御門宗一が玄関の扉を開けると、迎えたのは冷え切った静寂だった。
リビングには誰の気配もない。
朱音の愛用していたスリッパは見当たらず、いつも彼女が丸くなっていたソファの上には、毛布がきちんと畳まれて置かれていた。
まるで、最初から誰も使っていなかったかのように。
宗一は眉をひそめたまま、黙って階段を上がる。
聞き慣れた足音も、笑いながら「おかえりなさい〜」と飛びついてくる声もない。
ふてくされてドアを乱暴に閉める音さえしない。
胸の奥に、名状しがたいざわめきを抱きながら、彼は寝室の扉を開けた。
――クローゼットの中、彼女の服は一枚残らず消えていた。
――ドレッサーの上も空っぽで、いつも整えていた化粧品は影も形もない。
――枕元にあった、彼女がよく読んでいた本も持ち去られていた。
――部屋全体が、まるで最初から誰も住んでいなかったように整然としていた。
後ろから追いついきた執事が、遠慮がちに声をかけた。
「……宗一様。朱音様、お出かけ中でしょうか?」
宗一は表情を変えず、冷静に答えた。
「……家出だ」
スマホを取り出し、朱音の番号を押す。
しかし、返ってきたのは機械的なアナウンス。
『おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため――』
もう一度かけても、結果は同じだった。
彼は無言でメッセージを送るが、画面に「既読」はつかない。
――ブロックされていた。
宗一の目がすっと細められ、怒りとも戸惑いともつかない色が浮かんだ。
だが表情は変えず、淡々と執事に指示する。
「……どうせまた、片瀬夏実のところだろ。彼女に連絡して、朱音に伝えさせろ。“子供みたいに拗ねてないで、いい加減帰って来い”と」
執事は少し戸惑いながら訊ねる。
「宗一様……もし朱音様が戻らないと仰ったら?」
宗一は鼻で笑った。
「そんなわけあるか」
その声には、揺るぎない自信が滲んでいた。
「せいぜい三日。いつものことだ」
彼女は怒ったらすぐ家出する。
だが――
最終的には、絶対目を潤ませて戻ってきて、
「今回は本気で怒ってるんだからね?」って言いながら、袖を引っ張ってくる。
彼は適当な言葉でなだめるだけで、彼女はすぐ笑顔を取り戻し、また犬のようにじゃれついてくる。
執事はその様子を見ながら、ふと胸中でつぶやく。
――愛される側は、いつだって強気だ。
けれどもし、御門宗一が、朱音の“偏愛”から外れたとしたら?
まさにその時、玄関が勢いよく開かれた。
ヒールの音を響かせながら、御門梨花が勝ち誇ったように現れる。
「連絡なんてしなくていいわ。羽瀬川朱音はもう帰ってこないから」
宗一の表情が曇る。
「……どういうことだ」
「もう離婚したんだって」
梨花は指にはめた指輪を得意げに見せつけながら笑った。
「これ、羽瀬川朱音からもらったの。 彼女ね、『これからは自分の人生を歩む』って、そう言ってたわ」
宗一の胸に、何か重いものが落ちる感覚。
「――詳しく話せ」
梨花は得意げに話し出した。
朱音に呼び出されたこと、禅房のドールのこと、あの夜のキスのこと――
そして、別れ際に朱音が言った最後の言葉。
『お幸せに』
語り終えると、梨花は彼の胸に抱きつき、甘えるように言った。
「お兄ちゃん、まさかそんな気持ちを隠してたなんて……でも、うれしい。実は私も……ずっと好きだったの」
耳元に顔を寄せ、そっと囁く。
「私たち、血が繋がってないんだもの。もう、いいよね?」
宗一の体が固まる。
頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。
――朱音に、すべて知られていた。
彼が梨花を愛していたことも。
朱音との結婚が、ただの自己抑制の手段だったことも。
ラブドールのことすらも。
そして今――
朱音は、本当にいなくなってしまった。
宗一は震える声で訊ねた。
「朱音は……どこに行くって言ってたか?」
その一言で、梨花の顔が一変する。
「……なにそれ」
彼女は宗一を突き飛ばし、怒りをたぎらせた瞳で睨みつける。
「あの女のことなんて、気にもしてなかったじゃない!
まさか……好きになったなんて言わないよね?!」
宗一は言葉に詰まり、黙って眉をひそめる。
次の瞬間、梨花は二階へと駆け上がり、窓辺に身を乗り出した。
「お兄ちゃん! 今ここで答えて!
羽瀬川朱音が好きなら、私、飛び降りるから!」
「梨花! やめろッ!」
「一緒にいてくれるって、言ってよ……! 私のこと、選んでよぉぉ!!」
宗一は拳を握り締め、顔を歪めながら、絞り出すように答えた。
「……わかった。全部君の言うとおりにする」
梨花は顔を輝かせ、階段を駆け降りてきて彼の胸に飛び込む。
「やったぁ! やっぱりお兄ちゃんは、私のものだねっ!」
宗一は彼女を抱きしめた。
だが、その腕には何の力もこもっていなかった。
執事は傍で一部始終を見ていたが、恐る恐る訊ねる。
「……宗一様。それで……朱音様のほうは、どうされますか?」
梨花が振り返り、鬼のような形相で怒鳴った。
「なに言ってんの!? あの女はただの道具だったんでしょ!
もう終わったの! 連絡なんてさせないからね!
あなた、クビになりたくなかったら黙ってなさい!」
執事は視線をそらし、宗一の顔を見る。
宗一は、ゆっくりと目を閉じ――
無言で、執事に退出を命じた。
執事は小さくうなずき、玄関へと歩き出す。
――そして、最後の一言を飲み込んだ。
(――宗一様、どうか……後悔しませんように)