次の日。僕は早速、実家へと足を運んだ。窓の外にはちらちらと雪が舞っている。それは僕の決意を応援しているように見えた。
実家に帰る前に、母に「大切な話がある」と連絡を入れておいた。だから、両親は家で待っているはずだ。
重厚な玄関ドアを開けると、家の中はしんと静まり返っていた。空気が冷たくて、僕は思わず身震いをした。
帰宅の挨拶もそこそこに、僕は真っ直ぐ父の書斎へと向かった。扉をノックすると「入れ」という低い声が返ってきて、入室を許可された。
「失礼します」
父の書斎に入ると、暖炉の温もりが僕を包み込んだ。パチパチと火の弾ける音が心地よく響いている。炎が父の横顔を鋭く照らし出していた。母は書斎の片隅のソファに座り、僕の方を見つめている。その瞳に、今まで見たことのない優しさを感じて、僕は少し驚いた。
「何の用だ?」
父は書類から視線を上げることなく、短く言った。
僕は深呼吸する。緊張のあまり喉がカラカラに渇き、舌が口の中でくっつきそうだった。暖かい室内にいるのに、手先が異常に冷たい。僕は拳をギュッと握りしめ、意を決して口を開いた。
「お話があります。朝比奈家との婚約のことで……」
その言葉に、父はようやく書類から顔を上げた。その目は獲物を見定める猛禽類のように鋭い。
僕は唾を飲み込んで、さらに言葉を続けた。
「朝比奈美月さんとの婚約を……破棄したいと思います」
僕がその言葉を言い切った途端、書斎の空気は氷点下まで冷え込んだ。父は眉間に深い皺を刻み、僕を睨みつけてきた。
「何を馬鹿なことを!」
父の怒号が書斎に響き渡った。
――怖い。
だけど、僕は自分の人生を自分で選ぶと決めたのだ。その決意だけは、決して揺らがない。
「志水家の恥になることを! お前は家のために、上手に立ち回っていればいいのだ!」
次々と浴びせられる怒声の嵐に、僕は一瞬身体を縮こませた。
――逃げ出したい……。
でも、もう後戻りはしない。
僕は縮んでいた身体を真っ直ぐに伸ばし、父の目を正面から見据えた。
「僕の人生は、僕のものです」
震える声だったが、父から目を逸らすことはなかった。それこそが、僕の決意の強さを示していた。さらに言葉を重ねる。
「自分の人生を、自分の意志で決めたいんです。あなたが望む息子になるために、僕の人生を犠牲にするつもりはありません」
父は青筋を立て、鬼のような形相で怒りを露わにした。
「黙れ! お前のような親不孝者は俺の息子ではない! 出て行け!」
激怒する父に頭を下げ、退室しようとしたその時、母がソファからゆっくりと立ち上がり、僕と父の間に割って入った。
「あなた。少し落ち着いて。この子も、もう自分で進む道を決める年頃なのよ」
「……!」
母の言葉に、父は言葉を失った。僕も思いがけない母の擁護に、目を丸くした。
「先日の三者懇談で、凪が本当にやりたいことがあるということが分かりました。表向きは家業を継ぐための学部選択でしたが、私には凪の真意が見えていましたよ」
今まで仕事第一で、僕に興味を示すことがなかったと思っていた母の言葉に、僕の目頭が熱くなった。
「今回の婚約破棄も、美月さんと話し合って決めたのでしょう?」
母の問いかけに、僕は静かに頷いた。
「美月さんから連絡をいただいたの。凪を責めないでやってほしいって」
「そんな……」
「あなたたちにはあなたたちの人生があるもの。私たちのように、しがらみに縛られる必要はないわ」
母は僕の顔を見つめて、にっこりと微笑んだ。母の笑顔を見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。
僕は堪えていた涙が一気に溢れた。
書斎から出ると、緊張の糸が切れたように、僕はその場にしゃがみ込んでしまった。
――初めて、自分の言葉で気持ちを伝えた……。
心臓はまだドキドキと早鐘を打っているが、気分は驚くほど晴れやかだった。