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第21話


電話の向こうから聞こえていた泣き声が、ふいに止んだ。

梨花の声が震え、信じられないといった尖った音になる。


「……お兄ちゃん、どういうこと?」

宗一は目を閉じ、疲れきった低い声で答えた。


「……今まで、甘やかしすぎたな。

 もう嫁いだんだ。だったら、そこで生きていけ。

 どうしても無理なら……両親に言え」


言葉を区切るように一呼吸置き、かすかに自嘲した。

「……私にはもう、それに向き合う余裕はない。下手に手を出したら、朱音には……もっと嫌われるだろうからな」


梨花の呼吸が乱れ、そのまま叫び声に変わった。

「……あんた、本当に羽瀬川朱音のことを好きになったの!?」


宗一は少しの沈黙の後、静かに、だがはっきりと告げた。

「……ああ」


その一言が、梨花の最後の理性を引き裂いた。

「嘘よっ!!」


耳をつんざくような叫び声が響く。

「好きなのは私だったはずでしょ!? どうして、どうしてあの女なんかに……!!

 全部嘘……嘘なんでしょ!? 

 私とのこと、あれも、これも……ずっと優しかったくせにっ……!」


幼いころの思い出や、曖昧なやさしさ、言葉の端々――彼女は混乱したまま、支離滅裂に訴え続けた。

宗一は黙ってそれを受け止めていた。


やがて、電話の向こうから粗野な男の声が響く。

「電話しちゃだめって言ったよな! まだベッドで躾が足りなかったか?」


ガサガサと何かが引き剥がされる音。

遠ざかる梨花の悲鳴。


「お兄ちゃん! 助けて! お願い、助けてよぉ!」


ぷつりと、通話が切れた。

宗一はゆっくりとスマートフォンを下ろした。


だが、もう掛け直すことはなかった。



入院していた数日のあいだ、御門宗一は看護師たちの雑談から、朱音と惟成のことを何度も耳にした。


「302号室のカップル、ほんとにラブラブだよね~。女の子、三日三晩つきっきりで看病してたって」


宗一は無言でそれを聞き、胸の奥に岩のような重しを感じていた。


退院間際、なぜか足が勝手に302号室の前で止まっていた。

ドアはきちんと閉まりきっておらず、隙間から中の様子が見えた。


朱音がベッドのそばに座り、黙ってリンゴを剥いている。

その手元に、惟成がそっと腕を伸ばし、彼女を抱き寄せ、唇を重ねた。


朱音は拒まないどころか、腕を回し、情熱的に彼に応えていた。

宗一はその光景を、まるで盗人のように覗き見ていた。


かつて自分のものであったはずの幸せを――。



退院の日、まだ全快ではなかったが、宗一は無理を押して惟成と同時に退院手続きを行った。


その後も彼は、朱音の気を引こうと必死だった。


彼女の好きな花、好物のスイーツ、かつて一度だけ欲しいと言っていた限定バッグ。


思いつく限りの贈り物を届けたが、朱音は一瞥すら寄せなかった。

ついに彼女が冷たく口を開く。


「御門宗一、いつまでつきまとうつもり?

いい加減、日本に戻ってよ。ここでウロウロされるの、迷惑なの」


宗一は喉を鳴らし、声を絞り出す。

「……本当にもう私を……許す気はないのか?」


朱音は微笑んだ。

その笑みはどこまでも静かで、どこまでも遠い。


「許すとか許さないとか、そんな話じゃないの。

……私の心の中に、もうあんたはいない。ただそれだけ」


その一言が、鋭く宗一の心を貫いた。

彼は悟った。


――朱音の心は、もう完全に、彼の手の届かない場所にあるのだと。


「久我惟成と……話がしたい」

ぽつりと、そう呟いた。


朱音の眉が寄る。

「話す必要なんてないでしょ」


「朱音ちゃん、大丈夫さ」


惟成が彼女の肩を抱き寄せ、気だるそうに笑った。


「ちょうどよかった。最近、お邪魔虫がうろちょろしてて、うんざりしてたところだったんだ」


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