御門宗一の顎が強ばる。
「……君、知らないのか? 朱音は私の妻だ」
「へぇ、そうなんだ?」
久我惟成がわざとらしく驚いたふうに朱音を見つめた。
「でも俺の耳には、君たちもう離婚したって話しか入ってこないけど?」
そう言うなり、朱音の髪に軽く口づけ、茶化すように囁く。
「朱音ちゃん、元旦那様が浮気現場を押さえにきたけど、どうする?」
朱音はふっと笑い、淡々と宗一に視線を流した。
「元旦那でしょ? 何の権利があるの?」
その一言に、御門宗一の胸が詰まる。
彼は一歩踏み出し、彼女の手首を掴んだ。
「私は……離婚を認めていない」
その声は低く、そして容赦ない力を孕んでいた。
「帰ろう。過去のことは、償う」
しかし朱音は、静かにその手を振り払った。
目の奥に浮かぶのは、刺すような冷笑。
「償う? またそのセリフ?
御門宗一、あんたの“償い”って……そんなに尊い施しなの?」
嘲るように肩を揺らし、彼女は一歩後ずさり――惟成の腕をしっかりと取った。
「残念だけど、私はもうあんたのこと好きじゃないの。だから、早く御門梨花のところに戻って。私の前に、もう現れないで」
宗一の目に怒気がにじむ。
「私と梨花はもう兄妹に戻った。これからは――」
「私に関係ないわ」朱音が食い気味に遮った。
「今、私には惟成さんがいる。それで充分幸せなの」
「……惟成さん…?」
宗一がその呼び方を噛みしめるように繰り返すと、背後から皮肉な声が響いた。
「おやおや、ずいぶん賑やかだな?」
ワインボトルを手に、羽瀬川尚人が悠然と現れる。
宗一を見るや、眉をひそめた。
「……で? お前、何しに来た?」
「朱音を迎えに来た」
「…でも俺さ、彼女、惟成に紹介済みなんだよな」
尚人は肩をすくめ、わざとらしく呟く。
宗一の堪忍袋がついに切れる。
「君、大事な妹を、あちこち紹介し回るのか?」
「失恋の特効薬は、新しい恋だろ? お前がそう教えたじゃないか」
その言葉に、宗一は喉の奥を詰まらせた。
しばし沈黙し、ようやく一言。
「……あの時の私は、間違っていた」
そして朱音に向き直り、必死に告げる。
「戻ろう……一緒に帰ってくれ」
朱音は笑った。その瞳には、もう一片の揺らぎもなかった。
「理由は? まさか“好きになった”とか?」
「……好きかどうかは、まだ分からない。
でも――君のいない家に、慣れないんだ」
その言葉に、朱音はあざけるような笑みを浮かべた。
「私はインテリアか何か? “いないと落ち着かない”からって、連れ戻されるわけ?」
彼女は惟成の腕をぐっと引き寄せ、声を弾ませた。
「よーく聞いて、御門宗一。私はもう、あなたのことが好きじゃないの。
私は惟成さんといる方がずっと楽しいわ。だから――さようなら」
そう言い残し、彼の視界からすっと姿を消した。
宗一が追いかけようとした瞬間――
尚人がさっと前に出て、行く手を遮る。
「……ここ、俺ん家なんだけど?」
「久我惟成は君の親友で、だったら私は? 友人として泊まって何が悪い?」
宗一が強く言うと、尚人は皮肉げに笑った。
「いいよ。止めやしない。ただ――」
その声を低く落とし、耳元で囁く。
「……後悔するなよ?」
意味深な言葉に、宗一は眉をひそめた。
*
リビングに足を踏み入れた瞬間、その“意味”はすべて理解された。
久我惟成がソファに腰かけ、朱音にいちごを差し出していた。
「はい、あーん」
朱音は楽しげにいちごをくわえると、今度はぶどうを摘んで彼の口へ。
そのまま二人の顔が近づき、自然に唇が重なる。
「……どこまでイチャつけば気が済むんだ」
宗一が駆け寄り、ふたりを引き剥がした。
尚人はドア枠に寄りかかり、愉快そうに笑う。
「毎日こんな感じだぜ。もう同棲してるからな」
彼は肩をすくめ、宗一の肩を軽く叩いた。
「だから言ったろ。後悔するって」
宗一の胸が激しく上下する。怒りと、戸惑いと、得体の知れぬ焦燥と。
「……ふざけるな。朱音、帰るぞ」
彼女の手首を強く掴む。
しかし、朱音はもう一度、きっぱりと告げた。
「……何度言わせるつもり?
――離婚したのは本当。
――惟成さんと付き合ってるのも本当。
――そして、あんたと戻らない。それも本当。
いい加減現実を見なさい」
宗一の怒りがついに爆発した。
「君は六年間も俺のことが好きだったんだろ!!
それが、今さら“好きじゃない”で終わり? 新しい恋が始まったからって?
そんなの信じられるか!」
静寂の中、陽射しが差し込み、四人の影を長く伸ばしていた。
朱音は彼の手をそっと外し、静かな声で呟いた。
「……御門宗一。あんたって、本当に笑えるほど自信家なんだよね。
覚えておいて。
人の感情ってのは――死ぬのよ」