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第5話 :早朝の足音





1. 静寂を破る「コツ、コツ」という音


 私がこのアパートに引っ越してきてから、すでに数週間が経っていた。窓の外には墓地が広がり、夜になると家鳴りやテレビの異常現象、そして水滴の音が私を悩ませ続けている。どれも決定的な脅威ではないはずなのに、夜毎、暗闇の中でそれらがもたらす恐怖感は増していく一方だった。寝不足は慢性化し、会社でもミスが増え、心身ともに疲弊していた。


 そんなある日の早朝、私は新たな恐怖に襲われることになる。きっかけは、まだ薄暗い春先の朝だった。時計を確認するまでもなく、体感的に「まだ夜明け前」とわかる時間帯。いつもなら布団の中でぎりぎりまで眠りたいところだが、その日は何かの音でふと目が覚めた。


 最初は「カサ…カサ…」という、ごく微かな音だったように思う。寝ぼけた頭で、「また水滴の音か」と思ったが、どうやら違う。よく耳を澄ませると、どうもこの音は上――つまり、天井の方から聞こえてくるようだ。


 「……なにか、屋根の上で動いている……?」


 それに気づいた瞬間、私の全身に一気に緊張が走った。2階建てのアパートで、私の部屋は最上階。上には屋根しかない。通常、人が行き来するスペースではないはずだ。それなのに、そこで妙な音がするというのは、何かおかしい。


 布団の中で固まっていると、音は少しずつ明確なリズムを帯び始める。最初は「カサ、カサ」程度だったのが、次第に「コツ…コツ…」という、まるで靴底が木の床を踏むかのような音へと変化していった。


 「……まさか、誰か歩いてる……?」


 頭の中が混乱し、「こんな朝早くに屋根に登って何をしているのか」と疑問ばかりが浮かぶ。私は恐怖に耐えかねながら、布団にくるまったまま天井を見つめた。


2. 「まさか落ち武者の霊かも」という想像


 数多くの怪異めいた現象を体験してきた私の脳裏には、真っ先に「墓地」の存在がよぎった。夜中ではなく早朝に、屋根の上で誰かが歩くような音がする――もしや幽霊か何かが徘徊しているのだろうか。馬鹿げているとわかっていても、一度そう思い始めると止まらない。


 特に、私はなぜか「落ち武者の霊が出たらどうしよう」という想像をよくしてしまう。どこで刷り込まれたのかわからないが、血まみれの甲冑を着た武士が、この墓地を拠点にさまよっている――そんな発想が、夜中や薄暗い朝方の恐怖を増幅させるのだ。


 「落ち武者なんて、ここは戦場跡地でも何でもないはずなのに……」


 頭ではそう思っても、私の心は完全に冷静さを失い、最悪の状況を思い描いてしまう。もしドアを開けたら、そこに落ち武者の霊が立っていたら――そんな想像が浮かぶだけで、布団の中で震えるしかなかった。


 音は止まらない。*「コツ…コツ…」*と一定のリズムで行き来するような気配を感じる。どうも一か所に留まらず、屋根の上を行ったり来たりしているようだ。人の足音に近いが、重さや速度がやや不自然にも思える。このあたりで私は「人間ではないかも」と考え始め、ますます怖くなった。


3. ドアを開ける恐怖との葛藤


 「このまま放っておくべきか……、それとも外に出て確認すべきか……」


 布団の中で縮こまりながら、そう悩んでいるうちに心臓の鼓動が早まっていく。もし本当に誰かが屋根に登っているとしたら、一体何の目的があってこんな早朝に? 泥棒や不審者の可能性だってある。だが、こんな時間に屋根をよじ登るなんて、現実的とは言えない。


 私は意を決して、布団からゆっくりと体を起こし、床に足を下ろした。カーテンは閉めているが、薄暗い外の光が部屋の中に少しだけ差し込んでいる。時計を確認すると、朝の5時前。まだ早朝と呼ぶには十分な暗さだ。


 “ドアを開けて外に出るか、それとも見なかったことにするか”――。私はしばし葛藤した。怖いのはもちろんだが、もし屋根に誰かがいたとして、そのまま放置していいのかという正義感めいたものも働く。しかし、このアパートには管理人らしき人物がいない。大家も近くには住んでおらず、万が一トラブルがあってもすぐに助けを呼べる状況ではない。


 さらに、「ドアを開けたら落ち武者の霊が立っていたらどうしよう」といった馬鹿げた発想が頭をかすめる。想像力が暴走すると、玄関を開けるという行為すら途方もなく恐ろしく感じられた。


4. 覚悟を決めて玄関へ


 それでも、私の中にあった“音の正体を知りたい”という好奇心と、“この状況を放置するのは余計に怖い”という思いが、最終的に行動を起こさせた。私は小さく深呼吸をし、部屋着のままそっと部屋の扉を開ける。廊下に出ると、薄明かりの中、アパートの共用廊下は静まり返っている。誰の姿もない。


 階段を降りようかどうしようか迷ったが、まずは玄関ドアのところから外の様子を確認したほうがいいだろう。私はおそるおそる玄関に向かい、ドアノブに手をかけた。金属の冷たい感触が手の震えを増幅させるように思える。


 ここで再び頭をよぎるのは「ドアを開けたら、落ち武者の霊が立っていたらどうしよう」という理不尽な恐怖だ。現実的に考えればまずありえない話だが、夜中(早朝)の静寂と墓地の存在が、そんなありえない想像をさらにリアルにしてしまう。


 「でも、このままじゃ一生怖いままだ……!」


 意を決してドアノブをゆっくり回す。ギィ……という古びた音を立てて、ドアが少しずつ開く。外の冷たい空気が頬に触れ、身震いする。玄関の先には路地があり、さらにその向こうには大通り――そして墓地がある。もし何かの気配があるとしたら、そこでわかるはずだ。


5. 薄暗い外と屋根を見上げる恐怖


 ドアをわずかに開き、外の景色を確認する。春先とはいえ夜明け前の空気は冷え込んでおり、灰色の空がなんとも不気味な色合いをしている。路地には人影はなく、墓地側も静まり返っている。私の視界に入る限り、怪しい人物や霊的なものは見当たらない。


 けれども、問題は屋根の上だ。そこまで視線を持っていこうとして、一瞬ためらった。もし屋根を見上げて、そこに“何か”がいたら――考えただけで心拍数が跳ね上がる。けれど、知りたいという気持ちが勝った。


 意を決して顔を上げると、屋根の上には――一羽のカラスが止まっていた。黒々とした翼を少しだけ広げ、くちばしで瓦をつつくようにしている。その動きが「コツ、コツ」という足音に似た音を出していたのだろう。朝の静まり返った時間帯なら、鳥が屋根を歩くだけでも、下の部屋まで足音のように響くことがあるという話を聞いたことがある。


 「……なんだ、カラスか……」


 安堵のあまり、私はその場にへたり込みそうになった。落ち武者の霊だとか、不審者だとか、ありもしない恐怖に散々想像を膨らませていた自分が、急に馬鹿らしく思えてくる。


6. 一気に抜ける力――しかし消えない余韻


 カラスの姿を確認した瞬間、私の体から一気に力が抜けた。心の中の最悪の想定が霧散し、肩の緊張がどっと解ける。*「よかった……大したことなかった……」*という安堵に包まれると同時に、足元がふらつくほどの虚脱感に襲われた。


 それでも、一瞬前までの恐怖が完全に消えるわけではない。私はカラスが屋根を歩き回る音が、まるで人間の靴音のように聞こえた事実に、妙な寒気を感じずにはいられなかった。*「あれだけはっきりと“足音”に聞こえるものなんだろうか……?」*という疑問が頭を離れない。


 もしかしたら、カラスだけではなく、風や家鳴りなどの要素が複合していたかもしれない。あるいは、私の恐怖心が音を過剰に人間的な足音に変換させていたのかもしれない。いずれにせよ、あれほどリアルに聞こえた足音がただのカラスの仕業であるという結末は、私にとって拍子抜けするほど呆気なく感じられた。


7. カラスだけではないかもしれない、という疑念


 ドアの前で立ち尽くしながら、私は空を舞うカラスを見送った。そのカラスはしばらく屋根をつついたあと、低い声で「カァ…」と鳴き、ばさりと翼を広げて飛び去っていく。朝の薄明かりの中で見るその姿は、決して美しいものではなく、不吉な印象さえ与えてくれた。


 「これで全部解決したはず――ただのカラスなんだから」


 頭ではそう思い込もうとするが、心の奥には妙な違和感が残る。落ち武者の霊だとか不審者ではないにしても、あの足音が本当にすべてカラスだったのか、確証が得られないままだったのだ。


 過去に家鳴りやテレビの電源、そして水滴の音など、説明のつく故障や現象に怯えすぎてきた経緯がある。けれども、最後の最後には「もしかしたら本当に何かがあるのでは」と、完全には拭い去れない思いが心に宿っていた。


8. 日常に戻る一瞬と、連鎖する恐怖


 カラスの正体を見たあと、私はいったん部屋に戻って着替えをし、早めに出勤の準備をすることにした。こんな朝っぱらから大騒ぎをした自分が恥ずかしく思え、少しでも日常のルーティンを取り戻したかったのだ。洗顔をして朝食を摂り、気を取り直して外に出る。いつもよりも早い時間だったが、外はもう幾分か明るさを増していて、あの霧のような薄暗さは消えていた。


 会社まで徒歩5分という立地はやはり便利で、朝の勤務には遅刻とは無縁だった。昼間のオフィスで仕事に集中している間は、落ち武者の霊だとかカラスの足音のことなど冗談に思えるほど、現実味が薄れる。


 しかし、私の場合は夜が来るたびに、その「冗談」が真実の恐怖に戻ってしまう。カラスの一件でいったんは安心したものの、心のどこかで「今度は何が起こるんだろう」と身構えてしまう自分がいた。「家鳴り」「テレビの電源」「水滴の音」「早朝の足音」――こんなに次々と不気味な現象が起こることなど、普通の暮らしではありえないと思えてならない。


9. 屋根の上の音が教えてくれたもの


 翌日以降、朝の足音は聞こえなくなった。おそらく、カラスが気まぐれに屋根をつついていただけで、同じ行動を繰り返すとも限らないのだろう。私はそれを知り、夜中の恐怖とはまた別の安堵を得た。結果的には大きな問題ではなかった――そう、結論づけられる。


 だが、私の中でこの「早朝の足音」事件は一つの転機になったように思う。あれほど人間の足音らしく聞こえたものが、ただのカラスの仕業だった。つまり、私が過度に恐怖心を肥大化させていたのだ。それは、墓地があるという心理的重圧が誘発した幻聴や錯覚に近いものだったのかもしれない。言い換えれば、「私は精神的にかなり追い詰められている」という自覚を持つきっかけにもなった。


 昨夜までの私は、家鳴りもテレビの電源も水滴の音も、すべてどこかに“霊的な原因”を疑っていた。一方で、カラスという現実的な生き物が、あれだけの大きな音を出せるのだと知ったとき、「他の現象も本当は全部説明がつくのではないか」と考え始める自分もいた。


 しかし、それでも「説明がつく」と思い切れないのが恐怖の難しいところだ。合理的な説明がある一方で、一度入り込んだ「もしかしたら」という可能性を完全に否定しきれない。墓地を目の前にしている以上、何か非合理なものを呼び寄せているように思えてならなかった。


10. 第5章の終わり――安堵と疑念の共存


 こうして、私は早朝の足音の正体を一応カラスだと納得し、ひとまず大きな不安からは解放された。朝に耳を澄ますと、確かに遠くでカラスが鳴く声が聞こえることがあるし、屋根にとまっている姿を何度か目撃もした。足音に関してはおそらくそれだけの話で、危険でも何でもなかったのだろう。


 だが、カラスの正体を知ったことで、一時的に「怖い思いをして損をした」という虚無感にも襲われた。たったあれだけのことに、私は朝5時前からドアを開けて震え、落ち武者の霊がどうとか、本気で想像していたのだ。自分がいかに不安定な状態にあるかを思い知らされると同時に、夜に積み重なった恐怖がどれだけ私の判断力を蝕んでいるかを痛感した。


 心のどこかで、「もしあのときドアを開けたら、本当に何かが立っていたかもしれない」と思い返す自分もいる。結局、その「何か」は存在しなかったが、私の中では可能性として消えていない。合理的には説明できても、感情が完全に納得するわけではない。墓地という舞台装置がもたらす想像力の暴走から、私は逃れられないままだ。


 この先、私はさらにこのアパートで過ごしながら、夜には家鳴りや水滴の音を恐れ、早朝には屋根からの不穏な気配に震える日々を送ることになる。カラスがすべての足音の正体だったのか、それとも別の要因が混じっていたのか――真相は定かではない。何度「大丈夫だ」と言い聞かせても、私の中で「次は何が起こるんだろう」という疑念が拭い去れないからだ。


 「便利さと安さに釣られて、このアパートを選んだけれど、本当にこれでよかったんだろうか……」


 早朝の寒空に消えていくカラスを見送ったあと、私は初めて本気でそんなことを考え始めた。会社まで徒歩5分、家賃3万円、敷金礼金なし――一見お得に思えた物件の裏で、私は日常の安心を切り売りしているのかもしれない。夜が来るたび、早朝が来るたび、何かに怯えて疲弊していく生活を、このまま続けていいのか。それとも、自分が神経質に考えすぎているだけなのか……。


 こうして私は、カラスの正体を知ってひとまずの安堵を得たものの、胸の奥には深い疑問と不安が生まれた。今度は何に怯えるのか、いつになったらこの恐怖から解放されるのか――あるいは、こんな生活がずっと続くのではないか。そんな思いを抱えながら、私はこのアパートでの日々を続けていくことになる。


 最終的にはただのカラスだったのに、私は朝の5時前からパニック寸前になり、ドアを開けるのさえためらった。もしあのとき、ドアを開けたら落ち武者の霊が立っていたらどうしよう――そんな想像を、本気でしてしまうほど追い詰められていたのだ。結果は拍子抜けするほど単純だったが、だからといって、私の恐怖がすべて解決されたわけではない。墓地が存在する限り、家鳴りやテレビや水音のように、また別の形で私を脅かす何かが現れてもおかしくないという考えが、頭を離れなくなっていた。


 そして、この部屋の本当の怖さは、まだ序章に過ぎなかったのだ。





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