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エピローグ:開きっぱなしのドアと、その後の私





 私がこのアパートに引っ越してきた当初は、まさか自分がここまで心身を削られるような恐怖体験をするとは思っていなかった。家賃3万円、敷金礼金なし、駐車料金込み、そして会社まで徒歩5分――これほど魅力的な物件に、誰が「墓地が見える」というだけで敬遠などするだろうか。少なくともあの時の私は、多少の不気味さを感じつつも「カーテンを閉めてしまえば問題ない」と割り切れるつもりでいたのだ。


 しかし、実際に暮らし始めてみると、夜毎の家鳴りや古いテレビの故障、台所の水滴、そして薄暗い早朝の足音など、「単なる偶然」と片づけるにはあまりにも立て続けに恐怖体験がやってきた。もちろん、それらに超常現象や霊的な根拠があるわけではないと、頭では理解している。実際、ほとんどが古い建物や家電特有の不具合や、カラスの仕業だと説明がつくものだった。それでも、一度「恐怖」という感情が芽生えると、人間の想像力は簡単には落ち着かない。夜の闇や、窓の外にぼんやりと並んでいる墓石たちが、その想像力をさらに増幅させてしまうのだ。


 私は一時期、まるでノイローゼのようになっていた。家賃が安く会社に近い代わりに、「夜の安心」を犠牲にしているかのようだった。静寂に耳を澄ませれば家が軋み、水道のパッキンからは水滴が止まらず、テレビを消してコンセントを抜いても「幻の光」に怯える。最初は苦笑しながら「恐がりすぎだ」と自分を責めていたが、深夜に目を覚ましてしまう回数が増え、翌日の仕事にも支障が出始めた頃には、自分でも「このままで大丈夫なのか」と疑問を抱かずにはいられなかった。


 そんな私が、この物件での生活に決定的な不安を感じた出来事がある。それが「ドアが開きっぱなしになっていた朝」だ。いまでも、その光景を思い出すと背筋が凍るような感覚を覚える。


開きっぱなしのドア――思い出した恐怖


 あれは、まだ寒さの残るある朝のことだった。いつものように布団を抜け出し、眠い目をこすりながらリビング代わりに使っている和室を出て、台所で一杯の水を飲もうとした。すると、部屋の前の廊下の向こう――つまり玄関の方から、妙に冷たい風を感じたのだ。


 嫌な予感がしながらも、ゆっくりと玄関へ足を進める。そこで目にしたのは、ドアがまるで来訪者を招き入れるかのように大きく開いたままになっている光景だった。朝の薄暗い光が玄関から差し込み、外の冷たい空気が部屋の中へと吹き込んできている。信じられないことに、私は夜に鍵をしっかりかけたはずなのに、そのドアがまるで人の手で開けられたかのように“全開”になっていた。


 「……嘘でしょう? 私、昨夜ちゃんと鍵を閉めたよね……?」


 一瞬、頭が真っ白になった。もし本当に鍵をかけ忘れたのだとしたら、誰かが侵入していてもおかしくない。部屋を見回すと荒らされた形跡はなく、金品もそのまま。幸いにして何も盗まれたり壊されたりはしていないようだった。それでも、「鍵をかけたつもりでいて、実は閉め忘れた」というミスにしてはあまりに不可解だった。私はあの夜、むしろいつも以上に警戒して、ちゃんと鍵が閉まっているかどうか確認までした記憶があるのだ。


 だが、証拠は何もない。風で煽られた可能性もあるし、本当に自分が鍵を閉めていなかっただけかもしれない。理屈で考えれば、それが最も現実的な答えだろう。けれど、「なぜこんなにも大きく開いた状態で……?」という疑問は拭えず、頭のどこかで「もしかして、何者か――あるいは何か――がドアを開けたのでは」という荒唐無稽な発想が湧いてしまうのだった。


落ち武者の霊、そして別種の恐怖


 しかも私の場合、墓地が目の前にあるというだけで、夜中や早朝に「落ち武者の霊」という想像をしては怯えてきた経緯がある。最初は冗談のように「落ち武者が出てきたらどうしよう」と笑っていたものの、夜中にテレビが勝手につく現象や水滴の音に悩まされているとき、「もし本当にそんな霊がいるのなら、ドアを開けて侵入してきても不思議じゃない」と真顔で考えてしまう瞬間があった。


 もちろん、落ち武者なんて荒唐無稽な話だと、普段の冷静な私はわかっている。それでも、夜中に布団の中で恐怖心が増幅した状態だと、ありえない想像が現実味を帯びて迫ってくる。結果として私は、「鍵をかけ忘れていただけ」と結論づけるしかない状況でも、心のどこかで「何か得体の知れないものが、私の知らぬうちに玄関のドアを開けていたのでは」と疑念を捨てられずにいる。


 その朝、玄関が全開だった光景を思い出すたびに、私は背筋が寒くなる。もし誰かが侵入してきてもおかしくない状況だったわけだし、物理的な危険はもちろん、心霊的な不安も拭い去れない。結局、あのときの真相はわからずじまいで、私の中では、あの“開きっぱなしのドア”が起こした事態は、他の奇妙な現象の総決算のように思えてならない。


ノンフィクションというリアリティ――事実だからこその恐怖


 ここで強調しておきたいのは、これらのエピソードが私の実体験であるということだ。フィクションなら「落ち武者が本当にいた」という結末があってもおかしくないが、現実にはそうはっきりとしたオチなど存在しない。テレビの勝手な電源オンも、水滴の音も、屋根の上の足音も、最後には「ただの故障」や「カラス」に落ち着くことが多いし、ドアに関しても「鍵のかけ忘れや風で開いた」という説明で片づけられるのだろう。


 しかし、そのすべてが「偶然」であり「故障」であり「思い込み」だけで説明できるのか――私はいまでもときどき疑問に思う。なぜ短期間のうちに、これほど多くの“不思議な出来事”が重なったのか。あの安すぎる家賃と、あまりにも便利すぎる立地に、裏側で潜んでいた何かがあるのかもしれない。もし私が疑り深い性格だったら、心霊スポットや曰く付き物件の可能性を真剣に調べていたかもしれない。


 とはいえ、私はそこまで突っ込んだ調査をする勇気はなかった。むしろ、墓地が見える日常を早く忘れたい気持ちのほうが強く、夜中の異常現象を深く追求することは避けてしまった。結局、人間は怖いものからは目を背けたがる生き物なのだ。


防犯意識と、もう一つの教訓


 ドアが開きっぱなしになっていた朝、もし誰かが侵入してきていたら――想像するだけで恐ろしいが、幸いにして私が被害に遭うことはなかった。だが、あの光景が教えてくれたのは、一人暮らしである以上、閉じまりの徹底がいかに重要かという現実的な教訓だった。


 私はそれ以降、夜になると必ず玄関の鍵を二重三重に確認し、ドアチェーンもしっかりかけるようになった。リビングの窓も同様で、換気をする以外は極力開けっ放しにしない。こうした防犯意識は本来、墓地の存在など関係なく必要なことではあるが、私にとっては心霊的な不安や「落ち武者」の想像も相まって、半ば強迫観念のように「鍵をかけなければ」という気持ちが強くなったのだ。


 そしてもう一つ、別種の教訓も得た。それは、“恐怖は人間の想像力を際限なく掻き立てる”ということだ。夜中の足音がカラスであったように、水滴やテレビなども基本的には合理的に説明がつく。だが、一度怖いと感じると、「もし違ったら」「万が一霊の仕業だったら」と思考が止まらなくなり、どんどん深みにはまっていく。あのドアが開きっぱなしだった朝も、たとえ鍵のかけ忘れであっても、私の中では「何かが開けた」可能性がゼロにはならない。冷静に考えれば馬鹿げているとわかっていても、その馬鹿げた想像が夜になると強まる――これが、日常の中で起こる“心霊ホラー”の本質なのだろう。


いま振り返って思うこと


 引っ越してから何か月か経った後、私は転職先での仕事も落ち着き始め、夜中の物音やドアの施錠などに慣れが出てきて、少しずつ穏やかな気持ちを取り戻していった。カーテンを完全に閉めれば墓地の景色は視界に入らないし、家鳴りや水滴も「古い建物ならこんなものだ」と自分に言い聞かせることで、神経をすり減らさずに済むようになってきた。


 テレビの故障に関しては、結局ブラウン管を修理に出すお金もなかったので、そのままコンセントを抜く生活が続いた。いつか余裕ができたら液晶テレビに買い替えよう、と半ば開き直り、夜に余計な心労を負わないよう注意した。夜が怖い分、昼間の暮らしをできるだけ楽しむ工夫をするようになり、休日にはスーパーやファーストフード店を満喫し、会社まで徒歩5分の便利さをかみしめることでバランスを取っていたのだ。


 ただ、あの「ドアが全開だった朝」の記憶は、今でも私に鮮烈な教訓を与えてくれる。いつものように確信を持って鍵をかけたはずなのに、それが無意味だったかもしれない――という事実は、一人暮らしの防犯を甘く見てはいけないという戒めだけでなく、物理的・心理的な両面での脆弱さを思い知らせる。怖いのは目に見えるものだけではなく、「自分が知らないうちに開けられる」という状況そのものが生む不気味さだ。霊的要素が加われば、恐怖はさらに何倍にも膨れ上がるのだから始末に負えない。


 いま振り返れば、私の恐怖は大半が「自己暗示」や「過剰な想像」によって肥大化していたのだろう。それでも、これはノンフィクション――紛れもない実体験だ。つまり、ほとんどの出来事は単なる勘違いや故障、自然現象などで説明がつく一方で、それでもなお消えない不安や合理的に説明しきれないモヤモヤが残るのがリアルな生活の厄介さなのだと思う。


結び:開きっぱなしのドアが教えてくれたこと


 あの朝、ドアが開きっぱなしになっていた光景を思い出すたび、私はこう考えるようになった。「便利で安い物件には理由がある」とは、不動産業界の人間がよく口にする言葉だ。私の場合、その“理由”は単純に「目の前が墓地」という立地条件かもしれない。けれど、実際には墓地という存在が私の心理を多方向から揺さぶり、家鳴りやテレビ、水滴といった普通なら気に留めない現象をことごとく恐怖へと変えてしまったのだ。


 そして最後のオチのように現れた「玄関ドアの全開事件」は、私の心に大きな警鐘を鳴らした。「鍵をかける」という当たり前の行為が、当たり前ではない状況を生む可能性がある。霊が開けたのか、私が閉め忘れたのか、風が吹いたのか、真相はわからない――けれど、どんなに疑っても確認しても、100%安心できる保証はないのだと痛感した。


 結局、私は数年後にまた別の転職で引っ越しを余儀なくされ、このアパートを出ることになった。最終的には「恐怖に耐えられなくなった」というより、「仕事の都合で住む場所が変わった」という経緯だったので、そこまで劇的な幕引きではない。だが、引っ越しの荷造りをしている最中、ふと「こんなにも不安だったのに、よく何年も住んだな……」と、妙な感慨にふけった記憶がある。生活の便利さは恐怖をある程度までは上回っていたし、人間とは慣れる生き物なのだとも実感した。


 いまこうして振り返ってみても、不安や怖さを完全に拭い去ることはできない。けれど、実体験としては、どれもこれも冗談のように思える出来事ばかりだ。落ち武者の霊なんて、あるはずがない。ただ、夜中の静寂とカーテン越しに広がる墓地の影が、私の中でさまざまな幻想を生み出していただけなのだろう。それがノンフィクションのもたらす不可解であり、同時に滑稽でもある側面なのかもしれない。


 とはいえ、一人暮らしをする人には言いたい。「閉じまりは入念に、念には念を入れて」。そうでなければ、私のように、ある朝突然「ドアが開きっぱなし」の光景を目にして、物理的にも心理的にも大きなショックを受けるかもしれないのだから。もしどれだけ頑張って鍵をかけたとしても、何かの拍子で開くことがある――その恐怖を、私は身をもって知った。


 私が経験したこの話は、結局のところ大半が笑い話にもなるし、いま思えば浅い根拠で怯えていた部分も多い。だが、当時の私にとっては「いつか落ち武者がドアを開けて入ってくるかもしれない」という想像がリアルな悪夢そのものであり、それを振り払うのに随分な時間がかかった。


 そう、これは紛れもなく私の実体験だ。どこかで誰かが同じような境遇に置かれたなら、きっと私の気持ちをわかってもらえるだろう。安さと便利さを手に入れる代わりに、夜の安心を多少なりとも手放す可能性がある――それを理解した上で住むならば、墓地ビューの物件も案外悪くないのかもしれない。実際、私は今も「あの頃は怖かった」と笑い話にする余裕ができた。


 しかし、もし同じ状況が再び訪れたら、私は今度こそ鍵の確認を何重にも行うだろうし、夜に窓から墓地を覗くような行為はしないだろう。あのアパートでの生活が教えてくれたのは、「知らないほうが幸せなこともある」 という単純な事実だ。ドアも窓も閉じてしまえば、景色も音も耳に入らないし、テレビのコンセントを抜いておけば、不気味な画面を見ることもない。そして何より、朝起きてドアが全開になっているなんて、想像するだけで冷や汗が出るものだから。


 私は結局、あの玄関が開いていた朝について、確固たる答えを得ることはできなかった。だが、たった一つ確かなことがある――もし落ち武者の霊が鍵を開けていたのだとしたら、私は今こうして無事でいるわけがない、ということ。そして、「墓地付きアパート」で起こる奇妙な出来事の大半は、結局のところ自然現象か人間の思い込みに過ぎないということ。どちらを信じるかは読んでいる人の自由だが、私は少なくとも「自分が思い込みに振り回されやすい」という自覚を強く得られた点で、この物件に住んだ意味はあったのかもしれない。


 どんなに安くて便利な物件でも、夜の安心と防犯意識をおろそかにしてはいけない。私のこの体験記が、同じような環境に住む人や、これから一人暮らしを始める人の一助になれば幸いだ。そして、もし夜中に物音がしても、早朝に屋根の上を歩く足音を聞いても、玄関ドアが全開になっていても、まずは冷静に物理的な原因を疑ってほしい。それで解決すれば一番いいし、それでも納得がいかなければ――そのとき初めて霊的な要素を考えてみても遅くはないのだから。


 私にとって、あのアパートでの日々はいつまでも忘れられない記憶として残り続ける。朝の光の中で「落ち武者が開けたのかもしれない」なんて馬鹿な想像をしながら、ドアが大きく開いた玄関を見つめたあの日のことを、今でもときどき思い出すたびに、わずかに背中を寒くする。そして、「ノンフィクションというものは、案外こういう曖昧なまま終わる」 という事実を噛みしめるのだ。


 終わらない恐怖、あるいは笑い話――それは全て読み手と書き手の心の在り方次第。私の物語が、あなたにとって一つの教訓、あるいは好奇心を満たすエピソードになれば嬉しい。





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