これは、聖女候補の、今からほんの少しだけ昔の話。
聖女候補セレン-コバルトは、自分の生まれた故郷、家族、それらすべてを愛していた。
王都、つまりはコヨミ王国の一の都市からは普通の乗合馬車だと二週間ほどかかる八の街。
その街に、たった二つしかない小さな診療所の娘。
それが、セレン-コバルト。
家族は、このような土地になぜ、というほどに優秀で優しく美しくときに厳しい医師の母と、なぜか鍛え上げられた体躯と、それから爽やかな笑顔が眩しい薬師の父。
実はもう一人、セレンにとって兄のような存在がいるのだが、極度の人見知りのため、彼は家族以外とはほぼ交流がない。
もちろん、セレンにとっては三人ともが、大切な家族である。
そして、三人も、セレンと家族とを、心から愛していた。
貴族階級と比べることはさすがにできないものの、毎日のおいしい食事と、あたたかな寝具。
それくらいの生活は、じゅうぶんにできていた。
そして、街の人々から寄せられる、深い感謝。
セレンたち、コバルト家の皆は、幸せだった。
また、セレンは、勉強が好きだった。
医師である母からは個別に学問を習うこともできたし、さらに、コヨミ王国では、義務教育で計算や文字を学ぶことができ、それにパンとスープとサラダなどの昼食を給食として食べさせてもらえるのだ。
そんな祖国の民であること。
これはたいへんに恵まれていることであると、セレンは義務教育とそれから本と新聞を読むことで知っていた。
セレンがおつかいに行くたびに歓迎してくれていた新聞屋台の屋台主も、『こんなにたくさんの新聞が発行されている国はそうはないよ』と笑っていた。
よその国には、戦争のせいで家族離れ離れになって、孤児院に住んでいる子ども達もいると聞く。
一方、コヨミ王国には、孤児院はたいへんに少ない。
存在はするが、どちらかというと移民などのためのものという感じだ。
代わりにと言うべきか、聖教会はどの街や村にもあって、小学部と中学部を卒業したら、聖教会の仕事を手伝うと学舎で医療の勉強もさせてもらえるのである。
八の街には、優秀で真面目、向上心もあるセレンの学力に合う学舎は存在しなかった。
そこで、母か父、どちらかの仕事を継ぎたかったセレンは『魔力鑑定もしてもらえるから丁度いいよね』と、家族に相談して、中学部を卒業後、聖教会に通うことにしたのだった。
『気にしないで、八の街以外の学舎に進学してもいいんだよ。遠慮しないで』
両親と兄のような存在からはこう説得をされたが、この進路を決めたのはセレン自身だ。
セレンは、八の街に、家族のそばに。
いたかったのだ。
朝起きて家族四人皆でご飯を食べて、診療所の入り口の掃除をしてから学舎に向かう。
勉強をして、お昼を出してもらったら、聖教会の仕事のお手伝い。
掃除洗濯や、雑巾を縫うとか包帯を巻くなど。
休憩時間はきちんとあるし、お茶は毎日出されて、たまにはおいしいお菓子ももらえる。
それなのに、小遣い程度ではあるが、給金も出るのだ。
セレンは、この生活が好きだった。
しかも、休憩時間には本も読めるのである。
たとえば、『コヨミ王国建国史』。
セレンの気に入りの本。
立派な装丁の、革張りの活字本だった。
司書に願い出て、台帳に名前を書き、手袋をしたら、休憩時間内と仕事終わりの定時までは、自由に読むことができる。
セレンは、厚い本の内容をほぼ記憶していた。
たとえば、『建国から現在に至るまで』の一文は、こうである。
『かつて、平民に圧制をしく王国が存在した。その王国は、もともとは精霊を敬い、精霊からは愛された国であった。
精霊達からの嘆きを受け、精霊王は自分の直参と竜族の若者、そして異世界からの転生人を選び、その国を
異世界からの転生人は長年連れ添った相手を穏やかに看取り、子供夫婦と孫と心を通じ、その上で、もし自分の消息が絶えても、したいことをした結果なので決して嘆かないでくれと厳命したのちに、余生を旅をすることで過ごしていた市井の徒であった。
精霊王は、かの人が住まう世界の高い徳を有する高位精霊に頼み、納得できる形で転生をしてもらうことに成功した。
直参、若者、異世界人。
三人は王国に渡り、精霊達と共に国を救い、曾ての王族とそこに準ずる者達を退けた。
その功績を称え、精霊王は新しい王国に贈り物をされた。
恐れ多くも、精霊王が聖霊王より苗木を頂き、手ずから育てられた精霊樹に宿った特別な宝珠、精霊珠である。
しかも、それはさらに稀なる、双珠。
二つの宝珠は一つは『和』、もう一つは『知』を守るものであった。
三人は前者を王宮に、後者を若き竜族が長となった学院に収めた。
この学院は現在までその竜族が学院長を務めており、全ての身分の者に開かれている。
王立学院に入学できない者であっても、全ての国民が修学の機会を得ることができるため、この国の識字率は非常に高い。
異世界からの転生人は多くの者に国王就任を望まれたが、亡くなるその日まで固辞をし続けた。
全ての国民が転生人を悼み、新しい国名を持たなかったこの国は転生人の名字を国名として、二代目の国王として転生人に最もよく仕えた部下が認められた。
初代国王の意志を継ぎ、平民と貴族とで身分差別など行わず、精霊王様の願いのとおり精霊を敬い精霊から愛される国であれば、二つの精霊珠はこの国を永遠に護ると
民は、歓喜した。
のちに、数百年に渡る長年の務めを終えて精霊王の直参の精霊殿は精霊の国に帰還をされたという。
そして、現在も王国の王都、一の都市では王宮で女王陛下と王配殿下が和の精霊珠殿と共に民を、王国の学びの都市、二の都市では王立学院の学院長たる竜族が知の精霊珠殿と共に学院の皆を見守っている。
二つの精霊珠殿がこの国に存在しているということは、精霊王様のご加護が今もこのコヨミ王国に現存しているという何よりの証である』
こんなに素晴らしい本を、読ませて頂けるなんて。
セレンは、深く感激し、厚く感謝をした。
学ぶことも、働くことも、楽しい。
『このままこんなふうに勉強と仕事を頑張って、いつか医師さんか薬師さんになりたい。できれば、旦那さんもどちらかの仕事の人で。そして、この街に小さくていいから三番目の診療所を建てられたらいいな』
セレンは、そう思っていた。
できることならば、それが診療所ではたくて病院であれば、もっと嬉しいと。
そのまま何ヶ月かが平和に過ぎて、セレンは無事に魔力鑑定を受けることができた。
水晶に手をかざして、暖かいとか冷たいとか、何かを感じることができれば魔力があるのだ、と担当者に言われた。
セレンは『何か』を感じたけれど、何なのかが分からなくて、『変な感じ』と本当のことを言ってしまった。
いけない、とセレンは思ったが、誰にも叱られはしなかった。
その代わり、司祭の部屋に連れて行かれて、『もう一度、別の水晶に手をかざしてみなさい』と優しく言われた。
穏やかで、八の街の皆から尊敬されている司祭の言葉。
セレンは、言われるままに手をかざした。
そして、言った。
『もっと変な感じ』と。
それからは、セレンにとってみれば、大して面白い話はなにもなかった。
セレンは、大好きな八の街から出ることになってしまったのだから。
『聖魔法が使える素質がある者はもっと大きな聖教会で勉強した方がいいのだよ』
そう、司祭に説得されたのだ。
セレンも家族も、変化などは求めてはいなかった。
かれらは、今のままが良かったのだ。
しかしながら、きちんとした聖魔法の勉強をするなら二の都市にある王立学院に通いながら時々聖教会本部で講義を受けるのが一番いいらしいという話には、信憑性があった。
ちなみに、聖教会本部は王都にあるのだ。
まさか、であった。
あの、『コヨミ王国建国史』に書かれていた王立学院に編入だなどと。
『全くの平民、根っからの庶民のセレン
セレンは、そう回想する。
大きな聖教会は、八の街からは『ちょっと遠い』七の街にあった。
月に一度、たまには二度。必ず家に帰してもらえたし、手紙も自由。
他の聖女候補の子たちも、皆、真面目で優しかった。
たくさん勉強ができて、友人が増えて。
セレンは、七の街を、好きになった。
ただ、およそ一年後に、王立学院に編入すること。
それだけが、セレンの気がかりだった。
その七の街では、学院のいろいろも学んだ。
知識や教養以外のことである。
セレンの解釈では、雑学的なことも。
たとえば、王位継承順位が一番低い、もしかしたら継承権なしの、王太子様じゃない第三王子殿下が学院にいらっしゃるとか、筆頭公爵令嬢で法務大臣令嬢であられる素晴らしいお方が王子様の婚約者であるとか。
そういうことも、色々教えてもらえた。
面白いな。
少なくとも、セレンは、そう考えていた。
しかし、雑学的なものではない、高度な知識が増えるその度に、セレンの心の中には、場違い感がどんどん増えていく。
『お母さんもお父さんも、兄ちゃんも。あたしが聖女候補になったことは、名誉なことだと喜んでくれた』
そうだよね、とセレンも頷いた。
けれどそれは、セレンも母も父も、本心ではなかった。
兄ではないが兄のような、セレンの兄ちゃん。
『父さんの代わりに、話を壊してやろうか』
優しい、家族思いの彼。
こっそりと、セレンに告げたくらいだ。
じっさい、それくらいの力はある兄のような存在なのである。
その力は、権力ではなく、物理であるが。
『兄ちゃん、ありがとう』
だが、その気持ちが。
嬉しかった。
セレンは、どうするべきか、は理解していた。
しかしながら、『ほんとうに名誉なことだと喜べる人に、この聖魔力があれば良かった』
セレンは、そう思っていた。
きっと、家族も。
ままならない。
セレンが欲しかったのは、医療ため、患者のための魔道具を問題なく使える程度の魔力であったのに。
明日は編入の準備のために、学院と寮とがある二の都市に旅立つ日である。
街道の幾つかの街までは、父が付いてきてくれることになった。
警護の冒険者よりも、はるかに頼れる存在だ。気持ちでも、警護面でも。
冒険者たちが父に向かって敬礼をしていた気がしたが、あれはなんだったのか。
なんでもないよ、と父は、笑っていたので、たぶん、そうなのだろう。きっと、真面目な冒険者たちなのだ。
『お父さんが付いてきてくれるのは、嬉しい。けど』
次に、母に、そして、兄のような兄ちゃんに。
会えるのは、いつになるのだろう。
セレンは、家の窓から、八の街の景色を眺めていた。
大好きな、八の街。
七の街も、好きだった。
学院は、王都は。
聖教会本部は。
どうなのかな。
あたしは、それらを、どんなふうに思うのだろうか。
そう、考えながら。