文化祭が終わると、三年生は一気に受験モードに突入した。まるで夢から覚めたように、現実に引き戻される。指定校推薦を受ける生徒たちは面接や小論文の練習に勤しみ始める時期だ。
僕も受験に向けて本腰を入れなければならないのに、まだあの夢のような時間から戻りたくなくて、心は文化祭の記憶に浸っていた。
――あぁ、礼央と回った模擬店の食べ歩き、あんなに楽しかったなんて。
礼央との時間は、僕の中で宝石のように輝いていた。まるで恋人のように寄り添って歩いた感触が、今でも肌に残っている。それがこれほど心を温めるものだとは知らなかった。そもそも僕は今まで恋をしたことがなかったのだから。
しかし、礼央には彼女がいる。文化祭の後夜祭の時、「距離を置く」とは言っていたが、別れたとは言っていない。その後二人がどうなったのか、あれから礼央と会っていないから分からない。
改めて、クラスが端と端だと会う機会がいかに少ないかを痛感した。だけど、わざわざ会いに行くほどの関係でもないし……そう思い込もうとしていた。
そんなことをぼんやり考えていたら、前からプリントが回されてきた。一枚取って後ろに回し、目を落とすと、進路希望調査の用紙だった。
「みんな、プリント手元に来たかー?」
教壇の担任がクラスを見回しながら大きな声で言った。
「模試をする前に、今のホームルームの時間で記入できるだけ書いておくように。残りは家で書いてきて、明日提出。それを元に懇談するからなー」
クラスがざわめき、カリカリと周りでは用紙に記入する音が響き渡っている。だが僕はシャーペンを持ったまま、動けずにいた。
今までは家業を継ぐということが当たり前のことだと思っていた。僕にはその道しかないと。だが、礼央と出会い、今まで自分が当たり前だと思っていたことが本当は違うのだということに気づいた。当たり前のように家業を継ぐと礼央に告げた時、言われた言葉。
『それは夢じゃないだろ』
確かに、自分が本当にやりたいこと、心から望んでいることではない。
僕は進路希望調査に一文字も記入できないまま、心の中で葛藤を続けていた。
その時、担任が横を通り過ぎながら声をかけてきた。
「志水、いつもならすぐに書き終わるのに、まだ書けてないのか?」
その声に僕はハッと我に返った。
「……あ、はい」
急いで、大学名を記入する。しかしその後、シャーペンを持つ手が小刻みに震えた。
父の期待通りに、経営学部と書くべきか。それとも……。
――本当は……、心理学を学びたいんだよな。
プリントに穴が開くのではないかというほど、学部を記入する欄を凝視する。インクの染みが紙に広がっていく様を見るように、僕の中の迷いも広がっていった。
――どうしよう……。
頭の中でぐるぐると思考が巡る。その時、横から蓮が声をかけてきた。
「なぎっち、書けた? どこ志望するの?」
僕は眉を下げて、蓮の方へ顔を向けた。緊張で引きつった笑みを無理に浮かべる。
「え? ん〜。ちょっと……まだ……」
「なぎっちの成績なら、国立狙うんだろ? 余裕だよなー」
「……うん……」
確かに、手元の調査書には国立大学名が刻まれていた。だが、その後の学部が空欄のままなのだ。
『本当は何がしたいの?』
ふと頭の中に礼央の声が響いた。まるで肩越しから覗き込むように、あの暖かい声が僕の心を揺さぶる。
――僕のしたいことは……。
もう、答えは出ている。だけど、空欄を埋めることができずに、グッと下唇を噛んだ。
*
「はい、それじゃあ、今から実力テストの模試をするから、一旦調査書は片付けて」
担任が教壇の上からクラスに響き渡る声で言った。僕は結局、空欄を満たすことができずに、ため息をついた。
テスト用紙が配られる。チャイムの音と共に、クラス中に問題用紙をめくる音が響いた。爽やかな秋風に乗って、周りからはカリカリとシャーペンを走らせる音が聞こえる。
しかし僕の周りだけは、空気が澱んで、時間が止まっているようだった。問題用紙に書かれている文章が一向に頭に入ってこない。礼央の言葉が何度も頭の中でリフレインする。
『凪と過ごした時間が一番楽しかった』
『しばらく距離を置くことになった』
頭から離れない言葉に僕はテストに集中することができなかった。まるで頭の中を礼央の笑顔が占領しているかのように。
「残りあと十五分」
担任が教室を巡回しながら声を上げた。その声にハッと我に返り答案用紙を見ると、まだ半分以上空白が残っていた。
――何をやってるんだ、僕は……。
現実に引き戻された僕は、そこから十五分で残りの問題を全て解き終えたのだった。かろうじて見栄は保てたけれど、おそらく自分の実力を出し切れていない。
その日の放課後、帰り支度をしていると、スマートフォンが震えた。ポケットから取り出し画面を見ると文化祭実行委員からのメッセージだった。
そのメッセージを開くと、文化祭の写真が添付されていた。それらは生徒会新聞に載せるための写真だった。スクロールしていると、その中に僕と礼央の姿を見つけた。模擬店で食べ歩きしながら、二人とも溢れんばかりの笑顔だ。
僕がこんな顔で笑っているなんて。仮面を貼り付けることなく、自然な笑顔で笑えていることに驚いた。だが、礼央の前ではいつもこんな顔をしているんだということにも気づく。こんなに心から笑っているのは、久しぶりだ。たぶん小学生以来かも知れない。
「……はぁ」
僕は大きくため息をついた。この気持ちをどうすればいいのか分からず、頭を抱えた。