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第22話


カフェの中で、久我惟成は静かにコーヒーをかき混ぜていた。


宗一の最初の一言で、彼の手が止まった。

「彼女を返してくれ。何でもあげるから」


惟成は眉をひそめ、興味深そうに聞き返した。

「何でも?」

「ああ」宗一は声を絞り出すように言った。「うちの会社の株、日本の土地、海外の資産……それに……」


目を閉じ、ため息をつく。

「梨花を、朱音に謝らせることだってできる」


惟成は急に笑った。

コーヒーをカップに戻し、青い瞳が冷ややかな笑みを浮かべる。


「御門宗一、まだわからないのか?

 羽瀬川朱音は、何かの物でも、商品でもない。


 彼女は一人の人間だ。血が通っていて、痛みも感じ、涙も流す。


 お前はかつて彼女の心を全て手に入れていたのに、それを自分の手で踏みにじった」


惟成は立ち上がり、宗一を見下ろしながら言った。

「今度は俺が、彼女を愛する番だ。お前は……」


彼は冷ややかな笑みを浮かべた。

「後悔を抱えて、残りの人生を過ごせばいい」


宗一はただ座っていた。

惟成の背中が遠ざかるのを見つめながら、ふと何年も前のことを思い出す。


羽瀬川朱音も、こうして何度も彼に拒絶され、また何度も涙をためて戻ってきた。

あの頃、なぜ気づかなかったのだろう……愛されることが、どれほど贅沢なことだったのか。


宗一はドイツでさらに一週間を過ごした。

毎朝、羽瀬川家の前に立ち、朱音の好きなバラを手にしていた。


昼間は、決まった場所で惟成の会社の前で待ち続け、遠くから朱音を見守った。


夜になると、朱音の部屋の前の木の下に立ち、灯りが消えるのを待った。


だが、執事からの電話が十八回目にかかってきた。

「宗一様、プロジェクトを延ばし続けると、少なくとも50億の損失です」


続いて、親からの電話も入った。

「宗一、いつ帰ってくるの? 最近、心臓が具合悪いのよ……」


電話を切り、宗一は羽瀬川家の別荘の前に立ち、二階の灯りがついている窓を見つめた。


窓のカーテンの向こうで、二人の影が抱き合っているのが見えた。

彼は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を入れた。


翌朝、羽瀬川朱音が玄関の扉を開けると、階段の下に御門宗一が立っているのが見えた。


目の下にかすかなくもが浮かび、あごには無精ひげが生えていた。

それでも背筋は真っすぐで、木のように立っていた。


「日本に戻らなくちゃいけない」宗一は声をかすれさせて言った。

「会社のことと、親の体調もあまり良くなくて」


羽瀬川朱音は無表情で答えた。

「いってら」

「戻るよ」宗一は執拗に繰り返した。

「全てのことを片付けたら、すぐに戻る」


「御門宗一」朱音はついに顔を上げて言った。「私はもう二度とあんたに会いたくない」


宗一はまるで聞いていないかのように、突然一歩前に進み、彼女の手にベルベットの箱を押し込んだ。

「待っていてくれ」


そう言って、彼は振り返ることなく去った。

その背中は決然とし、何もかもを賭けたようだった。


羽瀬川朱音は箱を開けた――中には新品の婚約指輪が入っていた。

内側には「S&A」と刻まれ、まだ彼の体温を感じるようだった。


彼女はしばらくそれを見つめ、ふと六年前の雪の日を思い出す。

その時、彼はただ「結婚しよう」と言っただけで、指輪さえ持っていなかった。


日本の雨は激しく降っていた。

御門宗一がの扉を開けると、玄関で小さな影がうずくまっていた。


「お兄ちゃん……」


御門梨花が顔を上げる。

かつて美しかった顔は、今や骨ばかりで、首にはあざが広がり、手首には赤い痕が残っていた。


彼女は飛び込むように宗一の胸に顔をうずめ、泣き叫んだ。


「後悔してる……本当に後悔してる……!

 私はもう、御門家のお嬢様なんていらない。ただお兄ちゃんが欲しいの……」


その時、外から急ブレーキの音が聞こえ、五十代の男が傘をさして駆け込んできた。

御門宗一を見た彼は、明らかに怯んだ。


「そ、宗一様……」


宗一は一度、梨花を軽く押しのけて、静かに言った。

「ほら、迎えが来た」


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