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第三章 心が追いつかない

 春の日差しが廊下を柔らかく包み込む午後、体育祭の準備に勤しむ学生たちの声が校舎中に溢れていた。各クラスがオリジナルのTシャツを作り、揃いのグッズを制作する姿に、活気が感じられる。その賑やかな声の合間を縫うように、僕は体育祭の準備一覧表に目を落としながら校内を巡回していた。


「あとは……三年一組の進捗状況の確認か」


 礼央と距離を置こうと決めていたのに、生徒会の仕事は容赦なく降りかかってくる。僕の十組と礼央の一組は校舎の端と端。授業では接点がないはずなのに、体育祭の準備となると関わらざるを得ない。


 礼央が教室にいないことを密かに願いながら廊下の角を曲がり、三年一組の教室へと向かおうと資料から顔を上げた瞬間、目の前に――距離を置きたいと思っていた相手が現れた。


「おう、凪!」


 嬉しそうに声をかけられた僕は、思わず肩がビクッと震え、手元から書類が滑り落ちた。紙が床に広がる音が、妙に大きく響く。


 ――はぁ……距離を置こうと思った側からこれか。


 散らばった書類を拾おうとしゃがむと、礼央も同時に座り込み、手伝い始めた。彼の指が僕の手の近くを動く度に、心臓が跳ねる。


「ご、ごめん……そんなに驚くなんて思ってなかったからさ――」


「……いや、書類を見ながら歩いていたから、急に呼びかけられて、少しびっくりしただけで……」


 僕は極力、礼央と目を合わせないように努めながら、急いで書類をかき集めた。礼央はというと、拾った書類を手渡しながら、まるで太陽のような笑顔を向けてくる。


「最近、練習以外でもよく会うよな。凪に会えて、俺はうれしいよ」


 礼央は屈託のない笑顔を僕に向けてきた。単なる社交辞令だとわかっているはずなのに、その笑顔を見た途端、どくんと胸が高鳴るのを感じた。まるで胸の奥に小さな炎が宿ったかのように……。


「……体育祭の準備の確認をして校内を回っているから――」


「へぇ、そっか。それなら明日も会えるかな? 楽しみだな。ほら、俺たち教室が端と端だから、二人三脚と準備委員会の時以外、なかなか会わないじゃん」


 礼央は子供のように目を輝かせ、僕の顔を覗き込んでくる。その距離の近さに居心地の悪さを感じ、僕は思わず視線を逸らし、小さく咳払いをした。


「会えるかどうかは、その時次第じゃないか?」


 淡々とした声で答えながらも、僕の心はざわついていた。三年一組の体育祭準備委員である礼央に、クラスの進捗状況を尋ね、記録を済ませると、早々にその場を離れた。背中に彼の視線を感じながら、僕は足早に歩いた。


 翌日の放課後、生徒会室の前で生徒会役員の後輩に呼び止められた。


「志水先輩、この資料なんですが……」


 差し出された書類を受け取ろうと手を伸ばした瞬間、背後から明るい声が響いてきた。


「おーい、凪ー!」


 僕のことを「凪」と呼ぶのは、この学園で一人しかいない。振り返ると――礼央が大きく手を振りながら、廊下の向こうから駆け寄ってきた。その姿は、まるで絵の中から飛び出してきたかのように鮮やかだった。


「やっぱり今日も会えたな!」


 礼央は満面の笑みを浮かべ、息を切らしながら僕のそばに走り寄ってきた。僕を見つけて急いで駆けつけたのだろうか。一瞬、胸が温かくなる。


 ――そんなに僕に会えるのが嬉しいのか?


 僕と一緒にいたって、面白くもなんともないだろうに。


 そう思いながらも、僕は顔に仮面を貼り付けて、優しく微笑んだ。


「君に今日も会えるなんて、思ってもみなかったな」


 礼央に微笑みかけると、彼はまるで朝日を浴びた花のように、輝くような表情になった。


 すると、廊下の向こうから女子生徒たちのひそひそ話が聞こえてきた。


「最近、志水先輩と鳴海先輩、よく一緒にいるよね?」


「ほら、三年の競技、なんだっけ? あぁ、そうそう。二人三脚! あれでパートナーになってすっかり息があってるらしいよ」


「そっかー。だからか。ほら、先輩たち、全然性格が違うっていうか、正反対っていうか。だから仲良いのなんでかなーって思ってたんだよね」


 そのひそひそ話を聞いた僕は、心が揺れるのを感じながらも、表情を取り繕って礼央に尋ねた。


「僕に、何か用だった?」


 その質問に礼央は首を振った。髪の毛が揺れる様子が、どこか愛らしく見えた。


「いや。特には。ただ見かけたから、嬉しくてさ! 声かけちゃった」


 礼央の無邪気で真っ直ぐな言葉に、僕は胸を締め付けられる感覚を覚えた。言葉にできないような感情が、心の奥底からわき上がってくる。


 ――僕にこんなふうに接してくれる人、初めてだ。


 挨拶程度の会話をする人はいても、わざわざ遠くから駆け寄ってくる人などいない。しかもこんなにも親しげに話しかける人は、礼央以外には誰もいなかった。


 そのことを改めて認識すると、胸が締め付けられ、同時に暖かい何かが心に広がっていくのを感じた。


 ――距離を置こうとしているのに。逆に近くなってる気がする。


 そのことを拒もうとは思えない自分がいることに、僕は戸惑いを覚えた。


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