屋上へは約束の時間よりも早く到着した。日陰にはまだ雪が残っているが、見上げると雲一つない青空が無限に広がっていた。空気は肌を刺すように冷たいが、太陽の暖かな光が僕を優しく包み込んでいる。まるで「心配することはない」と励ましてくれているかのようだった。
僕は校庭を見下ろしながら、ぎゅっと拳を握りしめた。空気が冷たいのに、緊張からか脇の下にじっとりと汗をかいている。
屋上の扉がギィと軋んで開いた。
「……凪」
名前を呼ばれて振り返ると、礼央が立っていた。階段を駆け上がってきたのか、息が弾んでいる。礼央の吐き出す息は白く、頬は寒さで薔薇色に染まっていた。首には紺色のマフラーがふんわりと巻かれていて、その姿は言葉にできないほど愛らしかった。
「来てくれたんだ……」
僕はぎこちない笑みを浮かべながら礼央に言った。握りしめた拳の指先が氷のように冷たい。
「約束したから」
礼央は一歩ずつ、ゆっくりと僕に近づいてきた。けれど僕との距離は、まるで赤の他人と接するほど遠く感じられた。
僕はじっと礼央の瞳を見つめた。礼央も視線を逸らすことなく、僕を見つめ返している。
「あの……」
「その……」
またしても二人同時に口を開き、お互い苦笑いする。
「ごめん、礼央から先に……」
すると礼央は首を振った。
「いや、凪から先に言って。聞きたい」
僕はこくりと頷いて、拳をきつく握りしめた。心臓が緊張のあまり太鼓のように鳴り響いている。俯いて大きく深呼吸をひとつしてから、顔を上げた。
「あの日のこと……謝りたくて」
「えっ?」
僕はその時の自分の行動を思い出し、思わず俯いてしまった。
「ひどいことを言った。礼央の気持ちを……踏みにじるようなことを」
僕は心から「ごめん」と頭を下げた。
その時、礼央は一歩近づいた。二人の距離が少しだけ縮まる。
「俺の方こそ……急にあんなこと言って、凪を困らせた……」
「違うっ!」
僕は勢いよく顔を上げて、礼央の瞳を真っ直ぐ見詰めた。
「困ったんじゃない。嬉しかった……でも、怖かったんだ」
礼央の強張った表情が、ふわりと緩んだ。
「怖かった?」
「うん……本当のことを、全部礼央に話したい」
僕の言葉に、礼央は真剣な表情で頷いた。
僕たちの間を、冬の冷たい風が吹き抜けていく。けれど太陽の光が暖かく、僕たちを慈しむように照らしてくれていた。
*
僕と礼央はフェンスの傍らに並んで立った。校庭からは部活動に励む生徒たちの声が風に乗って響いてくる。遠くに見える街並みが、夕陽の光でオレンジ色に染まり始めていた。
僕はゆっくりと口を開いた。
「僕は今まで、本当の自分を隠して生きてきた」
礼央は、静かに話し始めた僕の横顔をじっと見つめていた。僕は遠くの街並みに視線を向けたまま続けた。
「生徒会長として、志水グループの跡取りとして……みんなが期待する『完璧な志水凪』を演じ続けてきた」
礼央は口を挟むことなく、ただ静かに僕の言葉に耳を傾けてくれている。
「でも、礼央といる時は違った」
僕の声が、ほんの少し震える。フェンスを握る手に、無意識のうちに力がこもった。
「初めて、張り付けている仮面を外すことができた。本当の自分でいることができたんだ」
僕は大きく深呼吸をした。胸の奥で、何かが静かに燃え上がっているのを感じる。
「礼央が言ってくれたんだ。『自分の人生だから、自分で決めていい』って」
僕は礼央に向き直った。彼の瞳の奥が、まるで湖面のように揺れている。
「それで気づいたんだ。僕が人生でずっと探していたのは……」
僕は息を呑んだ。緊張のあまり、言葉が喉の奥で詰まりそうになる。
けれど、もう逃げないと決めたから。最後まで、僕の言葉で、礼央に伝える。
「本当の僕を……仮面をつけていない、ありのままの僕を見てくれる人だった」
気づけば僕の頬を、温かい涙が伝っていた。
「その人は……君だったんだよ、礼央」
僕は俯くことなく、まっすぐに礼央を見つめて言った。初めて僕という人間を見てくれた、愛おしい人。心から愛している人。
礼央は僕の言葉を聞くと、目を真っ赤にして、ついには大粒の涙を流した。
「俺も……俺も、凪じゃなきゃダメだった」
礼央の声が感情で震えている。
「紗菜と別れたのは、凪のことしか考えられなくなったから。凪といると、俺も本当の自分でいられる。こんなこと、生まれて初めてなんだ……」
礼央は僕の両手を、彼の温かな手で包み込んだ。
温かい。
冷たい空気で凍えそうになっていた指先が、一瞬で熱を帯びるのが分かった。
「好きだ、凪」
「僕も……礼央が好きだよ」
やっと言えた。心の底から、真実の言葉を。君が好きだということを。