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第14話

御門梨花は頬の涙を拭い、急に冷静な声で言った。

「……お兄ちゃん、どうしてそんなに自信あるの? 自分が朱音さんに何をしてきたか、忘れたの?」


彼女は淡々と、しかし確実に宗一の胸を抉るように言葉を重ねていく。


梨花の誕生日を優先して、朱音との約束を何度も反故にしたこと――


「梨花が嫌がるから」と言って、朱音を家族の食事や行事から何度も遠ざけたこと――


そして――梨花が朱音の頭を瓶で割ったときでさえ、宗一が命じたのは、たった一日だけの「外出禁止」だったこと。


「そんな扱い、誰が耐えられるっていうの……?」


梨花の声が震え、やがて叫びへと変わる。


「……あの人はもう戻ってこない! 戻るわけがない!

 本当に――お兄ちゃんのことを、諦めたんだ!」


宗一は何も言わず、ただ静かに立ち上がる。

「明日、実家に戻れ。父さんが勧めてる縁談の相手と、きちんと会ってきなさい」


梨花は目を見開き、怒りとも混乱ともつかない声を上げた。

「……そんなの、よくも平気で言えるのね。 本当に、私を……切り捨てるつもりなんだ」


宗一は、ゆるぎない視線を彼女に向ける。


「――それが、君の望んだことだろう?

 なら、その通りにしてやる。


 すべてを、元に戻す。


 ――私は羽瀬川朱音のもとへ戻る。君は……ただの“妹”だ」


そう言い残し、御門宗一は背を向けて出て行った。



車に乗り込むと同時に、宗一はスマホを取り出し、執事に電話をかけた。

「羽瀬川朱音の居場所を調べろ」


数秒の沈黙ののち、電話の向こうからためらいがちに声が返ってきた。

「……宗一様。もし、朱音様が自ら離婚を選ばれたのなら……どうか、もう自由にしてあげてください」


宗一の目が細く鋭くなった。

「……誰のために働いているのか、忘れたのか?」


執事は大きく息を吸い込み、声を震わせながら言った。

「ええ、私は宗一様の執事です。……ですが、私は――朱音さんのことが、好きなんです」


宗一の手が、無意識にスマホを強く握りしめる。

「私だけではありません。この業界の男の半分は、彼女に恋をしています」


執事の声には怒気が滲みはじめていた。


「彼女は、美しく、明るく、強くて優しい。まるで太陽のような人です。

 でも、あなたは……そんな彼女を、いったいなんだと思ってたんですか?

 身代わり? 道具? 欲望の捌け口? ――いい加減にしてください。

 どうぞ、私を解雇なさっても構いません」


宗一の指先は白くなり、吐き出すように言った。

「……調べろ。君が嫌でも、他の誰かに頼むだけだ」


電話が切れた後、車内に重い沈黙が広がる。

彼はそのまま車内で一晩中、タバコを吸い続けた。


煙の向こう、脳裏に浮かぶのは――朱音の笑顔。


――二十歳の頃、赤いドレスに身を包み、笑いながら振り返る。

その姿は、誰よりも明るく、眩しかった。


そして――

彼女は、嫁いでから変わった


すべての尖った部分を収め、ただ彼のためだけに生きるようになった。


朝には完璧な温度で紅茶を淹れ、

雨の日には温めた上着を準備し、

禅房にこもった彼を、夜が明けるまで静かに待ち続けた。


……それでも宗一は、一度として、その献身に目を向けなかった。


――「宗一さん……いつになったら、私のこと、見てくれるの……?」


かすかな呟きだけが、彼の記憶に刺さって離れなかった。



翌朝。

執事からメッセージが届いた。


【朱音様はドイツにおられます】


御門宗一は画面をじっと見つめ、眉をひそめた。


――ドイツ?

まさか、羽瀬川尚人のもとへ……?


タバコを灰皿に押しつけた指先が、一瞬火に触れた。

その痛みにも構わず、宗一はスマホを握り直す。


そして――


「――お父様。梨花の縁談は、私が決めます」


電話の向こう、御門父は驚きつつも、すぐに笑い声を返した。


「おお、ちょうどいい。いま数十件、見合い相手の資料がある。家に戻って見てみるか?」

「……はい。すぐに向かいます」


電話を切ると、彼は即座にドイツ行きの最短便を予約した。



御門家――


リビングのテーブルに広げられた数十枚の写真。

御門父は笑顔を浮かべ、楽しげに説明を始めた。


「どれも優秀な家柄ばかりだ。顔も学歴も申し分ない。どれがいい?」

宗一は無言のまま、それらをざっと一瞥し――一枚を抜き取る。


「――九条家の末っ子。性格も穏やかで、梨花も苦労しないだろう」

「ほう、いい目をしてるな。あの子は評判も上々だ。優しくて気が利くってね」


宗一は立ち上がる。

「……では、私はこれで」


その背を、御門父が呼び止めた。

「…待て、宗一。朱音はどうした? 最近まったく顔を見せんが」


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