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6-3

 僕の定位置である窓際の席の向いに、礼央は座って参考書を開いた。小論文を書く練習をしているようで、参考書のテーマを一つ選び、カリカリとシャーペンを走らせている。そういえば、スポーツ推薦が決まったって言ってた気がする。


 僕は礼央の真剣な顔を時々盗み見しながら、英語の問題集を広げて解き始めた。彼の黒い睫毛が長くて、集中している時の表情が美しいことに気づいてしまう。


 問題を解き終えて少し顔を上げ、礼央を見ると、彼も目線を上げて目を合わせて微笑んだ。その瞬間、ここが図書館だということを忘れ、二人だけの世界のように感じて、心が温かくなった。秋の陽が窓から差し込み、彼の髪を金色に輝かせている。


 図書館が閉館の時間となり、僕と礼央は図書館を後にした。


「完全下校まで少し時間があるから、屋上行かない?」


 礼央が腕を上に上げて体を伸ばしながら言った。バレーを毎日していた彼には、机に向かって勉強するのが辛いのかもしれない。僕は頷いて礼央と肩を並べて屋上へと向かった。二人の足音が廊下に響き、その音が妙に心地良かった。


 屋上の扉を開けると、空は赤と紫が混ざった神秘的な色に染まり、遠くの街がキラキラと輝いていた。屋上を吹き抜ける風は少し肌寒い。僕はブルっと身震いをした。


「懐かしいな。最後にここにきたのって、いつだったっけ?」


「文化祭の前日、だったかな?」


 僕は気持ちが塞いだ時などはよく一人で屋上に来ることがあるが、礼央が屋上に現れたのはその時一度しかなかった。それなのに、まるで二人だけの秘密の場所であるかのように、この空間が特別に感じる。


 フェンスを背にして二人並んで立つ。夕陽に照らされた礼央の顔には深い影が落ちていた。彼の横顔が切なくて美しい。


「部活、引退して、どう?」


 僕は少し寂しそうな表情をしているように見えた礼央に問いかけた。


「部活がない生活、まだ慣れないな」


 ハハっと朗らかに笑う礼央の顔を見ると、憂が滲んでいたのは見間違いだったのかもしれないと思えた。でも、その笑顔の下に何か隠されているような気がして、僕は彼から目を離せなかった。


「分かる。僕も生徒会がないの、まだ、慣れないから」


 僕は頷きながら礼央に言った。二人とも何かを失った後の空虚感を共有している。それが二人を近づけているのかもしれない。


 礼央は体を反転させてフェンスの方へ向き、フェンスを握った。夕焼けを見上げながらぼそっと呟く。


「俺さ……、進路のことで悩んでて……」


 僕は驚いて目を見開いた。いつも明るく前向きな礼央が悩んでいる。その事実が僕の胸を強く打った。


「えっ? スポーツ推薦で大学に行くんじゃないのか?」


「うん。スポーツ推薦決まってるんだけど、実業団からもスカウトが来てて……」


 真剣に話す礼央の横顔から目が離せなかった。夕焼けに映える彼の輪郭は、まるで絵画のように美しい。


「それって、すごいことじゃない!」


 僕はまるで自分のことのように声を弾ませた。だが、礼央の表情は硬いままだった。


「そうなんだよな。でも、母さんは大学には行って欲しいって言うんだよな」


 礼央は以前、お母さんを早く楽にさせたいと言っていた。そのためには一日でも早く実業団に入る方がいいはずだ。だが、お母さんは大学に行って欲しいと願っている。その狭間で心を砕いているのだろう。彼の葛藤が痛いほど伝わってきた。


 しばらくの沈黙の後、礼央は口を開いた。


「凪は? 本当はどんな夢があるの?」


 この質問を以前、礼央に聞かれてからずっと考えていた。もう、僕の中で答えは出ている。礼央の真剣な眼差しを受け止めて口を開いた。


「……僕は、やっぱり、心理学を勉強したい」


「それ、すごくいいじゃん!」


 礼央は満面の笑みで、驚くほど喜んでくれた。その反応が嬉しくて、胸が熱くなる。


「……でも、親は……」


 僕は俯いて息を呑んだ。現実の壁を思い出して、声が小さくなる。


「志水グループの経営者になることが、僕の運命だから……」


「運命?」


 礼央の声が変わった。何か違和感を感じたような声だ。


「運命なんて、自分で変えられるんじゃないの?」


 僕を見つめる礼央の瞳の奥が揺れているのが分かった。まるで彼自身も何かと闘っているかのように。


 しばらく僕と礼央は見つめ合っていたが、急に礼央が口を開いた。


「あのさ、紗奈のこと、なんだけど……」


 急な話に僕は息を呑んだ。喉仏が上下に動くのが分かる。心臓が早鐘を打ち始めた。


「紗奈とは……、やっぱり上手く行かなかった」


 その礼央の声には、諦めとも取れるような感情が滲み出ていた。けれど、不思議と後悔はないようだった。


 夕陽が沈み、空が紫と黒のグラデーションに変化し始めていた。屋上を吹き抜ける風は、さらに冷たさが増した。二人の間に漂う空気も、何かが変わり始めていた。


「どうして……、上手く行かなかったの?」


 僕はゴクリと唾を飲み込んで声を絞り出した。その声は少し震えていた。こんなことを尋ねる勇気がどこから湧いてきたのかと、自分でもびっくりする。


 礼央は空を見上げながら口を開いた。星が一つ、二つと瞬き始めていた。


「自分の気持ちに……正直に従ってしまったから、かな」


「正直に……」


 その言葉が僕の胸の奥にグサリと突き刺さった。僕自身が最も恐れていること――正直になること。


「凪も何か、正直になれないこと、あるんじゃないの?」


 僕は礼央の言葉に体から血の気が引くのが分かった。礼央のまっすぐな視線に、体が震える。僕は、ぎゅっと拳をきつく握った。手の甲には血管が浮き出ている。


「ある」


 僕が発した声は今までになく、低いものだった。正直になりたいこと。それは二つ。進路のことと、そして、この気持ち――。


「家のこと? それとも――」


 自然と礼央の声が柔らかくなった。まるで僕の心の奥まで見透かされているような感覚に襲われる。


「凪、本当は、男の人が好きなの?」


「……っ!」


 礼央の言葉に僕の周りの空気が一瞬で凍りついた。世界が止まったように感じた。


「えっ? な、何……言って……」


 僕の心臓がこれまでにないほどバクバクと激しく鼓動する。喉がカラカラに渇き、手先が冷たくなるのを感じた。発した言葉は上擦っていて、明らかに動揺していることがわかっただろう。


 ――逃げ出したい!


 僕はぎゅっと拳を握った。その時、礼央が柔らかい表情を向けて僕に言った。


「別にいいんだよ、それでも」


 礼央の目には優しさが溢れていた。その言葉は、僕の中の何かを壊した。


 今まで僕が男性が恋愛対象だと誰にも気づかれることがなかった。それなのに、礼央はそれに気づいてしまった。きっと、気持ち悪いと思われるに決まっている。


 礼央には嫌われたくない……。心の中がぐちゃぐちゃになり、気づいたら、涙が頬を伝っていた。溢れ出る感情を止められない。


「……っ! す、好きになって……ごめんっ……」


 僕は心に秘めていた想いが一気に溢れ出てしまった。その瞬間に今までかろうじて張り付いていた仮面がバリッと音を立てて剥がれ落ちた。震える声が礼央の耳に届く。その時、礼央が目を見開いた。


「ご、ごめん。忘れて……今のは……聞かなかったことに」


 思わず本音がもれ、僕は慌ててしまった。踵を返し、その場から逃げようとした。全てを壊してしまった、そう思った。


「待って! 凪!」


 礼央は咄嗟に僕の腕を掴んだ。温かな手の感触が、僕の冷えた肌を通して心まで伝わる。


「離して! 頼むから!」


「嫌だ!」


 礼央は僕の腕を掴む手に一層力を込めた。


「話を聞いてくれ、凪! 俺も……」


「聞きたくない! お願い……もう……」


 僕は渾身の力を込めて礼央の手を振り解き、屋上から逃げ去った。心臓が張り裂けそうな痛みとともに。


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