梅雨前の貴重な晴れの日、僕と美月は父が贔屓にしている老舗料亭で結納を交わした。結局、僕は自分のセクシュアリティについて母に伝えることができず、このように結納の日を迎えてしまった。
爽やかな風が室内に吹き抜ける中、僕の心の内はどんよりとした雲に覆われていた。いつもの完璧な息子の仮面をかぶりながらも、その笑顔は引きつっていた。
滞りなく結納を終えた後、料亭の庭園を美月と二人で並んで歩いた。春の木々の緑が美しく、小鳥のさえずりが響く庭園。その美しさに反して、僕の心は重かった。
美月は予想していたとおり、特に喜ぶ様子もなく、淡々とこの日を迎えていた。この日までに何度も彼女とは顔を合わせているが、お互い相手に対して恋愛感情がないのは明らかだった。僕たちは家の"駒"でしかないのだ。
「美月、よかったのか?」
僕は何気なく今日の結納について尋ねた。その質問に、美月はどこか遠くを見るような目で答えた。
「……仕方ないよね。私たちの気持ちなんて、考えてくれる人たちじゃないし……」
美月は人生に達観しているような静かな口調で言った。まるで自分の感情を凍結させたかのように。
「そう……だな……」
僕は相槌を打ったものの、心の中がモヤモヤとしていた。それは自分が女性を愛することができないという事実により、美月を不幸にしてしまうかもしれないという懸念からだった。
このことは、美月に伝えておく必要がある――そう思った瞬間、胸の奥で何かが崩れた気がした。
意を決して、僕は口を開いた。
「美月、聞いて欲しいことがある」
「何?」
美月は優雅に振袖の袂を押さえながら、風に揺れる黒髪を撫で付けた。その仕草に、生まれながらの上品さが滲み出ている。
「……僕は、結婚しても――君を愛することができない……」
美月は驚きのあまり、目を大きく見開いた。その瞳に一瞬、混乱の色が浮かんだ。
「な……んで? 他に好きな人がいる……とか?」
僕はゆっくりと首を振って否定した。拳をギュッと握る手のひらには、爪が食い込み、痛みが走る。
「……いや、好きな人がいるわけじゃない。僕は、女性が……愛せない」
それを聞いた美月は、小さく息を呑み、口元を両手で覆った。その手はワナワナと小刻みに震えている。沈黙が二人の間に広がる。
「なん……で、今、それを……」
「ごめん……。本当は母さんに言おうとしたんだけど……言えなくて……。僕の心が弱いからだ……」
僕は後悔と恥ずかしさで俯くしかできなかった。言葉にした瞬間、自分の本当の姿を曝け出したような気持ちになる。
僕がゲイであると言うことを伝えたのが原因なのかは分からないが、結納の後すぐ行われる予定だった婚約パーティーは、朝比奈家のスケジュール調整が難しくなったという理由で延期された。その時期は未定とのことだった。僕はそのことに、小さな安堵を覚えた。
結納の翌日、寮の自室に閉じこもっていると、次々と様々な思いが押し寄せてきて、落ち着かなかったため、街に出ることにした。普段は街歩きなどほとんどしないのだが、じっとしていると、美月のことや礼央のことが頭から離れなかった。
街に出ると、新規オープンしたらしいカフェが目に留まった。週末にもかかわらず混み合っていたが、テラス席はいくつか空いていた。カフェラテを注文して、テラス席に腰かけた。バッグから本を取り出して開く。爽やかな初夏の風が吹き抜け、鬱々とした気分を少しだけ和らげてくれた。
本を読んでいる時が一番心が休まる時間だった。物語の中に自分を投影して現実逃避することができるから。現実の自分から離れられる、数少ない瞬間。
ゆったりと椅子の背もたれに体を預け、本のページをめくる。指先に触れる紙の感触が心地よかった。
キリのいいところで本から目を上げて、何気なく店内を見渡した。すると、窓際の席に見覚えのある姿を見つけた。礼央だった。僕の心臓は大きく跳ね、思わず息を呑んだ。
――なんで礼央が、ここに?
彼は今まで見たこともないような柔らかな笑顔で何かを話している。相手の方に目をやると、女の子と向かい合っていた。礼央は彼女がいると言っていたから、きっとその子だ。その光景を見た瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
――なんだ、この感覚は……。
僕は思わず胸を押さえた。息が詰まって、喉が締め付けられるような感覚。心臓が痛むような、奇妙な感情。
礼央は今日はデートなのだろうか。その時、彼女の手が礼央の口元に伸びた。口についていたクリームを優しく拭い、ぺろっと舐める仕草。その後、礼央と彼女はくすくすと楽しそうに笑い合っていた。
見てはいけないものを見てしまったような気持ちになって、目を逸らそうとする。でも体が言うことを聞かない。まるで磁石に引き寄せられるように、視線は二人に釘付けになった。
なんであんなに楽しそうにしているんだ! 頭に血が上ったようにグラグラとしてきた。心臓を鷲掴みにされたような痛みと苦しさが広がる。
――まさか……これって、嫉妬?
その感情を認識した途端、頬に熱が籠るのがわかった。自分の本当の気持ちに気づいてしまった。混乱と衝撃で、勢いよく席から立ち上がった。
ガタン!
その拍子に椅子が大きな音を立てて倒れた。周りの人たちが一斉に僕の方に視線を向ける。カフェの中の礼央たちも何事かと振り返った。
僕は咄嗟に礼央たちに背を向け、その場から逃げるように立ち去り、急いで人ごみの中に紛れ込んだ。胸を押さえながら足早に歩く。
カフェから十分に離れたところまで来ると、肩で息をしながら、壁に寄りかかった。頭のなかは混乱で一杯だった。
「こんな気持ち……初めてだ」
はあ、はあと息を整えながら、礼央と彼女の様子を思い出してしまう。それだけで胸が苦しくて、息が詰まる。まるで重い鎖で胸を締め付けられているかのように。
――なんで……礼央たちのことを考えただけで、こんなに胸が苦しいんだ?
まさか、これが恋なのか? 僕は自分の気持ちに向き合えずに天を仰いだ。今まで感じたことのない感情に、戸惑いと恐れが混ざり合った。