体育祭まであと数日というある日の放課後、僕は体育祭関連の資料をまとめるために生徒会室に赴いていた。
窓から差し込むオレンジ色の夕陽が、窓辺で作業をしている僕の影を長く伸ばしていた。光の粒子が舞い、静かな空間に浮かぶ埃を金色に輝かせている。
「もうほとんど準備も終わって、テントや椅子の準備が残るのみか。順調でよかった」
資料を確認して、ホッと胸を撫で下ろした僕の耳に、入り口から明るい声が届いた。
「よお、凪!」
振り返ると、そこには礼央が立っていた。窓から差し込む夕日に照らされ、彼の姿が眩しく輝いていた。
「凪、まだ残ってたんだ」
教室のドアから顔を覗かせながら、礼央は柔らかな笑顔で声をかけてきた。
「君、今日はバレー部の練習は?」
「今日は休み。だから暇で校内をぶらぶらしてたんだよねー。体育祭の準備も終わって、もう何もすることないしさ」
そう言いながら礼央は生徒会室に入ってきた。彼の足音が静かな部屋に響き、僕の心拍数を上げた。
「凪は何してるの?」
僕は礼央と目を合わせられず、資料に目を落としながら答えた。見つめられると、顔が熱くなりそうで怖かった。
「えっと……体育祭の資料の整理」
するとすぐに、礼央がスッと僕の横に立って「手伝おうか?」と顔を覗き込んできた。その近さに、思わず息を止めてしまう。
「いや、これは生徒会の仕事だから……」
「いいって、いいって。ほら、この資料を分ければいいんでしょ?」
有無を言わさずに礼央が資料に手を出し、手伝い始めた。彼の腕が僕の視界に入るたび、緊張感が走る。
「……あ、ありがとう……」
僕がぎこちなくお礼を言うと、お安い御用とばかりに礼央は鼻歌を歌いながら資料整理を始めた。その自然な仕草に、心が和む。
黙々と作業をする二人の間に沈黙が流れる。だがその沈黙は、不思議と居心地の悪いものではなかった。礼央が隣にいるという安心感が、僕の緊張した心を柔らかく包み込んでいた。
やがて礼央が静寂を破って口を開いた。
「ねぇ、生徒会ってさ……っていうか、凪っていつもこんな作業してるの?」
礼央は不思議そうな表情で僕に尋ねてきた。その素直な疑問に、思わず本音が漏れそうになる。
「そ……うだな。他の人は専門委員会に所属しているから……でも、手の空いた人がやれば問題ないかと思って、いつもやってはいるけど」
礼央は目を丸くして僕を見つめた。その純粋な瞳に見つめられ、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
「凪は責任感が強いんだな」
「責任感か――そう……だろうか……ただの――」
「義務でやっている」という言葉を、思わず飲み込んでしまった。
その瞬間、僕は自分の家での立場を思い出してしまった。志水家での僕の行動は、責任感というより、義務でしかない。会議も、結婚も――すべては家の後継者としての義務。
思わず口を噤み、俯いた僕の顔を、礼央が心配そうに覗き込んできた。
「どうした?」
「……いや。なんでもない」
僕は止まっていた手を再び動かし出した。夕陽がさらに傾き、窓辺で作業する二人の影を長く伸ばしていた。その影が重なる部分に、どこか安らぎを感じる。
「俺なんてさ、母さんからいつも『もっと責任持ちなさい!』って言われるよ」
礼央はカラカラと楽しそうに笑って話す。彼の育った環境はどんなものなのだろう。知りたい、彼のことをもっと知りたいという衝動に駆られた。
「お母さんは厳しいのか?」
「うーん、どうだろうな? うちの母さん、俺が小さい時に離婚してて、シングルマザーなんだよ。一人で育ててくれて、すごく感謝してる」
礼央の母親はきっと彼に寂しい思いをさせないように、たっぷりと愛情を注いだのだろう。だから彼はこんなに明るくまっすぐな人に育ったに違いない。その想像が、どこか切なく、そして羨ましかった。
「そうなんだ……大変だったんじゃないか?」
変なことを聞いてしまったかもしれないと反省していると、礼央は明るい声で話を続けた。
「まあね。俺と母さん、二人っきりだったけど、いろんな経験させてくれてさ。母さん、メンタルめちゃくちゃ強くてさぁ。全くへこたれないの。だから俺も強くいないとなって思ってる」
「そっか」
資料の整理を終えた僕たちは、窓辺に腰かけて話を続けた。夕焼けに染まった空を背景に、礼央のシルエットが美しく浮かび上がる。
「俺、だからバレーもすごく頑張ってるんだ。絶対プロになって、母さんに恩返ししたいしな」
礼央はにいっと人好きのする笑顔を浮かべ、僕を見つめた。その瞳には純粋な情熱と決意が宿っていて、思わず見入ってしまう。
「すごいな……きちんと将来のこと考えてて……」
僕は自分が親に定められたレールの上を歩いていることが恥ずかしくなって、思わず俯いた。自分には選択肢がなかったことが、この瞬間、痛いほど心に突き刺さる。
「あれ? 俺、すごい話しすぎた? あんまり自分のこと、人に話したことなくてさ……ごめん、ちょっと重かったかも……」
礼央は少し頬を赤らめて、首の後ろをがしがしとかいた。その仕草に、思わず笑みがこぼれる。
「いや……素敵な目標だと思うよ」
僕は礼央に向かって微笑んだ。いつもの仮面をかぶった表情ではなく、本当の自分の素顔で。
「ところでさ、凪って恋愛とか、どうなの? イケメンだからモテるんじゃない?」
礼央の唐突な質問に、思わず背筋が凍りついた。胸の奥が痛む。
「えっ? ……何で、そんなこと……」
「いや、さっきさ、ここにくる前に彼女と電話してて。なんとなく、凪はどうなのかなって思っただけ」
僕は背中に冷たいものが流れるのを感じた。指先が急激に冷えてくる。体の中の血液が一瞬で凍りついたかのように。しかし、冷静なふりをして答えた。
「僕には……親の決めた許嫁がいる」
「げっ! マジで? 今どきそんなのあるんだ。なんかお坊ちゃんとお嬢様の物語みたいじゃん」
――本当に、『今どき』って思われてもしょうがないよな。
僕は内心、礼央の率直な意見に同意した。それに加え、僕には彼には言えない秘密がある。自分のセクシュアリティという、誰にも打ち明けられない真実。
礼央は真剣な眼差しで僕を見つめた。
「でもさ、好きな人と一緒になれるのが一番幸せと思うんだよな。母さんも言ってたわ。『恋をしたら全力で』って」
礼央はそう言うと少し恥ずかしそうに笑った。その笑顔の中に、どれほどの幸せが詰まっているのだろう。
僕の心に礼央の言葉は、深く刺さった。これまで自分のセクシュアリティから逃げ、恋愛とも向き合わずに生きてきた。家の期待に応えること以外、考えたこともなかった。
――誰かを本気で好きになる……か。
僕はチラリと横目で礼央を見た。
夕日に染まる礼央の横顔があまりにも美しく、眩しすぎて、思わず目を細めた。心臓がどくんと跳ねる。もしかして、これが――。