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第11話

御門宗一が玄関の扉を開けると、迎えたのは冷え切った静寂だった。

リビングには誰の気配もない。


朱音の愛用していたスリッパは見当たらず、いつも彼女が丸くなっていたソファの上には、毛布がきちんと畳まれて置かれていた。

まるで、最初から誰も使っていなかったかのように。


宗一は眉をひそめたまま、黙って階段を上がる。

聞き慣れた足音も、笑いながら「おかえりなさい〜」と飛びついてくる声もない。

ふてくされてドアを乱暴に閉める音さえしない。


胸の奥に、名状しがたいざわめきを抱きながら、彼は寝室の扉を開けた。


――クローゼットの中、彼女の服は一枚残らず消えていた。

――ドレッサーの上も空っぽで、いつも整えていた化粧品は影も形もない。

――枕元にあった、彼女がよく読んでいた本も持ち去られていた。


――部屋全体が、まるで最初から誰も住んでいなかったように整然としていた。


後ろから追いついきた執事が、遠慮がちに声をかけた。

「……宗一様。朱音様、お出かけ中でしょうか?」


宗一は表情を変えず、冷静に答えた。

「……家出だ」


スマホを取り出し、朱音の番号を押す。

しかし、返ってきたのは機械的なアナウンス。


『おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため――』


もう一度かけても、結果は同じだった。


彼は無言でメッセージを送るが、画面に「既読」はつかない。

――ブロックされていた。


宗一の目がすっと細められ、怒りとも戸惑いともつかない色が浮かんだ。

だが表情は変えず、淡々と執事に指示する。


「……どうせまた、片瀬夏実のところだろ。彼女に連絡して、朱音に伝えさせろ。“子供みたいに拗ねてないで、いい加減帰って来い”と」


執事は少し戸惑いながら訊ねる。

「宗一様……もし朱音様が戻らないと仰ったら?」


宗一は鼻で笑った。

「そんなわけあるか」


その声には、揺るぎない自信が滲んでいた。


「せいぜい三日。いつものことだ」


彼女は怒ったらすぐ家出する。


だが――

最終的には、絶対目を潤ませて戻ってきて、

「今回は本気で怒ってるんだからね?」って言いながら、袖を引っ張ってくる。


彼は適当な言葉でなだめるだけで、彼女はすぐ笑顔を取り戻し、また犬のようにじゃれついてくる。


執事はその様子を見ながら、ふと胸中でつぶやく。

――愛される側は、いつだって強気だ。


けれどもし、御門宗一が、朱音の“偏愛”から外れたとしたら?


まさにその時、玄関が勢いよく開かれた。


ヒールの音を響かせながら、御門梨花が勝ち誇ったように現れる。

「連絡なんてしなくていいわ。羽瀬川朱音はもう帰ってこないから」


宗一の表情が曇る。


「……どういうことだ」

「もう離婚したんだって」


梨花は指にはめた指輪を得意げに見せつけながら笑った。


「これ、羽瀬川朱音からもらったの。 彼女ね、『これからは自分の人生を歩む』って、そう言ってたわ」


宗一の胸に、何か重いものが落ちる感覚。

「――詳しく話せ」


梨花は得意げに話し出した。

朱音に呼び出されたこと、禅房のドールのこと、あの夜のキスのこと――


そして、別れ際に朱音が言った最後の言葉。

『お幸せに』


語り終えると、梨花は彼の胸に抱きつき、甘えるように言った。

「お兄ちゃん、まさかそんな気持ちを隠してたなんて……でも、うれしい。実は私も……ずっと好きだったの」


耳元に顔を寄せ、そっと囁く。

「私たち、血が繋がってないんだもの。もう、いいよね?」


宗一の体が固まる。

頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。


――朱音に、すべて知られていた。


彼が梨花を愛していたことも。

朱音との結婚が、ただの自己抑制の手段だったことも。

ラブドールのことすらも。


そして今――

朱音は、本当にいなくなってしまった。


宗一は震える声で訊ねた。

「朱音は……どこに行くって言ってたか?」


その一言で、梨花の顔が一変する。

「……なにそれ」


彼女は宗一を突き飛ばし、怒りをたぎらせた瞳で睨みつける。


「あの女のことなんて、気にもしてなかったじゃない!

 まさか……好きになったなんて言わないよね?!」


宗一は言葉に詰まり、黙って眉をひそめる。


次の瞬間、梨花は二階へと駆け上がり、窓辺に身を乗り出した。


「お兄ちゃん! 今ここで答えて!

 羽瀬川朱音が好きなら、私、飛び降りるから!」

「梨花! やめろッ!」


「一緒にいてくれるって、言ってよ……! 私のこと、選んでよぉぉ!!」


宗一は拳を握り締め、顔を歪めながら、絞り出すように答えた。

「……わかった。全部君の言うとおりにする」


梨花は顔を輝かせ、階段を駆け降りてきて彼の胸に飛び込む。

「やったぁ! やっぱりお兄ちゃんは、私のものだねっ!」


宗一は彼女を抱きしめた。

だが、その腕には何の力もこもっていなかった。


執事は傍で一部始終を見ていたが、恐る恐る訊ねる。

「……宗一様。それで……朱音様のほうは、どうされますか?」


梨花が振り返り、鬼のような形相で怒鳴った。


「なに言ってんの!? あの女はただの道具だったんでしょ!

 もう終わったの! 連絡なんてさせないからね!

 あなた、クビになりたくなかったら黙ってなさい!」


執事は視線をそらし、宗一の顔を見る。


宗一は、ゆっくりと目を閉じ――

無言で、執事に退出を命じた。


執事は小さくうなずき、玄関へと歩き出す。

――そして、最後の一言を飲み込んだ。


(――宗一様、どうか……後悔しませんように)


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