消毒液の匂いが鼻を刺し、痛みが広がる。
御門宗一が目を開けると、目の前には真っ白な天井が広がっている。
指を動かそうとしたが、全身の骨がバラバラにされて組み直されたような激痛が走った。
「目、覚めたか」
羽瀬川尚人が病床の脇に座り、ゆっくりとリンゴをむいていた。
その刃先が冷たい光を反射し、彼の目にかすかな光が走る。
「まさかあれで生きてるとは思わなかったよ」
「朱音は…?」
「隣の病室で、惟成の看病してるよ」
尚人は冷笑しながら言った。
「わざと火をつけて、君たち両方に薬を盛った。四肢が動かないようにな。走るどころか立つこともできないはずだったのに、朱音が最初に助けに行ったのは――惟成だった」
リンゴの皮が「パリッ」と音を立てて切れ、ゴミ箱に落ちた。
「お前、見てなかっただろうけど、朱音はすごく焦ってたんだ。ずっと一晩中守って、目が腫れるほど泣いてた」
その言葉一つ一つが、鈍い刃物のように宗一の心を切り刻んでいく。
火事の中で、朱音の冷たい目を思い出す。
彼女が振り返ることなく去っていった背中を思い出す――
彼女は本当に他の人を愛してしまったのだ。
その認識が胸を締めつけ、息が詰まりそうになる。
「なぜ……」彼の声はかすれていた。「なぜ、そんなことを…!」
――ガタン!
ナイフがベッドのサイドテーブルに突き刺さる。
尚人は突然立ち上がり、目の奥に激しい怒りを浮かべた。
「なぜだって? 決まってんだろ、お前にも捨てられる気持ちを味わわせてほしかったんだよ!」
彼は宗一の顔に拳を叩き込んだ。
瞬間、血が口元からこぼれた。
「御門宗一……俺は、本気でお前に死んでほしいと思ってる。
朱音が泣きながら俺に電話してきたとき、最初はただの夫婦喧嘩だと思ってた。拗ねてるだけだと…。
でもまさか、あんなことがあったとはな――!」
彼は御門宗一の襟首を掴み、手の甲の血管が浮き出た。
「お前はな、朱音がお前の妹に瓶で頭を叩かせ、髪を切らせ、百回も打たれて…!それどころか、毎日お前は禅房であのクソドールで抜く姿を朱音に見せつけて……!」
尚人の目が怒りで血走る。
「お前に妹がいるように、俺にも大切な妹がいる!」
もう一発、容赦のない拳が飛ぶ。宗一の意識が暗くなりかけても、彼は抵抗の一つも見せなかった。
「誰の妹だって、大切に決まってんだろうが!お前の家が名家だろうが、羽瀬川家だって黙ってはいない!
俺はお前をダチだと思ってた。だが――お前は俺の妹を、何だと思ってんだ――!」
尚人の拳が何度も降り注ぎ、ようやく医者と看護師が飛び込んできて、ようやく彼の腕を押さえつけた。
乱れたスーツを直しながら、尚人は病床の宗一を見下ろし、冷たく吐き捨てる。
「――もう、言い訳なんて通用しないぞ」
宗一は唇の血を拭い、ゆっくりと目を閉じた。
「……何も言うことはない、私が悪かった。」
声は微かだった。
「……もし、これで気が済むなら……朱音を……連れ戻してくれないか……」
「ふざけんな!」
尚人は点滴スタンドを蹴り飛ばす。
「久我惟成は、十年越しに彼女を想い続けてたんだ。お前が六年かけて壊したものをな!
お前はラッキーだよ、惟成が全部を知ってたら、俺より先にお前を殺してただろうよ。あいつといてから、朱音は…二度と泣いたことないんだ。
お前みたいなクズのそばに置くくらいなら、彼女に独りでいてもらった方がマシだ!」
宗一は、力を込めてシーツを握りしめた。
「私は……諦めない……」
尚人は鼻で笑う。
「勝手に足掻け」
背を向け、出口へ向かう。だがふと足を止め、振り返ると、あざけるように笑った。
「そうそう。お前の狂った妹のこと、忘れてたよ!
婚約者、替えてやったよ。
五十のジジイ。三人の元妻を死なせてるヤバいやつ。
この婚約のために、プロジェクトで値引きしてやったんだ。お前の両親も大満足。
所詮、養女だしな。使えるもんは使わなきゃってか。
一昨日、もう式は済んだ。……電話、来なかったのか?」
そう言って、尚人は扉を乱暴に閉めて去った。
病室に静寂が戻る。
宗一は天井を見つめながら、ふいに――笑った。
これは……報いだ。
全部、自分が撒いた種だった。
そんなとき、枕元のスマホが震える。
画面に映った名前は――御門梨花。
「お兄ちゃん!」
電話越しに、裂けるような嗚咽が響く。
「助けて! パパとママが突然おかしくなって、私をあのジジイに嫁がせたの……電話もさせてもらえなくて、ようやくスマホを取り戻せたの……!
昨日の夜中、ずっと……ずっとあいつに……!
怖いよ、いやだよ、お兄ちゃん……私……後悔してる、すごく……!
お兄ちゃんのことが好きだったの、今も、ずっと……お願い、お願い、私を見捨てないで……!」
宗一は黙って、その全てを聞いた。
そして、静かに口を開いた。
「……梨花。お兄ちゃん、昔言ったよね?
――間違ったことをしたら、代償を払わなきゃいけないって」