御門宗一の拳が久我惟成の頬を打ち据えた瞬間――
室内の空気が、凍りついたように静止した。
拳の関節は赤く腫れ、肩で息をしながら、宗一の瞳にはこれまで見せたことのない暴力的な怒りが渦巻いていた。
久我惟成は数歩よろめき、口元の血を指で拭った。
反撃する間もなく、羽瀬川朱音が駆け寄り、宗一を強く突き飛ばす。
「正気なの!? 何してんのよ!」
宗一は一歩下がりながらも、目を血走らせたまま怒鳴り返す。
「そっちこそ、何をしてるんだ!」
「――恋人同士で、ヤるのも当然でしょ?」
朱音は冷たく笑う。
「ここは私の家よ。発狂するなら出てって」
御門宗一の呼吸は荒くなり、かすれた声で吐き出すように言った。
「……どうすれば、どうすれば一緒に帰るって言ってくれるんだ…」
朱音はまっすぐ彼の目を見据えた。
「まだ分からないの? 私はもう戻らないの。あんたをもう、愛してないの。もう、私には新しい人生が始まる」
「新しい人生……?」
宗一の声はしわがれていた。
「――このチャラ男と一緒に?」
朱音は思いがけず、くすっと笑った。
「チャラ男?」
そう言って、彼女は棚から一つの箱を取り出し、ゆっくりと開いた。
中には、色褪せた手紙が何十通も丁寧に重ねられていた。
宗一の指先がわずかに震えながら、一通を手に取る。
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【朱音ちゃんへ:
今日は尚人の誕生日パーティーで初めて君を見た。
赤いドレスでピアノを弾いていた君は、まるで燃える太陽みたいだった。
目を逸らしちゃいけないって思っても、どうしても、君から目が離せなかった。
――久我惟成 2015.5.20】
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次の一通を開き、宗一の胸に冷たい刃が突き刺さる。
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【朱音ちゃんへ:
君が御門宗一を好きだって聞いた。
あいつに君はもったいない。
……でも、君が好きなら、俺は応援するよ。
――久我惟成 2016.8.15】
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【朱音ちゃんへ:
今日、泣いてたよね?
あいつまた御門梨花のことでドタキャンしたんでしょ?
……あいつ、ぶん殴ってやりたかった。
――久我惟成 2018.11.3】
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そして、最後の一通はまだインクの匂いが残るほど新しかった。
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【朱音ちゃんへ:
君が離婚したって聞いた。
チャンスをくれないか?
……今度は俺が、君を愛す。
――久我惟成 2025.12.25】
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――十年間、ずっと。
手紙の筆跡は丁寧で、インクの筆触は優しかった。
朱音は箱をそっと閉じると、柔らかく言った。
「……惟成さんはチャラくなんかない。“無欲”なあんたより、ずっと一途だった。」
宗一の喉が詰まり、何かを言いかけたが――
「……私は……」
「前にも言ったわよね?」
朱音の声は冷えきっていた。
「あなたが私を愛してくれなくても、私を愛してくれる人は他にもたくさんいるって。
私はあなたが好きだった。だから結婚した。
でも――あなたは、私を愛してくれなかった。
禅房に閉じこもって、性欲をぶつける場所にしてたくせに。
……そんなあんたが今になって、まだ私が戻るとでも信じているの?」
宗一の胸は押し潰されそうだった。
心の奥から突き上げてくるこの感情は、彼にとって未知のものだった。
口を開いて、絞り出すように言った。
「……すまなかった」
「いらない」
朱音は箱をしまいながら、きっぱりと言い放った。
「……私が欲しいのは、あんたの“謝り”なんかじゃない。
――あんたが、私の世界からいなくなることよ」
宗一は、それでも一歩も動かなかった。
「……変わるから。戻ったりしない……君を、連れて帰る」
その瞬間、リビングからガラスが割れる音が響いた。
朱音は咄嗟に走り出し、目に入ったのは――薬箱を拾おうとしていた惟成の姿だった。
「だめ、触らないで!」
朱音が膝をついて、彼の手を取り、丁寧に包帯を巻いていく。
その手つきは柔らかく、眼差しは真剣で――まるで、かつて宗一にそうしていた時のようだった。
昔、彼女が宗一の怪我を手当てした日。
泣きながら、震える手で包帯を巻いてくれた。
あの優しさは、宗一だけのものだったはずなのに。
今、その優しさは――もう彼には向けられていない。
静かに、確かに、心臓を刺すような痛みが走った。
呼吸が止まりそうなほどの痛みだった。
*
深夜。
宗一はベランダに佇み、指先で持ったタバコがすでに灰になるほど燃え尽きていた。
スマホを取り出し、震える指で執事に電話をかける。
「……私……最近、なんかおかしい」
執事は一瞬黙った後、問いかける。
「……宗一様、何があったんですか?」
宗一は胸を押さえながら、声を震わせた。
「……朱音が、他の男と一緒にいるのを見て…苦しいんだ。…まるで、死にそうなくらいに」
長い沈黙ののち、執事が静かに言った。
「……宗一様、それは――あなたが、朱音様を好きになったってことですよ。…ただ、それに気づくのが――遅すぎただけです」
タバコの灰が指先を焦がした。
それでも、宗一は痛みにすら気づいていなかった。