族ではなくビジネスミーティングをしているかのようだ。


「父さん、そのようですね。素晴らしいです」


 僕は仮面を完璧に保ち、微笑みを浮かべた。けれど父との目は合わない。彼は僕を見るというより、僕という存在を確認するだけだ。


「会議に向けて、お前も少しは勉強してきたようだな」


「……はい」


 それは褒め言葉なのか、当然の確認なのか判断できない曖昧な言葉。そこに温かい感情は一切感じられない。


「凪、明日の取締役会では前列に座るように。朝比奈の令嬢との婚約者として、存在感を示さねばならん」


 突然の指示に、喉に詰まった食べ物が通りにくくなった。ゴクリと無理やり飲み込む。


「……分かりました」


 婚約を早めるという現実が、徐々に重みを増して僕の肩にのしかかる。これまで言われるがままに生きてきたが、なぜか今回は強い違和感を感じていた。


 勇気を振り絞り、父に意見する決心をした。


「あの……父さん、婚約の件ですが……」


 言いかけた瞬間、父の鋭い目が僕を射抜いた。その冷たく威圧的な視線だけで、言葉が喉に詰まる。


「何か問題でも?」


 その一言に、すべての反論が凍りついた。


「いえ……、その……」


 僕が言葉を詰まらせていると、父は目を細め、「黙れ」と言わんばかりの表情を浮かべた。


「志水家の跡取りとして、家の繁栄のためには最適な選択だ。個人の感情など、関係ない。我々の家系は代々そうやって栄えてきたのだ」


 冷酷な言葉が、刃のように僕の心を切り裂いた。


 一瞬、目が合ったと思ったが、そこに息子を思う温かさは一切なかった。ただ家業の道具、駒としての僕を見る冷徹な目だけがあった。


 思わず俯いて、チラリと母を見た。彼女は何事もなかったかのように黙々と食事を続けていた。その冷ややかな視線は「もう何も言うな」と警告していた。


 父も母も僕のことなど、一切関心がない。彼らの心は家業と社会的地位という氷の城壁に覆われ、その内側には愛情という名の温もりは存在しなかった。


 ふとその時、なぜか礼央の表情が瞼の裏に浮かんだ。


 太陽のように明るく笑う彼の人懐っこい顔。真っ直ぐに僕を見つめる瞳。何の計算もなく、ただ純粋に友達になりたいと言ってくれた彼の言葉。


 思わず頬が緩み、微笑みがこぼれそうになるのを必死に押し殺した。


「どうした。何か問題でも?」


 父の鋭い声に飛び上がりそうになる。


「い、いえ……。何もありません」


 その後はただひたすら、味のしない食事を喉に流し込んだ。高級食材で作られた料理は見た目も香りも素晴らしいはずなのに、僕の舌には灰のように感じられた。


 食後のお茶を静かに飲みながら、再び礼央のことが頭に浮かんだ。


 ――彼の笑顔は、きっと優しい人たちに囲まれて育まれたものだろうな。自由に笑って、自由に話せる場所で育ったんだろう。どんな家族に囲まれて生きてきたのだろう。


 突然、礼央のことをもっと知りたいという欲求に駆られた。それは自分でも驚くほどの強い感情だった。


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