電話の向こうから聞こえていた泣き声が、ふいに止んだ。
梨花の声が震え、信じられないといった尖った音になる。
「……お兄ちゃん、どういうこと?」
宗一は目を閉じ、疲れきった低い声で答えた。
「……今まで、甘やかしすぎたな。
もう嫁いだんだ。だったら、そこで生きていけ。
どうしても無理なら……両親に言え」
言葉を区切るように一呼吸置き、かすかに自嘲した。
「……私にはもう、それに向き合う余裕はない。下手に手を出したら、朱音には……もっと嫌われるだろうからな」
梨花の呼吸が乱れ、そのまま叫び声に変わった。
「……あんた、本当に羽瀬川朱音のことを好きになったの!?」
宗一は少しの沈黙の後、静かに、だがはっきりと告げた。
「……ああ」
その一言が、梨花の最後の理性を引き裂いた。
「嘘よっ!!」
耳をつんざくような叫び声が響く。
「好きなのは私だったはずでしょ!? どうして、どうしてあの女なんかに……!!
全部嘘……嘘なんでしょ!?
私とのこと、あれも、これも……ずっと優しかったくせにっ……!」
幼いころの思い出や、曖昧なやさしさ、言葉の端々――彼女は混乱したまま、支離滅裂に訴え続けた。
宗一は黙ってそれを受け止めていた。
やがて、電話の向こうから粗野な男の声が響く。
「電話しちゃだめって言ったよな! まだベッドで躾が足りなかったか?」
ガサガサと何かが引き剥がされる音。
遠ざかる梨花の悲鳴。
「お兄ちゃん! 助けて! お願い、助けてよぉ!」
ぷつりと、通話が切れた。
宗一はゆっくりとスマートフォンを下ろした。
だが、もう掛け直すことはなかった。
*
入院していた数日のあいだ、御門宗一は看護師たちの雑談から、朱音と惟成のことを何度も耳にした。
「302号室のカップル、ほんとにラブラブだよね~。女の子、三日三晩つきっきりで看病してたって」
宗一は無言でそれを聞き、胸の奥に岩のような重しを感じていた。
退院間際、なぜか足が勝手に302号室の前で止まっていた。
ドアはきちんと閉まりきっておらず、隙間から中の様子が見えた。
朱音がベッドのそばに座り、黙ってリンゴを剥いている。
その手元に、惟成がそっと腕を伸ばし、彼女を抱き寄せ、唇を重ねた。
朱音は拒まないどころか、腕を回し、情熱的に彼に応えていた。
宗一はその光景を、まるで盗人のように覗き見ていた。
かつて自分のものであったはずの幸せを――。
*
退院の日、まだ全快ではなかったが、宗一は無理を押して惟成と同時に退院手続きを行った。
その後も彼は、朱音の気を引こうと必死だった。
彼女の好きな花、好物のスイーツ、かつて一度だけ欲しいと言っていた限定バッグ。
思いつく限りの贈り物を届けたが、朱音は一瞥すら寄せなかった。
ついに彼女が冷たく口を開く。
「御門宗一、いつまでつきまとうつもり?
いい加減、日本に戻ってよ。ここでウロウロされるの、迷惑なの」
宗一は喉を鳴らし、声を絞り出す。
「……本当にもう私を……許す気はないのか?」
朱音は微笑んだ。
その笑みはどこまでも静かで、どこまでも遠い。
「許すとか許さないとか、そんな話じゃないの。
……私の心の中に、もうあんたはいない。ただそれだけ」
その一言が、鋭く宗一の心を貫いた。
彼は悟った。
――朱音の心は、もう完全に、彼の手の届かない場所にあるのだと。
「久我惟成と……話がしたい」
ぽつりと、そう呟いた。
朱音の眉が寄る。
「話す必要なんてないでしょ」
「朱音ちゃん、大丈夫さ」
惟成が彼女の肩を抱き寄せ、気だるそうに笑った。
「ちょうどよかった。最近、お邪魔虫がうろちょろしてて、うんざりしてたところだったんだ」