週末、結納後初めて、美月と二人だけで食事をすることになった。僕が自分の人生を生きると決めた覚悟を、彼女に伝えるつもりだった。
結納後に予定されていた婚約パーティーは行われることなく、志水グループの新規事業発表も先送りとなっていた。両家とも、何かを待っているような空気があった。
僕が予約したレストランは、ホテルの最上階に位置する高級店だった。夜景が美しく見える窓際の席を確保してある。落ち着いた琥珀色の照明が店内を優雅に照らし、ホールの中央にはグランドピアノが設置されていて、生演奏が静かに響いている。白いクロスがかけられたテーブルには、銀食器が美しく輝いていた。
僕は美月をエスコートして席に案内する。向かいに座った美月は、いつものように落ち着き払った表情をしていた。
「最近の株価動向について、どう思われますか?」
食事が運ばれてくるまでの間、美月はいつものようにビジネスの話を始めた。その口調は、まるでビジネスパートナーと会話しているかのように冷静で客観的だ。
「堅調ですね。特に医療系分野は上昇傾向が続いています」
僕も機械的に返答した。
しかし、その後しばらく沈黙が続いた。普段なら美月が別の話題を振ってくるはずなのに、今日は違っていた。不思議に思って彼女に目を向けると、美月が僕をじっと見つめていることに気づいた。
「ねぇ、凪。最近、何か変わったこと、ある?」
先ほどのビジネスライクな声音とは打って変わって、美月の声が急に柔らかくなった。それは年相応の女子高生の、素の声だった。僕はその変化に驚いて目を見開いた。
「え……? 特には……」
実は今日、美月を呼び出したのは、自分の人生を歩むと決めた意志を伝えるためだった。それなのに、まだ言葉にできずにいる自分が情けなくて、頬を赤らめて俯いてしまった。
美月は僕をじっと観察している。その眼差しが、どこか痛いほど優しかった。
「誰か、好きな人でもできたの?」
「えっ?」
美月の突然の言葉に驚いて、僕は顔を上げた。目の前の美月の表情は驚くほど柔らかく、温かい眼差しだった。膝の上で握っている僕の手が、小刻みに震えている。
「な……なんで……?」
「ふふっ。分かるのよ。だって顔に書いてあるもの」
僕は自分の表情に抜かりがあったのか、それとも何かが表に出てしまっていたのかと思い返してみる。ビジネス用の仮面を貼り付けていたはずなのに、それでも何かが滲み出ていたのだろうか……。
その時、美月が小さくため息を吐いた。
「実はね、私も……好きな人がいるの。去年、ボストンに留学した時に知り合った人」
いつもはクールな表情を崩さない美月の頬が、ほんのり桜色に染まった。
「えっ? そうだったの?」
「驚いた? でも、これは本当のことよ」
美月はこくりと頷いた。その仕草は、普段の彼女からは想像できないほど愛らしかった。
「だからね、結納の時、本当はその人のこと諦めようと思ってたの。でもあの日、凪が男性を恋愛対象にしているって言ってたから、私も諦めるのをやめようって思ったの」
「じゃあ、婚約パーティーがなかなか開かれなかったのも……」
「ふふっ。あれは私が色々と難癖をつけて、延期させてたのよ」
そう言って笑う美月は、まるでいたずらっ子のような表情になっていた。僕たちの顔は、いつの間にかビジネスライクなものから、年相応の高校生の顔に変わっていた。
「じゃあ、僕たちの婚約って……」
「破棄する方向で考えましょう」
頭を寄せ合って、婚約を上手に破棄する方法を練り上げるのは、想像以上に楽しかった。僕たちは婚約破棄の「共犯者」だ。今まで自分で自分のことを決めたことがなかった僕には、この感覚が何より爽快だった。
こうして僕と美月は、お互いが自分の人生を歩むことを決めた。
「凪、本当に愛せる人と生きてね」
美月のその言葉は、心の奥底から湧いてきた真実だった。僕は自然と笑顔になって答えた。
「うん、美月も。好きな人と、うまくいくといいな」
これが、ビジネス上の駒でしかなかった僕と美月が交わした、初めての本心からの会話だった。