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第四章 僕が僕であるために

 真夏の熱が遠ざかったものの、いまだに熱のこもった空気が校舎を満たしていた。新学期には文化祭という、体育祭と並ぶ一大イベントが控えている。屋内外に設けられるステージでは、クラスや有志たちによる様々なパフォーマンスが行われ、校舎内には文化部やクラスの展示が並ぶ。校門から校舎へ続く桜並木の道には、色とりどりの模擬店が立ち並ぶ予定だ。


 体育祭と違うのは、他校の生徒や近隣住民など、外部からも大勢の人が訪れることだった。そのため生徒会としては、安全面に気を配りながら、訪れる人々が心から楽しめるような工夫を凝らさなければならない。


「志水先輩、この資料を確認していただきたいのですが……」


 生徒会役員から差し出された資料にさっと目を通す。早朝から続く打ち合わせで、僕の頭は既に様々な情報で埋め尽くされていた。それでも表情には出さず、いつもの穏やかな微笑みを浮かべる。


「野外と屋内のステージの配置を……こうしていただけますか? また何か問題があれば教えてください」


「分かりました」


 的確に指示を出しながら校内を回る。完璧な仮面を貼り付けたまま、志水凪という名の精密機械は今日も滞りなく動いていた。


 ――この文化祭を成功させれば……僕の仕事も終わる。


 そう、高校生活最後の大きな仕事がこの文化祭だった。しかし、疲労が蓄積していることは自分でも分かっていた。


 六月に美月と結納を交わしてから、一向に執り行われない婚約パーティーに両親は苛立ちを隠せずにいた。「いつになったら婚約パーティーが開かれるのか」と、まるで僕にその責任があるかのように詰問してくる。


 ――そんなこと、自分で朝比奈社長に連絡すればいいのに……。


 おそらく、父の会社の新規事業のプレスリリース前に朝比奈グループとの結びつきを公にしておきたいのだろう。それは理解できるが――。


 美月に自分がゲイであることを遠回しに伝えてしまったから、もしかしたら朝比奈家では騒動になっているのかもしれない。あるいは美月自身が引きこもってしまっているのかもしれない。


 ――あぁ……言わなければよかったのかな……。


 僕は大きくため息をついた。結納式の後、美月とは一度も連絡を取っていない。彼女を傷つけてしまったと考えると、胸が針で刺されるように痛んだ。


 そのとき、ポケットのスマートフォンが震えた。画面を確認すると母からのメールだった。


『美月さんには連絡とってくれたの?』


 たった一行の文面を読んだだけで、「またか……」と胸の中が鉛を飲み込んだように重くなり、苛立ちが込み上げてきた。品行方正な完璧な生徒会長であるべき僕が、思わず「チッ」と小さく舌打ちをした。


 舌打ちをするという行為に自分でも驚いた。以前なら感情など持ち合わせておらず、親に言われたことを何も感じずに行動に移していただろう。だが、礼央と出会ってからというもの、僕の中に「本当の僕」が少しずつ芽吹いているのを感じていた。


「志水先輩!」


 背後から声をかけられ、急いで仮面を貼り付けて、柔和な笑顔を作った。


「どうしました?」


「ここの会場の高さなのですが……」


 微笑みを絶やさず、生徒会の役員たちの質問に応え続ける完璧な生徒会長。それが僕の役割だった。


「志水先輩、各クラスの企画の確認なのですが……」


 別の役員から声をかけられ、資料に目を落とした。まだいくつか企画の確認ができていないクラスがあるようだ。


「僕が行くよ」


「会長は全体を見ないといけないでしょうから……」


 そう言われたが、生徒会役員がみんな手一杯であるのは明らかだった。


「いや、大丈夫。これくらいなら」


 僕は書類を受け取り、確認が済んでいないクラスへと足を向けた。


 文化祭の準備は夏休み中から取り掛かっているクラスが多いのだが、三年生は受験が控えているからか、集まりが悪く、企画が決まるのは新学期に入ってからというのはよくあることだ。


 案の定、企画が出ていないのは三年生のクラスが多かった。順番にクラスを訪問して、文化祭の企画を聞いていく。


「最後は……三年一組か」


 僕は礼央に会えるかもしれないという淡い期待を胸に、教室へと向かった。あの練習試合を見に行ってから、二ヶ月以上会っていない。僕たちには接点がないから、頻繁に会わないのは当然なのだが……。


「失礼します」


 三年一組の扉から教室を覗き込むと、そこには会いたかった人がいた。


「あ、凪! 久しぶり! 元気か?」


 相変わらず明るい笑顔で僕に近づいてくる。僕は自分の気持ちを自覚しているからか、少しぎこちなく笑顔が引きつった。


「礼央、インターハイで活躍したみたいだね」


「あっ? 知ってたの?」


 礼央は僕がそのことを知っていたのが嬉しかったのか、一歩近づいてきた。その表情は自信に満ち溢れており、まるで太陽のような輝きを放っていた。


「今回のインターハイの結果よかったから、もしかしたら大学のスポーツ推薦狙えるかもしれないんだ!」


 誇らしげに語るその表情には、安堵の色も混じっていた。


 ――お母さんを楽にさせたいって言ってたもんな……。


「そう。それはよかったね」


 僕の言葉に礼央は満面の笑みを浮かべ、その笑顔に僕の心は高鳴った。


「それはそうと、何かうちのクラスに用事だった?」


「あ、そうそう。文化祭の企画についてまだ提出されていなかったから……」


「あぁ……ちょっと待ってて」


 礼央は教室の中に入っていき、誰かと話してから戻ってきた。その手には三年一組の文化祭の企画書が握られていた。


「はい、これ」


「ありがとう」


 企画書を受け取り、僕は「じゃあ」とその場を立ち去ろうとした。そのとき、突然腕を掴まれた。


「……えっ?」


 驚いて礼央を振り返ると、彼は心配そうな眼差しで僕を見つめていた。


「凪、ちょっといいか?」


「え? ……ちょ、ちょっと」


 唐突に腕を引っ張られ、廊下の隅へと連れてこられた。ここは空き教室の前の廊下で、他に誰もいない。


「何があったの?」


 いきなりそう質問され、僕は目を見開いた。


「な、何も……」


 いつものように完璧な仮面を貼り付け、作り笑いを浮かべて礼央を見た。だが彼の目はごまかせないとでもいうように鋭く僕を見つめていた。


「うそ。笑ってないよね、その目」


 礼央に投げかけられた言葉に、思わず動揺してしまう。喉がカラカラに渇き、指先が冷たくなる。


「そんな……」


「俺には分かるよ。その笑顔は『本当に』笑っている顔じゃない」


 その言葉を聞くと、僕の中で何かがグラグラと揺れ動くのを感じた。


 ――なんで……。誰も分からないのに、君は……。


 僕のことを真剣に見つめる礼央の視線が痛かった。


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