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第七章 僕だけを見て欲しい

 寮のカーテンの隙間から差し込む朝の光が、僕の頬を優しく撫でた。目を開けると、白い天井と、その上で踊る埃の粒子が見える。ゆっくりと体を起こし、窓辺に歩み寄ってカーテンを開けた。窓ガラスに吐息をかけると、一瞬だけ白く曇り、すぐに消えていく。ひんやりとした空気が窓辺から漂い、僕の素肌を粟立たせた。


 普段なら目覚めは良いほうだ。「朝型人間」と呼ばれるくらいには。だが今日は違う。昨晩、一睡もできないまま朝を迎えてしまった。鏡を覗き込むと、うっすらと目の下にクマができている。顔色も冴えない。冷たい水で顔を洗い、頬を叩いて血色を取り戻そうとする。無表情の自分と鏡越しに見つめ合い、深いため息をついた。


「大丈夫、いつもの志水凪でいればいい」


 自分自身に言い聞かせるように呟く。手早く身支度を整え、朝食を済ませた。寮から学校まで徒歩五分とかからない距離だ。同じ敷地内ではないが、隣接しているのでほとんど同じと言ってもいい。


 寮を出て空を見上げると、晩秋の空は鉛色の雲に覆われていた。紅葉が終わりかけている木々は、冷たい風にまだ枝に踏ん張って残る葉を震わせている。その姿が、何故か自分と重なって見えた。


「おはよう!」


「今日、寒いよなー」


 季節の変わり目に急に冷え込んだせいか、登校する生徒たちは手袋やマフラー、中には薄手のコートを羽織り始めた者もいる。学校が近いからと油断していた僕は、手先が冷たくなり、両手を擦り合わせては「はぁ」と白い息を吹きかけた。


 昇降口で靴を履き替えようと目をやると、いつもならきっちりと揃えておいてあるはずの上履きが、まるで投げ込まれたかのように無造作に突っ込まれていた。それを見た瞬間、昨日の出来事が鮮明に蘇ってきた。


 ――昨日の夜のこと。あれは夢だったんじゃないかって思いたい。


 だがそれは夢などではなかった。


『凪のことを考えてしまうからなんだ』


『凪と一緒にいると、心が安らぐんだよ』


 礼央の言葉が、耳の奥で残響のように鳴り続けている。心臓がその音に合わせて高鳴り、呼吸が浅くなる。その時、不意に肩を叩かれ、僕の体は電気でも流れたようにビクッと震えた。


「おっはよ! なぎっち」


 振り向くと、蓮が満面の笑みを浮かべていた。彼は馴れ馴れしく肩を組んでくる。


「……おはよう」


 僕はチラッと蓮を見て、すげなく挨拶をした。視線を合わせられない。


「あれぇ? なぎっち、どうした? 顔色悪いぞ? 熱でもあんの? 元気もないし」


 蓮の問いに僕はぶんぶんと頭を振った。心配されるほど顔に出ていたのか。


「ううん。ただの、寝不足」


 蓮は不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。温かみのある茶色の瞳が、心配そうに僕を見つめている。


「なぎっちが寝不足なんて、珍しいね。勉強頑張ってたの?」


「うん……、まぁ……」


 幼馴染とはいえ、自分の恋愛対象が男だということを知らない蓮には、礼央のことは相談できない。だから曖昧に答えるしかなかった。僕は彼に肩を組まれたまま、ぼんやりとしながら教室に向かった。


 ――礼央に会ったら、どうしたらいいんだろう?


 恋愛に疎い僕には、こんな状況でどう振る舞うべきなのかが全く見当もつかない。機械のように足をリズミカルに前に出して教室へ向かっていると、廊下の向こうに空色のジャージを着た礼央の姿が目に入った。


「あっ……!」


 僕は蓮の手を振り解き、反射的に身を翻した。


「お、おいっ! なぎっち、どうしたんだよ、急に」


「ご、ごめん! トイレ!」


 僕はトイレに駆け込み、個室に閉じこもった。ドアにもたれかかり、ずるずると床に腰を落とす。


「はぁ、はぁ」


 肩を上下させて息を整える。だが、心臓はドラムのように激しく打ち付けていた。胸を押さえても、その鼓動は収まらない。


「……落ち着け、落ち着けよ……。ただ、姿を見ただけじゃないか……」


 深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着きを取り戻す。シャツの襟元を整え、制服のしわを手で伸ばし、扉を開けた。すると、腕組みをして仁王立ちした蓮が、眉間に皺を寄せて待っていた。


「なぁ、なぎっち。誰かに追われてんの?」


「え?」


 蓮の厳しい表情からは想像できない言葉が発せられ、僕は呆気に取られた。もっと怒られるのかと思っていたのに。


「だってさ、なんか逃げ回ってるみたいだったから……」


 幼馴染というのはこういうものなのだろうか? ちょっとした変化にも気づいてくれる。頼もしくもあり、ありがたい存在だ。だが、蓮には「好きな人から逃げている」なんてことは口が裂けても言えない。僕は頬が熱くなるのを感じて俯きながら言った。


「そ、そんなことないよ」


「そうか? ならいいんだけど。なんかあったら俺に相談しろよな!」


 そう言うと、蓮は腕を大きく広げて、僕をぎゅうぎゅうと抱きしめてきた。小さい頃からやっている、僕を慰める時のスキンシップだ。僕は苦笑いしながら「ありがとう」と答えるしかなかった。その背中は、いつも通りに温かかった。


 放課後、図書館の定位置で勉強をしていた。だが、いくら本に目を落としても頭に入ってこない。目で文字を追っても、頭の中は礼央のことでいっぱいだった。僕は本に顔を埋めて「うーん」と唸った。


 その時、ポケットの中のスマートフォンがブルっと震えた。画面を確認すると、礼央からのメッセージが届いていた。


『まだ学校にいるんだったら、話がしたい。屋上で待ってる』


 シンプルな内容のメッセージ。だが、僕の心臓はドクンと大きな音を立て、指は震えが止まらなかった。返信しなきゃと思っているのに、指が凍りついたように動かない。


 ――なんて返事する? 会いたい……、でも、怖い。


 結局、返信することができずに、そのまま画面を閉じた。図書館の窓から見える空は、次第に暗くなっていく。まるで僕の心のように。


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