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第10話

御門宗一は無言のまま後部座席に乗り込み、スマホの画面を一瞬だけ点灯させた。

羽瀬川朱音からの返信は――やはり、なかった。


画面の最後には、彼が送ったままのメッセージが残っている。


――【着いた。君へのプレゼント】


けれど、朱音は何も返してこなかった。


不自然だ。


あの朱音なら、以前はどんな些細なメッセージにも即座に返事を寄越し、可愛らしいスタンプまでつけていたのに。


運転席の執事がバックミラー越しにちらりと視線を投げた。

少しの間をおいて、慎重に口を開く。


「……宗一様。まずは梨花様のところへ向かわれますか? それとも、朱音様のもとへ?」


宗一が微かに眉を寄せ、言葉を選ぼうとした、その瞬間――

執事が重ねるように言った。


「やはり……先にお戻りになって、朱音様と会われては? 朱音様、おそらくお待ちかと」


その言い回しに、宗一は不機嫌そうな視線を向ける。


「……いつから、そんな差し出がましい口を利くようになった?」


だが執事は引かなかった。


「……宗一様が梨花様を想っていらっしゃるのは、皆、承知しています。ですが――

 朱音様こそが、正式な奥様です。

 この六年間、彼女がどれほど宗一様に尽くしてこられたか……本当に、お気づきではないのですか?」


その言葉に、御門宗一の表情がわずかに凍った。


執事は、もう腹を括った様子で言葉を続ける。


「……宗一様は、朱音様がどれだけ変わったか、ご存じでしょうか?

 あの方はかつて、夜の街を好み、カクテル片手に笑いながら踊る、陽気で華やかな女性でした。

 ですが結婚後は――そのすべてを捨てたのです」


ひと呼吸置き、執事は静かに続けた。


「朱音様は、宗一様に合わせようとして、肉も口にせず、酒も断ち、読経まで始められました。

 派手な服をすべて処分し、いつも淡い色のワンピースを選んで――

 ただ宗一様に“相応しい妻”になろうとして…。


 宗一様が禅房にこもるたび、朱音様は扉の前で何時間も、静かに待ち続けておられました。

 一度など、三日間修行された際には、彼女もまた三日間、黙ってその場に座り続け……ついに倒れてしまったのです。

 けれど、目を覚ました彼女が最初に言ったのは――

 “宗一さんは……もう出てきましたか? すごく会いたかった”――それだけでした」


宗一は目を閉じ、黙って聞いていた。


「ご出張の前には、宗一様のためにきちんと荷造りをして、靴下ひとつまで丁寧にたたんで。

 帰ってくれば、誰よりも早く玄関に走ってきて、“疲れてない? お腹すいてない?”って。


 宗一様が香水が苦手と仰ったときも、朱音様は迷わず、すべて処分されました。

 お熱を出された夜には、真夜中に山道を走り、薬草を採りに行って……崖から転落しかけたこともありました。


 宗一様……朱音様は、自らをすり減らしてまで、宗一様を愛しておられたのです」


一息置いて、執事はかすかに笑った。


「……私が朱音様に初めてお会いしたのは、クラブの中央でした。

 真紅のドレスを纏い、楽しげに笑いながら、ゲームで勝てば誇らしげに眉をあげ、負けても声を立てて笑って。


 まるで――太陽のような方でした。

 けれど今は、その輝きも……もうほとんど消えかけています」


宗一は、ふと目を開けた。

脳裏に浮かんだのは、初めて朱音に出会った日の記憶。


――二十歳の彼女。

赤いドレスに身を包み、まばゆい照明の下で笑っていた。


「あなたが御門宗一? お寺育ちって聞いたけど、本当に無欲無求なの?」

星を散りばめたような瞳で、彼をからかうように微笑んでいた。


――あれほど、眩しかった彼女が。


今や地味な服に身を包み、ソファの隅で本を読みながら、そっと彼の顔色を伺っている。

彼のために、自分を偽って生きてきた。


「宗一様……」

執事の声が、思考を現実へ引き戻す。


「朱音様は、宗一様を……愛しすぎたのです。

 ですが――もしその愛に疲れて、ある日、自分を取り戻すことを選ばれたなら。

 そのとき、宗一様は……それでも平然としていられますか?」


宗一の呼吸が、一瞬止まった。


――考えたこともなかった。


羽瀬川朱音は、いつまでもそこにいる存在だと思っていた。


彼女を選んで結婚したも、ただ梨花への歪んだ欲望を抑え、自分を「普通の人間」に見せかけるため。


彼女の想いなど、考えたことは一度もなかった。

彼女が去ることなど、想像すらしなかった。


だが今――

執事の言葉は鋭く胸を裂き、避け続けてきた問いを突きつける。


もし本当に、彼女がいなくなったら。

――自分は、耐えられるのか?


家の中にもう、あの手この手で彼を誘惑し、振り払われてもなお笑っていた朱音の姿がなかったら。


うるさくて、しつこくて、鬱陶しくて――

でも確かに、自分を“人間”に引き戻してくれていたあの声が、もう聞こえなかったら――


――御門宗一の胸に、言いようのない焦燥が広がっていく。


しばしの沈黙ののち、彼はぽつりと呟いた。

「……彼女は、もう退院したのか?」


執事は驚いたように目を見開き、思わず声を弾ませた。。

「はい!今朝、病院から連絡がありました。経過も良好とのことです」


宗一は、静かにうなずいた。

「……なら、まず家へ帰ろう」


安堵の息をつき、執事はすぐさまハンドルを切った。


車が帰路につくなか、宗一の脳裏には、朱音の姿が次々と浮かぶ。


露出の多いネグリジェで転び、胸に飛び込んできた朱音。

風呂場に忍び込み、タオル一枚で追い出されたあと、「次はもっと上手くやるから!」と笑っていた朱音。

読経の最中に膝へそっと座ってきて、怒られてもニコニコしていた朱音。



もし、もういないのだとしたら…。


――胸が、締めつけられる。


車は静かに寺の敷地へと入っていく。

御門宗一はドアを開け、大きな足取りで、家の中へと向かった。


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