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第9話

羽瀬川朱音が病院に入院していたのは、わずか三日間だった。


ちょうど退院したその朝、彼女のスマホが鳴った。


――ドイツ永住権、正式に承認。

この数週間で、初めて心の底から「よかった」と思えた瞬間だった。


大使館の前。

雲ひとつない青空に、眩しい陽射しが目を刺す。


思わず目元に手をかざすと、薬指にかすかに残る指輪の跡が視界に映った。

――もう、終わりにしよう。


その足で弁護士事務所へ向かい、離婚届を作成。

静かに、署名を終える。


そして最後に、御門梨花に一本の電話をかけた。

「――少し、会いましょう」



カフェのテラス席。


梨花は不信感をあらわにして朱音を睨んでいた。

「……何のつもり? はっきり言っとくけど、私に何かしたら――お兄ちゃん帰ってきたとき、絶対タダじゃ済まないからね」


朱音は何も言わず、バッグから指輪を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。

「つけてみて」


梨花は訝しげに見つめながらも、なぜかその言葉に抗えず、無意識に指輪を薬指にはめた。


――ぴったりだった。


梨花の表情が固まる。


「……どういうこと?」


朱音は静かに微笑む。

「ずっと気になってたんでしょ?

なんでお兄ちゃんが、急にあなたを避けるようになったのか」


梨花の指が、かすかに震え始める。


「本当の理由を、教えてあげる」

朱音は、彼女の目を真っ直ぐに見つめて、一語一語をはっきりと放った。


「……彼があなたを避けたのは、結婚したからでも、嫌いになったからでもない。

 ――あなたを“好きになってしまったから”よ」


梨花の瞳が大きく揺れる。


「彼の禅房には、君そっくりのラブドールが置いてある。 夜な夜な、それに欲望をぶつけていたわ。

 あなたがうちに泊まった夜――ソファで眠っていた君の唇に、三分間、彼はキスしていた。

 その指輪も、君の指のサイズで特注されたもの。

 ……彼が本当に結婚したかった相手は、最初から――あなただったのよ」


その場に流れる空気が、一瞬で変わった。


驚き、羞恥、戸惑い、喜び……

様々な感情が、彼女の目の奥でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。


朱音はそれを見て、ふと笑った。


(――バッカみたい)


御門宗一は、自分の欲を否定し、仏の名のもとにすべてを抑え込んだ。


でも――彼は知らなかった。

梨花もまた、ずっと彼を好きだったことを。


なんて滑稽なすれ違い。


朱音はゆっくりと立ち上がり、バッグから離婚届を取り出してテーブルに置いた。


「彼が帰ってきたら、これを渡して。

 ――そして、お幸せに」


そのまま背を向け、歩き出そうとした瞬間。

背中に、梨花のかすれた声が届く。


「羽瀬川朱音、あんた……どこに行くつもり?」


朱音は振り返らずに答えた。


「――離婚した女が、どこへ行こうが関係ないでしょ。

 今後、あんたたち兄妹が何しようと、私には一切関係ない」


そして、一歩だけ足を踏み出したそのとき――


「それと――御門梨花。

 今度また私に手を出したら……次は百倍にして返すわ」



空港。


羽瀬川朱音はスーツケースを引きながら、搭乗ゲートへと向かっていた。

搭乗直前、スマホが震える。


――御門宗一からのメッセージだった。


画像と、簡単な一言が添えられている。

【着いた。君へのプレゼント】


画像を開くと、映っていたのは――

画像には、包装もされていない、安っぽいブレスレット。


朱音は、静かに笑った。

――わかってた。


そのブレスレットはおまけに過ぎないもの。


今回の渡航の本当の目的は――

梨花のために落札するネックレスだったことを。


自分なんて、最初から“ついで”でしかなかった。


でも――もう悲しくない。


彼を愛していない今、

彼に自分を傷つける権利なんて、もうどこにも存在しない。


朱音はチケットを掲げ、搭乗口へ向けて歩き出す。


ちょうどそのとき――

遠く、VIP通路から姿を現したのは、黒のロングコートに身を包んだ宗一だった。


冷たい顔、整った横顔。


だが朱音は声をかけなかった。

ただ静かに、その背を見送った。


(御門宗一、離婚おめでとう。

 あなたに“自由”を。

 私に“解放”を。)


彼女はスマホを開き、宗一に関するすべての連絡先を無言でブロックする。


そして、背筋を伸ばし、振り向かずに歩き出した。

もう二度と、彼と交わることのない未来へ。


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