カフェの中で、久我惟成は静かにコーヒーをかき混ぜていた。
宗一の最初の一言で、彼の手が止まった。
「彼女を返してくれ。何でもあげるから」
惟成は眉をひそめ、興味深そうに聞き返した。
「何でも?」
「ああ」宗一は声を絞り出すように言った。「うちの会社の株、日本の土地、海外の資産……それに……」
目を閉じ、ため息をつく。
「梨花を、朱音に謝らせることだってできる」
惟成は急に笑った。
コーヒーをカップに戻し、青い瞳が冷ややかな笑みを浮かべる。
「御門宗一、まだわからないのか?
羽瀬川朱音は、何かの物でも、商品でもない。
彼女は一人の人間だ。血が通っていて、痛みも感じ、涙も流す。
お前はかつて彼女の心を全て手に入れていたのに、それを自分の手で踏みにじった」
惟成は立ち上がり、宗一を見下ろしながら言った。
「今度は俺が、彼女を愛する番だ。お前は……」
彼は冷ややかな笑みを浮かべた。
「後悔を抱えて、残りの人生を過ごせばいい」
宗一はただ座っていた。
惟成の背中が遠ざかるのを見つめながら、ふと何年も前のことを思い出す。
羽瀬川朱音も、こうして何度も彼に拒絶され、また何度も涙をためて戻ってきた。
あの頃、なぜ気づかなかったのだろう……愛されることが、どれほど贅沢なことだったのか。
宗一はドイツでさらに一週間を過ごした。
毎朝、羽瀬川家の前に立ち、朱音の好きなバラを手にしていた。
昼間は、決まった場所で惟成の会社の前で待ち続け、遠くから朱音を見守った。
夜になると、朱音の部屋の前の木の下に立ち、灯りが消えるのを待った。
だが、執事からの電話が十八回目にかかってきた。
「宗一様、プロジェクトを延ばし続けると、少なくとも50億の損失です」
続いて、親からの電話も入った。
「宗一、いつ帰ってくるの? 最近、心臓が具合悪いのよ……」
電話を切り、宗一は羽瀬川家の別荘の前に立ち、二階の灯りがついている窓を見つめた。
窓のカーテンの向こうで、二人の影が抱き合っているのが見えた。
彼は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を入れた。
翌朝、羽瀬川朱音が玄関の扉を開けると、階段の下に御門宗一が立っているのが見えた。
目の下にかすかなくもが浮かび、あごには無精ひげが生えていた。
それでも背筋は真っすぐで、木のように立っていた。
「日本に戻らなくちゃいけない」宗一は声をかすれさせて言った。
「会社のことと、親の体調もあまり良くなくて」
羽瀬川朱音は無表情で答えた。
「いってら」
「戻るよ」宗一は執拗に繰り返した。
「全てのことを片付けたら、すぐに戻る」
「御門宗一」朱音はついに顔を上げて言った。「私はもう二度とあんたに会いたくない」
宗一はまるで聞いていないかのように、突然一歩前に進み、彼女の手にベルベットの箱を押し込んだ。
「待っていてくれ」
そう言って、彼は振り返ることなく去った。
その背中は決然とし、何もかもを賭けたようだった。
羽瀬川朱音は箱を開けた――中には新品の婚約指輪が入っていた。
内側には「S&A」と刻まれ、まだ彼の体温を感じるようだった。
彼女はしばらくそれを見つめ、ふと六年前の雪の日を思い出す。
その時、彼はただ「結婚しよう」と言っただけで、指輪さえ持っていなかった。
日本の雨は激しく降っていた。
御門宗一がの扉を開けると、玄関で小さな影がうずくまっていた。
「お兄ちゃん……」
御門梨花が顔を上げる。
かつて美しかった顔は、今や骨ばかりで、首にはあざが広がり、手首には赤い痕が残っていた。
彼女は飛び込むように宗一の胸に顔をうずめ、泣き叫んだ。
「後悔してる……本当に後悔してる……!
私はもう、御門家のお嬢様なんていらない。ただお兄ちゃんが欲しいの……」
その時、外から急ブレーキの音が聞こえ、五十代の男が傘をさして駆け込んできた。
御門宗一を見た彼は、明らかに怯んだ。
「そ、宗一様……」
宗一は一度、梨花を軽く押しのけて、静かに言った。
「ほら、迎えが来た」