卒業式当日。やわらかな春の日差しが体育館の窓から差し込み、会場全体を温かく包んでいる。校庭の桜の蕾はまだ固いけれど、日に日に膨らみを増していて、もうすぐ開花の時を迎えそうだった。
保護者席には多くの家族が座って、式の開始を心待ちにしている。その中に、僕の母・絢子の姿も見えた。しかし、父の姿はそこにはない。それでも構わなかった。僕は自分の選んだ道に、もう迷いはないのだから。
式は一組から順に入場することになっている。開始間近になった時、スマートフォンが震えた。画面を見ると、礼央からのメッセージだった。
『もうすぐだね。緊張してる?』
僕はすぐに返信した。
『少しだけ。でも大丈夫。楽しんでくるよ』
メッセージを送った直後、式が始まった。滞りなく式は進行し、在校生による送辞が読み上げられる。
そして、ついに僕の番がやってきた。
「答辞。卒業生代表、志水凪」
「はい」
僕は透き通った声で返事をして、登壇した。壇上で一礼し、会場をゆっくりと見回してから、大切に準備した原稿を広げる。
「私たちは今日、新たな出発点に立っています」
会場が静寂に包まれる。
「この三年間で学んだ最も大切なことは、自分の人生は自分自身で選ぶものだということです」
僕の声が体育館に響く。保護者席の母が、ハンカチで目元を押さえているのが見えた。
「時には困難な道を選ぶことになったとしても、本当の自分として生きることの価値を、私たちは学びました」
言葉の一つ一つに、僕のこれまでの想いを込める。家族との葛藤、自分自身との戦い、そして愛する人との出会い。すべてが今の僕を作り上げてくれた。
「未来に向かって歩き続けるために必要なのは、自分を信じる勇気と、大切な人を愛する心です」
会場の片隅で、礼央が静かに微笑んでいるのが見えた。
「私たちは今日、胸を張って新しい道へ踏み出します。自分らしく、そして愛する人と共に」
答辞を読み終えて礼をした時、会場からは温かい拍手が沸き起こった。その音に包まれながら、僕は確信していた。これからの人生も、きっと素晴らしいものになると。
*
卒業式が終わり、最後のホームルームが行われた。教室では思い思いに写真を撮ったり、語り合ったりする姿があちこちに見られる。僕は教室を出て、一組へ向かった。
廊下の向こうから、礼央がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「礼央……」
「俺たち、以心伝心だな」
そう言って、彼はいつものように朗らかに笑った。
「ねえ、校内を一緒に回らない?」
「おお! いいね。思い出巡りってやつか?」
僕たちは肩を並べて歩き出した。まず向かったのは、体育祭の実行委員会で使った会議室だった。
「最初に出会ったのは、この部屋だったね」
「そうそう。体育祭の実行委員会だった」
当時座っていた席に座ってみる。あの頃は、まさか自分たちが恋人になるなんて想像もしていなかった。
「でも俺、あの時から凪のことすごく綺麗な人だなって思ってたんだ」
「なんだよ、それ……」
僕は顔を赤らめながら、彼の肩を軽く叩いた。
次に向かったのは生徒会室だった。僕が生徒会長として過ごした場所だ。
「凪はいつもここで書類整理してたな」
「ははは、そうだったね」
僕は生徒会室を懐かしそうに見回した。
「でも、生徒会長になって本当によかったと思ってる。そのおかげで礼央と出会えたんだから」
礼央を見つめてにっこりと笑うと、彼は照れたように首の後ろを掻いた。
続いて体育館へ向かった。ちょうど卒業式の後片付けを在校生たちが行っている最中だった。
「礼央がバレーボールをしてる時、本当にかっこよかったよ」
「凪はこっそり見学に来てたよな」
「あ、あれは思い出さないで!」
僕はその時のことを思い出して顔を真っ赤にした。
「でも俺、あの時凪が見に来てくれて、すごく嬉しかったんだ」
そう言いながら、礼央は僕の頬をそっと撫でた。その優しい仕草に、心臓が早鐘を打つ。
その後、図書館へ足を向けた。ここは最近まで受験勉強で使っていた場所で、たくさんの思い出が詰まっている。
「最初に一緒に勉強したのは、礼央の推薦が決まったばかりの頃だったね」
「確か、そうだった」
「僕、あの時すごく嬉しかったんだ。好きな人と一緒に勉強できて」
僕は窓際のいつもの席にゆっくりと近づいた。外では卒業生と在校生が別れの挨拶を交わしている声が聞こえる。窓から差し込む光は温かく、春の訪れを告げていた。
最後に、屋上へ向かった。ここは僕たちにとって最も思い出深い場所だ。告白された場所でもあり、一度は拒絶してしまった場所でもあり、そして僕が本当の気持ちを伝えた場所でもある。
扉を開けると、やわらかな春風が頬を撫でていく。
「ここは本当に思い出深い場所だね」
「告白した場所だからな」
「お互いにね」
ふふっと笑いながら、僕は礼央の肩に頭を預けた。彼は優しく僕の髪を撫でてくれる。
「合格発表、もうすぐだね」
「そうだな。どんな結果だったとしても、一緒にいよう」
「うん。同じ大学に行けなくても、大丈夫」
「俺は、凪がそばにいてくれれば、それだけで十分だから……」
僕たちは新たな決意を胸に、屋上を後にした。
最後は校門へ向かう道を歩いた。ここには文化祭の時にたくさんの模擬店が並んでいた場所だ。あの時の楽しい思い出が蘇ってくる。
「文化祭が一番楽しかったかな」
「俺もそう思う。三年間で一番楽しかった」
お互いを見つめ合って、微笑み合う。校門脇の大きな桜の木の下にさしかかった時、礼央が急に立ち止まった。
「礼央……?」
「凪……」
礼央の顔がゆっくりと近づいてくる。夕日に照らされた彼の瞳が、まっすぐに僕を見つめている。
――キス、するの?
そう思った瞬間、僕は両手を小さく握りしめて目を閉じた。しかし、唇には何の感触もなく、やがて礼央の気配が遠のいた。そっと目を開けると、彼が真っ赤な顔で頬を掻いている。
「ごめん。なんか……緊張して……」
「ふふ、大丈夫だよ。これからずっと一緒なんだから」
僕は彼の手をそっと取った。温かな手のひらを通して、互いの想いが伝わってくる。
桜並木の下を、僕たちは手を繋いで歩いていく。これから待っている新しい生活への期待と、少しの不安を胸に抱きながら。でも、大切な人と一緒なら、きっと乗り越えられる。
夕日が僕たちの影を長く地面に落としていた。それはまるで、これから歩んでいく長い人生の道のりを表しているようだった。