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第16話

御門宗一の顎が強ばる。

「……君、知らないのか? 朱音は私の妻だ」


「へぇ、そうなんだ?」

久我惟成がわざとらしく驚いたふうに朱音を見つめた。


「でも俺の耳には、君たちもう離婚したって話しか入ってこないけど?」

そう言うなり、朱音の髪に軽く口づけ、茶化すように囁く。


「朱音ちゃん、元旦那様が浮気現場を押さえにきたけど、どうする?」


朱音はふっと笑い、淡々と宗一に視線を流した。

「元旦那でしょ? 何の権利があるの?」


その一言に、御門宗一の胸が詰まる。

彼は一歩踏み出し、彼女の手首を掴んだ。


「私は……離婚を認めていない」


その声は低く、そして容赦ない力を孕んでいた。


「帰ろう。過去のことは、償う」


しかし朱音は、静かにその手を振り払った。

目の奥に浮かぶのは、刺すような冷笑。


「償う? またそのセリフ?

 御門宗一、あんたの“償い”って……そんなに尊い施しなの?」


嘲るように肩を揺らし、彼女は一歩後ずさり――惟成の腕をしっかりと取った。


「残念だけど、私はもうあんたのこと好きじゃないの。だから、早く御門梨花のところに戻って。私の前に、もう現れないで」


宗一の目に怒気がにじむ。

「私と梨花はもう兄妹に戻った。これからは――」


「私に関係ないわ」朱音が食い気味に遮った。


「今、私には惟成さんがいる。それで充分幸せなの」

「……惟成さん…?」


宗一がその呼び方を噛みしめるように繰り返すと、背後から皮肉な声が響いた。


「おやおや、ずいぶん賑やかだな?」


ワインボトルを手に、羽瀬川尚人が悠然と現れる。

宗一を見るや、眉をひそめた。


「……で? お前、何しに来た?」

「朱音を迎えに来た」

「…でも俺さ、彼女、惟成に紹介済みなんだよな」


尚人は肩をすくめ、わざとらしく呟く。


宗一の堪忍袋がついに切れる。

「君、大事な妹を、あちこち紹介し回るのか?」

「失恋の特効薬は、新しい恋だろ? お前がそう教えたじゃないか」


その言葉に、宗一は喉の奥を詰まらせた。

しばし沈黙し、ようやく一言。


「……あの時の私は、間違っていた」


そして朱音に向き直り、必死に告げる。

「戻ろう……一緒に帰ってくれ」


朱音は笑った。その瞳には、もう一片の揺らぎもなかった。


「理由は? まさか“好きになった”とか?」

「……好きかどうかは、まだ分からない。

 でも――君のいない家に、慣れないんだ」


その言葉に、朱音はあざけるような笑みを浮かべた。


「私はインテリアか何か? “いないと落ち着かない”からって、連れ戻されるわけ?」


彼女は惟成の腕をぐっと引き寄せ、声を弾ませた。


「よーく聞いて、御門宗一。私はもう、あなたのことが好きじゃないの。

 私は惟成さんといる方がずっと楽しいわ。だから――さようなら」


そう言い残し、彼の視界からすっと姿を消した。


宗一が追いかけようとした瞬間――

尚人がさっと前に出て、行く手を遮る。


「……ここ、俺ん家なんだけど?」

「久我惟成は君の親友で、だったら私は? 友人として泊まって何が悪い?」


宗一が強く言うと、尚人は皮肉げに笑った。

「いいよ。止めやしない。ただ――」


その声を低く落とし、耳元で囁く。

「……後悔するなよ?」


意味深な言葉に、宗一は眉をひそめた。



リビングに足を踏み入れた瞬間、その“意味”はすべて理解された。

久我惟成がソファに腰かけ、朱音にいちごを差し出していた。


「はい、あーん」


朱音は楽しげにいちごをくわえると、今度はぶどうを摘んで彼の口へ。

そのまま二人の顔が近づき、自然に唇が重なる。


「……どこまでイチャつけば気が済むんだ」


宗一が駆け寄り、ふたりを引き剥がした。


尚人はドア枠に寄りかかり、愉快そうに笑う。

「毎日こんな感じだぜ。もう同棲してるからな」


彼は肩をすくめ、宗一の肩を軽く叩いた。

「だから言ったろ。後悔するって」


宗一の胸が激しく上下する。怒りと、戸惑いと、得体の知れぬ焦燥と。

「……ふざけるな。朱音、帰るぞ」


彼女の手首を強く掴む。

しかし、朱音はもう一度、きっぱりと告げた。


「……何度言わせるつもり? 

 ――離婚したのは本当。

 ――惟成さんと付き合ってるのも本当。

 ――そして、あんたと戻らない。それも本当。

 いい加減現実を見なさい」


宗一の怒りがついに爆発した。


「君は六年間も俺のことが好きだったんだろ!!

 それが、今さら“好きじゃない”で終わり? 新しい恋が始まったからって?

 そんなの信じられるか!」


静寂の中、陽射しが差し込み、四人の影を長く伸ばしていた。

朱音は彼の手をそっと外し、静かな声で呟いた。


「……御門宗一。あんたって、本当に笑えるほど自信家なんだよね。

 覚えておいて。


 人の感情ってのは――死ぬのよ」


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