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第九章 愛はここにある

 『冬はつとめて』――清少納言が枕草子でそう記した通り、冬の朝には深い趣がある。寮の窓から望む街並みの屋根という屋根に霜が降り、まるで銀糸を撒いたような幻想的な光景が広がっていた。窓辺に立つと、硝子越しにもひんやりとした空気が肌を刺し、はあっと息を吐き出せば、室内にいるにも関わらずそれは薄白く漂った。


 約束の日の朝。僕は昨夜、一睡もできずに夜を明かした。まだ薄闇に包まれた外を眺めると、街灯の灯りがうっすらと雪化粧した地面を淡く照らしている。


 今日が運命の日だ。


 早朝であることを考えると、洗面所へ行くのは他の寮生に迷惑をかけてしまう。部屋で、礼央に伝えるべき言葉を鏡の前で何度も練習した。


「礼央……僕は、君が……」


 違う、そうじゃない。


「礼央、僕が本当に伝えたかったのは……」


 これも違う。


 何度鏡に向かって練習しても、どの言葉もしっくりこない。恋愛など未経験の僕には、自分の気持ちを伝えることが途方もなく高いハードルのように感じられた。


 ――何でも完璧にこなしてきた僕が、こんな単純なことさえできないなんて……。


 椅子にどかりと腰を下ろし、深く溜息をついた。まるで魂が抜けたような心地だった。


 遅い日の出でようやく空が白み始めた頃、僕は重い足取りで寮の食堂へ向かった。眠れぬ夜を過ごした体は鉛のように重く、だるさが全身を支配している。朝食を受け取り、窓際の席に座ると、普段は一緒にならない蓮が向かいの席に座った。


「なぎっち、おはよう!」


 蓮はよく眠れたのか、朝から溌剌としている。


「おはよう。蓮は朝から元気だね……」


「ほら、俺、指定校推薦で大学決まったからさ。毎日ぐっすり眠れてるんだ」


 蓮はにこにこと笑っていたが、僕の顔を見ると心配そうに覗き込んだ。


「なぎっちは顔色悪いな……大丈夫? 勉強のしすぎ?」


 僕はスープを口に運びながら首を振った。


「ううん。今日は……礼央と話をするから、眠れなかっただけ……」


「げっ! なぎっち、鳴海のことで頭がいっぱいなんじゃん!」


 僕は大きく溜息をついて、蓮を横目で見た。


「仕方ないでしょ。僕、今まで恋愛したことないし……だから、すごく緊張してる」


「そっか。今日は運命の日だもんな! 頑張れよ!」


 蓮が僕の肩をぽんと叩いた拍子に、食べていたパンが喉に詰まって激しく咳き込んでしまった。


「うっ……」


「うわっ! 大丈夫か? ほら、水飲め」


 蓮に差し出されたコップの水を一気に飲み干す。


 登校してからも、僕はずっと落ち着かなかった。授業に集中できず、時計ばかりを気にしている。


 ――もう十時か……放課後まで、あと六時間……。


 開口一番、何を言えばいいのか。ずっと考えているのに、まだ考えがまとまらない。両手で頭を抱えてしまった。


「はい、じゃあ次、志水君」


 突然先生から指名され、慌てて顔を上げて黒板を見る。


「えっと……あの……」


 また答えられずに口ごもってしまった。クラスメイトたちがざわめく。


「志水、最近変だよね」


「恋でもしてるんじゃない?」


 その声を聞いて、僕は心の中で呟いた。


 ――そうなんだよ。僕、初めて恋をしているんだ。


 恋をするというのは、こんなにも心を乱すものなのだと初めて知った。気持ちがふわふわと宙に浮いているような、でも同時に重い石が胸に沈んでいるような、不思議な感覚だった。


 一日をどう過ごしたのか記憶が曖昧なまま、最終授業のチャイムが鳴った。この後、ショートホームルームを終えたら、僕は屋上へ行く。


 ――ついに、この時間が来てしまった。


 結局、何度頭の中で反芻してみても、何を言えばいいのか、礼央から許してもらえるのかが分からなかった。改めて実感したのは、僕は恋愛に関してはとてつもなくポンコツだということ。気の利いた言葉など、一切頭に浮かんでこない。


 帰り支度をして、屋上へと向かった。


 初めて礼央の名前を聞いたのは、三年に進級した始業式の日。それから体育祭の運営で関わるようになって、バレーの練習試合を観戦しに行った。文化祭では一緒に校内を回ることもできた。そして、告白されたあの雪の日……。


 礼央との日々が走馬灯のように頭に蘇る。全てが僕にとって掛け替えのない、宝物のような思い出だった。


 今度こそ、本当の気持ちを伝えよう。


 僕は屋上のドアに手をかけ、深く息を吸い込んだ。そして、勢いよく扉を開いた。


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