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第3章

 一体何が起こっているのか……途方に暮れたまま帰り道を歩いていると、顔なじみのおじさんとすれ違った。いつも農具を肩に担いでいて、子どもとすれ違うと挨拶してくれる気さくなおじさんだ。

「おう、覚か。気を付けて帰りやー」

「あ、はい」

 突然話しかけられて当たり前のように返事をしたが、数歩歩いて勢いよく振り返ると、そこには誰も居ない。

 いや、おじさんの居た場所から影だけがゆったりと道路の上を滑るように移動していったかと思うと、角を曲がった所で煙のように消えてしまった。

「っ!」

 それに気づいた途端、覚は息が切れるまで家まで全力疾走し、家に着くなり今度は祖母の部屋に駆け込んでしがみつく。

「ば、ば、ばあちゃん! 農具のおっさんの、おっさんの幽霊見た!」

 あのおじさんは去年の暮れに亡くなったはずだ。確かシンキンコーソクとか言う心臓の病気だったと皆が話していた気がする。

 そんな覚に祖母は眉根を寄せて首を傾げた。

「ゆうれい? なんや、それ。ゲームか」

「……え?」

 祖母の一言に覚は固まり、部屋を見渡してまた違和感を覚える。その正体はすぐに気付いた。仏壇だ。

 毎朝、祖母はきっかり5時に近所迷惑だろ、と思うほどの大音量で仏壇に向かってお経をあげるのだが、その仏壇が無い。

「ばあちゃん……じいちゃんの仏壇は?」

 ありえない。祖母が仏壇を処分するなど、絶対にありえない。

 ドキドキと速くなる心臓を抑え込むように、覚は震える声で尋ねた。

「はあ? ぶつだん? 何を言うてるんや、さっきから。ぶつだんって何やのんな」

「じいちゃん祀っとった仏壇やんか! ボケたんか!?」

「誰がボケたや! アホ言うな! じいさんやったらそこに『在る』やろ!?」

 言われて祖母が指さした先を見て覚は短く叫んだ。

 そこには、祖父が確かに『在った』のだ。青白く透けた身体で、空虚な目でこちらをじっと何か言いたげに見つめている。その目はまるであの祠の中を覗いた時のように胸をザワつかせた。

 祖父は死んだ。覚が小学校に上がってすぐの頃に。

 またあの音の無い音が聞こえた。これは歪の音だ。覚と世界の認識がズレ始めた、何かに近づく音——。

 まだ瞼の裏に虚ろな祖父の顔が焼き付いているが、覚はそれでも部屋に戻りランドセルを下ろし、必死になっていつも通りの日常に戻ろうとしていた。

 いつもなら絶対に遊びに行くけれど、今日はそれも止めて机に向かうも、電気の所にかけてあったはずのお守りが無い。

 その事実から視線を逸らすように鉛筆を手に取ると、そこに突然誰か知らない人の顔が浮かび上がり、小さな悲鳴を上げて鉛筆を放りだした。

 ノートを開くのも怖い。何かを勝手に綴りだすかもしれない。部屋の中にさっきからしているこの気配はなんだ。

 聞こえるはずのない囁き声や、見えるはずのない死んだはずの人達。

 ところが自然の音だけが不自然に聞こえない。虫の声、風の音、それらが一切耳に入ってこないのだ。

 こうして、少しずつ少しずつ知らない世界は何かに侵食されはじめていた。

 生まれたばかりの赤ちゃんに、亡くなった親戚の顔が浮かんだの! と嬉しそうに話すお向かいの若い母親。

 公園の噴水に次から次へと浮かび上がる悲壮な顔。その顔の中に知り合いを見つけて気さくに挨拶をするおばさん。

 ベンチにはただ『在る』だけのお年寄りもいる。そこに何の躊躇いもなく座るカップル。

 幽霊という存在をこんなにも身近に感じる事になる日が来るなどとは、思っても居なかった。

 けれどこんな出来事はまだ序章にしか過ぎなかったのだ。

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