今まで、親に決められたレールを歩むことが「正しい」ことだと信じてきた。自分の感情は押し殺し、まるで操り人形のように振る舞う。感情の起伏は見せず、常に微笑みを絶やさない「完璧な息子」という仮面を被り続けてきた。
しかし礼央と出会ってから、その確信が揺らぎ始めていた。彼の前では、長年かけて作り上げた仮面がふいに剥がれ落ちそうになる。
それは彼が他の人と決定的に違うからだろう。ほとんどの人が僕に対して一定の距離を保ち、「生徒会長」という肩書きを通してしか僕を見ないのに対し、礼央は何の躊躇いもなく僕の領域に踏み込んでくる。誰も「友達になりたい」と言わなかったのに、彼だけは違った。
――僕と仲良くしたって、面白くないのにな。
夕食の時に礼央のことを思い出してから、どうしても彼のことが頭から離れなかった。あの屈託のない笑顔がまた見たいと、心の奥底で切望している自分がいた。
胸の内がモヤモヤとして居心地が悪い。その感覚から逃れるように、僕は再び仕事に意識を向けた。
「もう一度、明日の会議の資料に目を通しておくか」
資料に手を伸ばすと、ぱらりと一枚の紙が手から滑り落ちた。
「おっと」
空中でキャッチしたその紙は、来月の婚約に関する詳細な資料だった。そこには"二十歳になったら、遅くとも大学卒業までには結婚すること"というスケジュールが明記されていた。
――僕、本当に大丈夫だろうか。
僕は自分のセクシュアリティについて、ずっと向き合うことから逃げてきた。だが心の奥底では、自分がゲイであることを認識していた。女性に恋愛感情を抱いたことは一度もない。
しかし男性にも、今まで心を動かされたことはなかった。感情の芽が出そうになれば、即座に摘み取ってきたからだ。
しかし今、結婚という現実が目前に迫り、もう逃げることができなくなった。結婚は跡取りを期待されるということ。つまり女性と……関係を持たなければならない。
その想像だけで、吐き気が込み上げてきた。
美月が嫌いなわけではない。彼女は聡明で、たおやかな素敵な女性だ。だが恋愛対象として見ることはできない。女性の肌に触れ、行為をするという考えだけで、体が拒絶反応を示す。
――美月を、抱くなんて無理だ。絶対に。
異性が好きな男子高校生なら、婚約者との夜を想像して胸を躍らせるのだろうが、僕にはそれが不可能だった。
そう考えると、美月の将来も不幸になることが約束されている。二人とも親の都合で結ばれ、愛のない家庭を築くことになる。美月にはもっと彼女を愛せる人との幸せを掴んでほしい。
長い思考の末、僕は自分のセクシュアリティについて母に打ち明けることを決意した。僕と美月の将来のために。
すぐさま母の執務室へと足を向けた。ここまで来る間、何度も頭の中でシミュレーションを繰り返した。どんな言葉で伝えれば母が理解してくれるか、どう説明すれば婚約を破棄できるか――。
しかし現実として、僕と両親は親子というより、同じ屋根の下に住む他人のような関係だ。父は厳格で仕事一筋、母も複数の会社を任され常に忙しい。幼い頃から僕の世話はメイドに任せきりで、家族の会話も事務的なものばかり。
それでも、このことだけは親に言わなければならない。母の書斎の前で深呼吸を繰り返した。
――よし。言うんだ。
「僕は男性が好きで、女性に恋愛感情を持ったことがありません。だから、美月との婚約は……」
シンプルに。率直に。そう言葉にするだけでいい。
拳を強く握りしめ、勇気を振り絞ってドアをノックした。
「どうぞ」
冷たい声が返ってきた。ゆっくりとドアを開け、僕は母の執務室に足を踏み入れた。
広々とした書斎には高級な調度品が並び、壁一面の本棚には経営書や美術書が整然と並んでいた。母は大きな机に向かい、パソコンの画面に集中していた。
「母さん、失礼します。少しお話し、いいでしょうか?」
母はパソコンと資料に忙しく目を走らせ、僕に一瞥すらくれなかった。やや苛立ちを含んだ声色で返事をした。
「何かしら? 今、忙しいのよ」
「母さん……、僕から伝えたいことがあります」
それでも彼女はパソコンから目を離そうとしない。僕への関心のなさが痛いほど伝わってきた。
「志水グループの件? それとも、学校の成績のことかしら」
カタカタとキーボードを叩く音が部屋に響き渡る。その音が僕の心臓を打ちつけ、鼓動が早くなっていった。
――言え! 今言うんだ!
喉が乾き、唾を飲み込むとのどぼとけが上下に動いた。握りしめた拳に汗が滲んでいる。
「僕は……」
言葉が喉まで出かかったとき、突然、頭の中に礼央の笑顔が浮かんだ。
――なぜ、今彼の顔が?
礼央の自由な発言や行動は、いつも僕の心を震わせる。彼のように、僕も「自由」に生きられたら――そんな渇望が胸の奥で燃え始めていた。
僕がそんな思いに囚われていると、パソコンの画面を見つめる母の眉間に深い皺が寄った。
「凪、何を言いたいの? 今、仕事が立て込んでて忙しいのよ」
息子のことなど二の次だと言わんばかりの冷たい声色に、僕の中の何かが萎えていくのを感じた。これ見よがしにため息をつく母に、自分のセクシュアリティについて話しても無駄だと悟った。
「あの……幸せとはなんだと思いますか?」
本当に言いたかったことから逸れ、思いもよらない質問が口から零れた。母は鋭い眼差しでようやく僕に視線を向けた。
「……チッ。一体何を馬鹿なことを…」
小さな舌打ちの後、彼女は椅子の背もたれに体を預け、腕を組んで言い放った。
「幸せとは、家の繁栄よ。代々続く志水の名を守り、高めること。個人の感情に流されず、自分の与えられた責任を全うすること。私もあなたのお父さんも、今までそうやってきたの」
その冷徹な言葉に、僕は愕然とした。両親が喧嘩する姿を見たことがない理由が、今やっと分かった。それは互いを愛しているからではなく、お互いの役割を果たすためだけに動き、感情を交わすことがないからだった。
その気づきが、僕の心を氷のように冷たくさせた。この豪邸の中には「愛情」という名の温もりが存在しないのだ。
そんな当たり前のことに、なぜ今まで気づかなかったのだろう。絶望感が全身を包み込み、体中から熱が奪われていくようだった。
「……申し訳ありません。取るに足らないことでした」
僕は深く頭を下げ、書斎を後にした。廊下に出ると、足取りが重くなった。
――やっぱり、言えない、か。
僕はこの家にとって、ただの駒でしかなく、自分の本心を語ることさえ許されていないのだ。これからも仮面を被り続け、親の敷いたレールの上を歩くしかない。
そう思うと、胸の奥に言葉にできない虚しさが広がっていった。
週末の会議を終えた後、僕は自宅には戻らず学生寮へと帰った。あの白亜の館の息苦しさから少しでも早く離れたかった。
しかし、寮に戻っても心の中には鉛がつまったように重く、暗い感情が渦巻いていた。
「僕には、誰かを好きになったり、自由にやりたいことをやったりすることが、できないのか……」
窓際に立ち、夜空を見上げながら呟いた。
――今までもそう思って生きてきたじゃないか。
自分にそう言い聞かせても、心のどこかで反発する感情が芽生えていた。そこに浮かんでくるのは、いつも礼央の屈託のない笑顔。きっと彼の自由さに憧れてしまっているのだろう。手に入らないものを求める、愚かな感情。
これからもいつも通りに振る舞うしかないと自分に言い聞かせ、ベッドに横になった。けれど、なかなか眠りにつけなかった。