宗一の足が止まり、低く呟いた。
「……彼女は海外に行った。今から迎えに行く」
「戻ってきたら、久しぶりに顔を見せに来なさい」
御門父は笑って言った。
「朱音は本当にいい子だ。以前な、俺が仕事でちょっと落ち込んでいたとき……骨董の茶器をオークションで手に入れて慰めてくれた。
母さんの不眠症にも、毎週一緒に治療院に付き添っていたんだ。家族以上に家族なんだ」
宗一の呼吸が止まりかけた。
……そんなことまでしてくれていたとは知らなかった。
ちょうど玄関の外に向かおうとしたその時、宗一の手下に連れられて、梨花が戻ってきた。
真っ赤に腫れた目、ぼろぼろの顔。
宗一の姿を見た瞬間、彼女は駆け寄ってきて腕にしがみついた。
「……お兄ちゃん、行かないで……お願い……」
震える声で懇願する。
「昨日のことは忘れよう? もう一度やり直そう? ね?」
宗一は、彼女の手元を一瞥し、低く静かに言った。
「――じゃあ、今すぐお父様とお母様に、私たちの関係を話そうか」
梨花の手が、ぴたりと止まり――
そして、力を失ったように離れていく。
唇を噛み、何も言えなくなった彼女に対し、宗一はその手をそっと押し返した。
「梨花……兄として、これ以上は甘やかせない。
プライドを捨ててまで愛すること、私にはできない。
縁談相手は、私が選んでおいた。これから私たちは――ただの兄妹だ」
彼の声は柔らかかったが、そこには一切の迷いがなかった。
「朱音を迎えに行く。そして……もう二度と、彼女に手を出すな。
――私は、もう君の味方ではない」
背を向けた宗一の足取りは、決然としていた。
梨花は、その場に立ち尽くし――
唇を噛み、ぽたり、ぽたりと涙を落とした。
*
十二時間のフライト中、宗一は一睡もできなかった。
朱音が好きだったチョコレート、香水、高級なジュエリー、そして――新しい結婚指輪まで用意した。
空港に着くとすぐに車を手配し、執事が送ってきた住所、ドイツの羽瀬川家の別荘へと向かった。
窓の外の風景が高速で流れ去っていく。
胸の鼓動が、なぜか早まる。
彼は再会の場面を、幾度も想像してきた。
怒った顔で彼を追い返すかもしれない。
泣きながら「なんでもっと早く来なかったの」と責めるかもしれない。
あるいは、昔のように笑って飛び込んでくるかもしれない――
……だが、
そのすべての想像は、別荘の門前で粉々に砕け散った。
ドアに手をかけた宗一の動きが、凍りつく。
ガーデンの中――
朱音は、知らない男と唇を重ねていた。
あの、彼が「派手すぎる」と言った赤いドレスを身にまとい、長い髪を風に踊らせながら、背伸びしてその男の首に腕を回している。
男は朱音の腰を引き寄せ、深く――心から、彼女を抱き締めていた。
陽の光が彼らを優しく照らし、あまりにも美しく、まぶしかった。
朱音は目を閉じ、唇を重ねながら、笑っていた。
その表情は、宗一が一度も見たことのないものだった。
熱く、自由で、何のためらいもない――
まるで二十歳のあの頃、初めて出会ったあの朱音のようだった。
宗一は車の外で立ち尽くし、無意識のうちにドアノブを握りしめる手が、白くなるほど力が入っていた。
喉が詰まり、胸の内で熱が暴れ出す。
「……羽瀬川朱音」
低く、冷たい声が風に乗って響いた。
その声に気づき、二人は驚いたように身を離した。
男がゆっくりと振り返る。
陽光に照らされたその輪郭、切れ長の目元が美しく整っていた。
ラフな黒いシャツを着て、第一ボタンは外れ、鎖骨がちらりと見える。
琥珀色の瞳が、どこか挑発的に笑っていた。
「……御門宗一?」
男は肩をすくめ、まるで懐かしい友人にでも再会したような口ぶりで続けた。
「まさか、君がここに来るとはね」
宗一の目が鋭く細まり、温度が急速に下がっていく。
――久我惟成(くが いせい)。
羽瀬川尚人の親友であり、久我家の跡取り息子。
享楽的で、傲慢で、気まぐれな“チャラ男”。
「……答えろ。…君たち、今何をしていた?」
宗一の声は氷のように冷たく、鋭く刺さった。
惟成は、わざとらしく肩をすくめた。
「見りゃ分かるだろ? キスだよ」
そして――挑発するように、微笑んだ。
「そうそう、言い忘れてたけど――朱音は今、今俺と付き合ってんだ」