羽瀬川朱音が病院に入院していたのは、わずか三日間だった。
ちょうど退院したその朝、彼女のスマホが鳴った。
――ドイツ永住権、正式に承認。
この数週間で、初めて心の底から「よかった」と思えた瞬間だった。
大使館の前。
雲ひとつない青空に、眩しい陽射しが目を刺す。
思わず目元に手をかざすと、薬指にかすかに残る指輪の跡が視界に映った。
――もう、終わりにしよう。
その足で弁護士事務所へ向かい、離婚届を作成。
静かに、署名を終える。
そして最後に、御門梨花に一本の電話をかけた。
「――少し、会いましょう」
*
カフェのテラス席。
梨花は不信感をあらわにして朱音を睨んでいた。
「……何のつもり? はっきり言っとくけど、私に何かしたら――お兄ちゃん帰ってきたとき、絶対タダじゃ済まないからね」
朱音は何も言わず、バッグから指輪を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
「つけてみて」
梨花は訝しげに見つめながらも、なぜかその言葉に抗えず、無意識に指輪を薬指にはめた。
――ぴったりだった。
梨花の表情が固まる。
「……どういうこと?」
朱音は静かに微笑む。
「ずっと気になってたんでしょ?
なんでお兄ちゃんが、急にあなたを避けるようになったのか」
梨花の指が、かすかに震え始める。
「本当の理由を、教えてあげる」
朱音は、彼女の目を真っ直ぐに見つめて、一語一語をはっきりと放った。
「……彼があなたを避けたのは、結婚したからでも、嫌いになったからでもない。
――あなたを“好きになってしまったから”よ」
梨花の瞳が大きく揺れる。
「彼の禅房には、君そっくりのラブドールが置いてある。 夜な夜な、それに欲望をぶつけていたわ。
あなたがうちに泊まった夜――ソファで眠っていた君の唇に、三分間、彼はキスしていた。
その指輪も、君の指のサイズで特注されたもの。
……彼が本当に結婚したかった相手は、最初から――あなただったのよ」
その場に流れる空気が、一瞬で変わった。
驚き、羞恥、戸惑い、喜び……
様々な感情が、彼女の目の奥でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
朱音はそれを見て、ふと笑った。
(――バッカみたい)
御門宗一は、自分の欲を否定し、仏の名のもとにすべてを抑え込んだ。
でも――彼は知らなかった。
梨花もまた、ずっと彼を好きだったことを。
なんて滑稽なすれ違い。
朱音はゆっくりと立ち上がり、バッグから離婚届を取り出してテーブルに置いた。
「彼が帰ってきたら、これを渡して。
――そして、お幸せに」
そのまま背を向け、歩き出そうとした瞬間。
背中に、梨花のかすれた声が届く。
「羽瀬川朱音、あんた……どこに行くつもり?」
朱音は振り返らずに答えた。
「――離婚した女が、どこへ行こうが関係ないでしょ。
今後、あんたたち兄妹が何しようと、私には一切関係ない」
そして、一歩だけ足を踏み出したそのとき――
「それと――御門梨花。
今度また私に手を出したら……次は百倍にして返すわ」
*
空港。
羽瀬川朱音はスーツケースを引きながら、搭乗ゲートへと向かっていた。
搭乗直前、スマホが震える。
――御門宗一からのメッセージだった。
画像と、簡単な一言が添えられている。
【着いた。君へのプレゼント】
画像を開くと、映っていたのは――
画像には、包装もされていない、安っぽいブレスレット。
朱音は、静かに笑った。
――わかってた。
そのブレスレットはおまけに過ぎないもの。
今回の渡航の本当の目的は――
梨花のために落札するネックレスだったことを。
自分なんて、最初から“ついで”でしかなかった。
でも――もう悲しくない。
彼を愛していない今、
彼に自分を傷つける権利なんて、もうどこにも存在しない。
朱音はチケットを掲げ、搭乗口へ向けて歩き出す。
ちょうどそのとき――
遠く、VIP通路から姿を現したのは、黒のロングコートに身を包んだ宗一だった。
冷たい顔、整った横顔。
だが朱音は声をかけなかった。
ただ静かに、その背を見送った。
(御門宗一、離婚おめでとう。
あなたに“自由”を。
私に“解放”を。)
彼女はスマホを開き、宗一に関するすべての連絡先を無言でブロックする。
そして、背筋を伸ばし、振り向かずに歩き出した。
もう二度と、彼と交わることのない未来へ。