「――出ていけ」
宗一は、冷たい声でそう言った。
その言葉に、御門梨花は唇を尖らせて甘えるように言った。
「私たち、もう恋人同士なんだよ?一緒に寝るくらい、当たり前じゃん」
彼がまったく動じないのを見ると、梨花の目にうっすらと涙がにじんだ。
「……追い出すなら、泣いちゃうからね?」
宗一は目を伏せ、深く息を吐いた。
そして――妥協した。
それを察した梨花は、満足げに笑い、枕の下から一束の古びた手紙とスケッチブックを取り出す。
「見て見て、これ――私が中学生の頃に書いたお兄ちゃんへのラブレター!」
興奮気味にページをめくり、声に出して読み始める。
「『今日もお兄ちゃんが笑ってくれた。私、お兄ちゃんのことが大好き……』」
読み終えると、彼にぎゅっと抱きつき、嬉しそうにすり寄る。
「まさか、お兄ちゃんも私のこと好きだったなんて…夢みたい!」
宗一は長く沈黙していたが、やがて低く口を開いた。
「――結婚しよう」
梨花は一瞬、時が止まったように固まり、顔を上げる。
「……えっ?」
宗一は同じ言葉を繰り返した。
「梨花、結婚しよう」
「ちょ、ちょっと待って……それ、早すぎない…?」
「私と一緒にいたいなら、避けては通れない道だ」
宗一の声は静かだが、どこまでも確かだった。
「恋愛をするなら、堂々としたい。 遅くとも一ヶ月以内、御門家の戸籍を抜いてもらう。 関係を公表して、それから正式に結婚しよう」
梨花の顔から血の気が引き、青ざめたまま首を振った。
「だ、ダメ! 戸籍を抜けって、それじゃ私、御門家のお嬢様じゃなくなるじゃない!
公表なんてしたら、きっと皆から“義兄を誘惑した女”って見られるに決まってる…!
結婚も…パパもママも絶対に許さないよ! 無理! 絶対に無理!」
宗一はまっすぐに彼女を見た。
「つまり、私には“影の恋人”でいろと言いたいのか?」
「違うのっ!そういうつもりじゃなくて……」
涙を浮かべ、梨花は必死に宗一の手を掴む。
「ただ……誰にも知られずに、そっと付き合えればいいの! 他のことは何も変えたくないの……お願い、それでいいでしょ?」
宗一は無表情に尋ねた。
「今日レストランで、俺を“兄”だと否定したのも、それが理由か?」
梨花の体がびくりと震えた。
「……聞こえてたの?
……わざとじゃないの。ただ、周りに変な噂をされるのが怖くて……怒らないで、お願い……私、ただ……ただ怖がりなだけで…」
「縁談の話に笑顔で頷いたのも、“怖かったから”か?」
梨花はうなずくように首を何度も振った。
「そうよ! あとで断るつもりだったの、ほんとに……信じて!」
宗一は静かに首を横に振った。その眼差しに、初めて「諦め」の色が浮かぶ。
「梨花……私がずっと君への気持ちを抑えていた理由、わかるか?」
彼の声は穏やかで、それでいて深く突き刺さる。
「君に嫌われるのが怖かったからでも、断られるのが嫌だったからでもない。
ただ……私は、君が“自分のことしか考えない”人間だと、知っているから。
君は、私との関係だけを求めて、それ以外のものは一切差し出す気がない。
私のことは好きでも、御門家のお嬢様という地位は捨てられない。人からどう見られるかを気にして、親の期待を裏切るのも怖い。
そんな君を……私は、責めたくなかった。無理に変えようとも思いたくなかったんだ」
梨花は泣き崩れ、震えながら宗一の腕にすがりついた。
「だったらなんで私と付き合ったの!? そんなに全部分かってたなら、最初から断ってよ!」
宗一は静かに彼女を見つめ、低く呟く。
「……最後に、一度だけ賭けてみたかったんだ」
短く息をつき、静かに告げる。
「……もう終わりにしよう」
梨花は必死で彼の腕を抱き続け、涙で彼の袖を濡らす。
「わかってる、わかってるよ……私、自分勝手で臆病で……でも、でも、それでも……それでも、好きなんでしょ……?
だったら、もう一度だけでいい、私を――」
だが、宗一は彼女の指を一本ずつ、冷静に剥がしていった。
「何にでも目をつぶれる。だが……これだけは、譲れない。
君が私を選ばないのなら……私たちはまた、兄妹に戻るだけだ」
梨花の涙が頬をつたった。次の瞬間、彼女は乾いた笑い声を上げた。
「ねえ、もしかして――
最初から、私と付き合うって言ったときから、今日のこと……想定してたんでしょ?
この数日、私とデートして、笑って、優しくして……全部ただの“おままごっこ”だったんでしょ?
私が少しでも“御門宗一の理想”から外れたら、はい終了。……そうなんでしょ?
お兄ちゃん、まだ羽瀬川朱音のこと忘れてないんでしょ!?
ねぇ、好きなんでしょ? あの女のこと!」
宗一はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……ああ。確かに、彼女のことを考えている。彼女とはまだ、離婚もしていない。
好きかどうかは、まだ分からない。でもひとつだけ確かなのは――
彼女のいない日常が、耐えられない」
梨花はまるで力を吸い取られたように、後ろへよろめいた。そして、無理に笑顔を作ろうとしたが――
笑っているうちに、また涙があふれてきた。
「……お兄ちゃん、あの人はもう戻ってこないよ?」
「――戻るさ」
宗一は、迷いなく答えた。
「朱音は私のことが好きだった。だから、私が迎えに行けば――きっと帰ってくる」