御門梨花は頬の涙を拭い、急に冷静な声で言った。
「……お兄ちゃん、どうしてそんなに自信あるの? 自分が朱音さんに何をしてきたか、忘れたの?」
彼女は淡々と、しかし確実に宗一の胸を抉るように言葉を重ねていく。
梨花の誕生日を優先して、朱音との約束を何度も反故にしたこと――
「梨花が嫌がるから」と言って、朱音を家族の食事や行事から何度も遠ざけたこと――
そして――梨花が朱音の頭を瓶で割ったときでさえ、宗一が命じたのは、たった一日だけの「外出禁止」だったこと。
「そんな扱い、誰が耐えられるっていうの……?」
梨花の声が震え、やがて叫びへと変わる。
「……あの人はもう戻ってこない! 戻るわけがない!
本当に――お兄ちゃんのことを、諦めたんだ!」
宗一は何も言わず、ただ静かに立ち上がる。
「明日、実家に戻れ。父さんが勧めてる縁談の相手と、きちんと会ってきなさい」
梨花は目を見開き、怒りとも混乱ともつかない声を上げた。
「……そんなの、よくも平気で言えるのね。 本当に、私を……切り捨てるつもりなんだ」
宗一は、ゆるぎない視線を彼女に向ける。
「――それが、君の望んだことだろう?
なら、その通りにしてやる。
すべてを、元に戻す。
――私は羽瀬川朱音のもとへ戻る。君は……ただの“妹”だ」
そう言い残し、御門宗一は背を向けて出て行った。
*
車に乗り込むと同時に、宗一はスマホを取り出し、執事に電話をかけた。
「羽瀬川朱音の居場所を調べろ」
数秒の沈黙ののち、電話の向こうからためらいがちに声が返ってきた。
「……宗一様。もし、朱音様が自ら離婚を選ばれたのなら……どうか、もう自由にしてあげてください」
宗一の目が細く鋭くなった。
「……誰のために働いているのか、忘れたのか?」
執事は大きく息を吸い込み、声を震わせながら言った。
「ええ、私は宗一様の執事です。……ですが、私は――朱音さんのことが、好きなんです」
宗一の手が、無意識にスマホを強く握りしめる。
「私だけではありません。この業界の男の半分は、彼女に恋をしています」
執事の声には怒気が滲みはじめていた。
「彼女は、美しく、明るく、強くて優しい。まるで太陽のような人です。
でも、あなたは……そんな彼女を、いったいなんだと思ってたんですか?
身代わり? 道具? 欲望の捌け口? ――いい加減にしてください。
どうぞ、私を解雇なさっても構いません」
宗一の指先は白くなり、吐き出すように言った。
「……調べろ。君が嫌でも、他の誰かに頼むだけだ」
電話が切れた後、車内に重い沈黙が広がる。
彼はそのまま車内で一晩中、タバコを吸い続けた。
煙の向こう、脳裏に浮かぶのは――朱音の笑顔。
――二十歳の頃、赤いドレスに身を包み、笑いながら振り返る。
その姿は、誰よりも明るく、眩しかった。
そして――
彼女は、嫁いでから変わった
すべての尖った部分を収め、ただ彼のためだけに生きるようになった。
朝には完璧な温度で紅茶を淹れ、
雨の日には温めた上着を準備し、
禅房にこもった彼を、夜が明けるまで静かに待ち続けた。
……それでも宗一は、一度として、その献身に目を向けなかった。
――「宗一さん……いつになったら、私のこと、見てくれるの……?」
かすかな呟きだけが、彼の記憶に刺さって離れなかった。
*
翌朝。
執事からメッセージが届いた。
【朱音様はドイツにおられます】
御門宗一は画面をじっと見つめ、眉をひそめた。
――ドイツ?
まさか、羽瀬川尚人のもとへ……?
タバコを灰皿に押しつけた指先が、一瞬火に触れた。
その痛みにも構わず、宗一はスマホを握り直す。
そして――
「――お父様。梨花の縁談は、私が決めます」
電話の向こう、御門父は驚きつつも、すぐに笑い声を返した。
「おお、ちょうどいい。いま数十件、見合い相手の資料がある。家に戻って見てみるか?」
「……はい。すぐに向かいます」
電話を切ると、彼は即座にドイツ行きの最短便を予約した。
*
御門家――
リビングのテーブルに広げられた数十枚の写真。
御門父は笑顔を浮かべ、楽しげに説明を始めた。
「どれも優秀な家柄ばかりだ。顔も学歴も申し分ない。どれがいい?」
宗一は無言のまま、それらをざっと一瞥し――一枚を抜き取る。
「――九条家の末っ子。性格も穏やかで、梨花も苦労しないだろう」
「ほう、いい目をしてるな。あの子は評判も上々だ。優しくて気が利くってね」
宗一は立ち上がる。
「……では、私はこれで」
その背を、御門父が呼び止めた。
「…待て、宗一。朱音はどうした? 最近まったく顔を見せんが」